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第49回 随筆随想コンクール 最優秀作品

慈愛に満ちたことば

 岡山県 竹内 昌彦(たけうち まさひこ)

 その年の春、全国の盲学校の理療科の先生方は大騒ぎをしていた。教育課程が大きく変わり、大学の単位制が理療科に入り込んできたのである。最も懸念されることは、理療科の授業数が減るのではないかということだった。これは資格試験を目指す生徒たちにとって大きな痛手となる。しかし、一つだけ解決法が見つかった。それは普通科と理療科の科目の指導内容がおおむね一致すれば、普通科の授業を理療科に替えてもいいという規定であった。当時、岡山盲学校の理療科を代表していた私は、この規定に着目し、普通科の先生方にお願いしてみた。すると理科担当の若い先生が、
 「高校の生物は、人間とその環境を中心に教えることになっています。県の教育委員会がいいと言われるのなら、生物を理療科に替えていただいて構いませんよ」
 と言ってくださった。校長さんも大賛成で、早速、県教委との話し合いが始まった。ところが、県の理科の担当者は簡単に私たちの希望を受け入れてはくださらない。途方にくれているある日の朝、私は校長室に呼ばれた。
 「竹内さん、今日の四時までに、生物で教える内容のどの部分は、理療科の授業のどこで教えることになっているか、わかり易くまとめて県に持って行きなさい。それを見て最終決定をするということらしい」
 と校長さんはこともなげに言われた。しかし、これを聞いて私はあわてた。
 「先生、生物の教科書もその指導書も全部墨字ですから、私はそれを読んでもらわないと資料を作ることができません。なんとか明日の朝までというわけにはいきませんか」
 とお願いした。ところが案に相違して、校長さんから返ってきた言葉は厳しかった。
 「そんなことは関係ない。とにかく四時までに作って持って行きなさい」
 いつもの優しい校長さんではなかった。「目が見えないから墨字の本が読めないことなどは関係ないとは何と無理解な」との思いが、熱しやすい私の頭に駆けのぼってきた。しかし、冷静な部分も僅かだが残っていた。これまで校長さんは、私に対していつも「目が見えないのだからできるだけ助けてやらなければ」という優しい心で接してきてくださった。しかし、今日の「関係ない」の言葉は、その配慮を取り去ってのものだ。校長さんは今初めて、私を一人前の教師として見てくださっているのではないか。いつまでも甘えていてはいけない。ここまでたどり着いて私は答えた。
 「分かりました、やってみます。家のワープロの方が使いやすいので、作業は家でやらせていただきます」
 そう言って校長室を飛び出し、タクシーが来るまでのあいだに生物学の関係資料をかき集めた。
 我が家では幸い妻がどこへも出かけずにいてくれた。早く帰ってきた私を見て驚いている妻に、私は「急ぎの仕事ができた。お昼ごはんはいらないからこの本を読んでほしい」と言って、生物の教科書を突き出した。録音などしている暇は無い。必要な箇所を読んでもらいながら、要点を点字に書き取っていった。理療科の中身はだいたい頭の中に納まっている。一度も時計を見ずに、資料作りに没頭した。
 作業が終わったとき、時計の針は三時を少し回っていた。妻の車で急いで県庁に行き、出来上がったばかりの資料を係に手渡したのは三時五十分だった。ほっとして盲学校に戻る車の中で、私は助手席のシートを倒し、ほてっている頭を冷やしにかかった。県教委は学校現場の書類が必要になったとき、いつも「昼までに持って来い」とか「二時までに」などと、せっかちなことを言う。それが今日に限って「四時までに」ということで助かったなあ。ぼんやりとした頭でこんなことを考えていて、私ははっとした。もしかして今日も「二時までに持って来い」という指示ではなかっただろうか。それを校長さんが「うちの竹内は目が見えませんからすぐにというわけにはいきません。何とか四時まで待ってやってもらえませんか」と時間をかせいでくださったのではなかっただろうか。私が座っていた助手席の背もたれは、いつの間にかまっすぐに立っていた。
 学校では次の日の入学試験に備えて、最終確認の会議が始まっていた。その中に入っていった私に校長さんが小声で言われた。
 「どうだった」
 「間に合いました」
 「うん」
 短い言葉のやり取りであった。しかし、それはいつもの慈愛に満ちたものであり、私の胸には大きく響いた。

本文 おわり

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