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第49回 随筆随想コンクール 優秀作品

地域に生きる

長野県 太田 正彦(おおた まさひこ)

 私が暮らす集落は、今でこそ長野市になってはいるが犀川渓谷の山又山の斜面である。
 十二歳にして失明し、盲学校を経て昭和四十年病院に就職。お蔭様で理学療法士の資格も得て、凡そ四十年間リハビリに携わって、平成十六年三月、六十歳の定年退職を迎えたのである。
 少子高齢化の波は私の山里でも例外ではなかった。地域をいかに守って行くか、定年を待っていたように種々の役が降りかかってきた。それは、待ったなしの、ここに暮らす人にとっての役割である。しかし視力が〇・〇二では山坂の移動手段である車の免許もなく、災害時の対応を考えると、とうてい私には無理と決めて、兼業農家として続けてきた農業を、本腰を入れてしようとした矢先、まず指名があったのが当地区につたわる重要文化財の、お観音様の保存会の役員であった。この会は父が設立した経緯があり、平の役員なら作業だけやっていれば何とか務まるだろうと受けたのである。ところが三年目の春には思いもよらなかった理事長の指名となってしまったのである。いくら考えても引き受ける勇気は出ない。暗い公民館の夜は更けて行くばかり。父が務め、分家の親父さんが務め、仕方ないかと決心はしたものの「文化財の盗難」の記事が目に浮かんで、理屈は抜きで、毎朝欠かさず山の上にある本堂へのお参りが続いている。新理事長として法務局への届け出の書類を作成する段になって経歴を記す欄に盲学校卒業と書けば法務局では認可しないのではと腹をくくったのも事実である。だが一年が過ぎようとした正月、同家の三歳上の兄貴分が「来年の副区長に頼むな」と話に来た。恐らく区長なんて役は回ってこないと決めていただけに頭が真っ白になってしまった。妻もそんなの無理無理を繰り返す。しかし兄貴は「俺と組んでやれば俺も手伝えるしお前なら出来る」と許してはくれなかったのである。
 正区長までの任期は四年間、区の構成は六集落一六六世帯ではあるが都市部と異なり、妻の運転する軽トラックで、配布物や連絡に一巡するのにも四十分はかかってしまう。急傾斜地であるために雨の続いた後には、土砂崩れ、土砂崩落、倒木など道路の安全確認に地区内を見回らなくてはならず、まさに妻と二人三脚である。耕されなくなった農地は災害の源になるので農業を振興するための対策、増加する高齢者世帯の見守り、配食サービス、以前にはいなかった熊・猪・鹿の被害対策、通学の子ども達を熊から守るための見守り活動、有害鳥獣の出没状況の把握と広報活動、仕事は限りがない。だが幸いなことに任期中、火事や地震、大規模土砂災害が発生しなかったことが神仏のご加護であったのか。災害を防ぎ被害を最小限に止めるために、防災防火訓練も計画し実施しなくてはならない。消防団員の経験もない私には敬礼の仕方一つにしても、ぎこちなく自分で可笑しくなって来るのである。
 しかし、やり出せば前に前に進む性癖は地域をまとめる区長会の運営にも、副会長として携わることになった。それまでの生活では、妻任せで、殆ど触れることのなかった市や県の行政・公民館活動にも参加し、気心の知れた幼友達と力を合わせて、地域の現状をしっかりと見つめ、打開のための対策について真剣に議論し、活動することを学んだのである。
 この四年間の貴重な体験を支えてくれたのは妻の昼夜に渡る支えであり、書類の編集に手を貸してくれた娘の存在である。またパソコンであり拡大読書機である。これらの機器がなければ、とうてい送られてくる膨大な印刷物や会議資料を読破し、会議資料の作成は出来得なかった。道幅三m足らずの坂道を雪の日も雨の日も走り回ってくれた軽トラックに感謝の気持ちでいっぱいである。久しぶりに出席した患者会で「先生すっかり風格が付いたね」と言われて、ようやく地に足のついた自分に変わったのかとつくづく思ったのである。

本文 おわり

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