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第49回 随筆随想コンクール 優秀作品

千載一遇の年に

兵庫県 古賀 副武(こが そえむ)

 今年七月二十二日、日本では四十六年ぶりに皆既日食の天体ドラマが見られた。当日、全盲の私も空を見上げて思いを巡らせた。
 私たち視覚障害者にとって天体「星」といえば、六つ星「点字」である。今年は六点点字考案者ルイ・ブライユ生誕二〇〇年、日本点字翻案者石川倉次生誕一五〇年、そしてもう一人点字文化の創始者左近允孝之進没後一〇〇年の記念の年、まさに千載一遇の年である。「えっ!左近允孝之進ってだあれ?」との声が聞こえて来そうである。
 孝之進は一九〇六(明治三十九)年に神戸から日本初の点字新聞「あけぼの」三〇〇部を全国の視覚障害者に送った。孝之進は私にとって母校兵庫県立盲学校の前身神戸訓盲院の創立者でもある。孝之進は常々訓盲院生に「職業人である前に教養人であれ」と諭していた。
 今年八月私たち同窓会は、「貳面刷點字活版機」(発案特許第八九九三号第三〇類)の縮小盤を復元し、国立民族学博物館(大阪府吹田市)に寄贈して展示を依頼した。これは、孝之進が一〇四年前に点字新聞などの印刷に使用した印刷機である。当時、点字印刷機は国内に、東京盲唖学校と横浜の聖書会社にあるのみであった。
 孝之進は鹿児島市出身で、日清戦争従軍後全盲になった。少年期に地元新聞社で活字を組む様子や大人三人がかりで輪転機を回すところなどを目の当たりにしていた。孝之進は按摩鍼の修行を続ける中、視覚障害者が刹那的な環境にあることに強く心を痛めた。翻案されたばかりの日本点字に出会い、同朋に文明の光を与えたいと大きな夢を抱き、行動を起こしたのである。寝食を忘れて点字活版印刷機の発案に没頭した。
 点字図書の不足を愁い、点字出版所「神戸六光社」を創設して点字新聞「あけぼの」や多くの点字図書を発行した。「あけぼの」とは新しい時代や文化の到来に誠にふさわしい命名であった。その頃、台湾慈恵院盲教育部の教諭だった青年中村京太郎(「点字毎日」初代編集長)も「あけぼの」を購読して大いに発憤したとの記録がある。
 去る八月二十二日、復元した点字活版印刷機で「あけぼの」第一一九号(明治四十年八月二十一日発行)の社説「読書の益」を点字印刷した。それを読むと孝之進の「今、情報を発信し、見はてぬ夢に向かって行動を起こすように」との言葉が聞こえるようだ。
 孝之進の資料は唯一僅か十ページほどのものしかなく、十四年前にそれを同僚に点訳してもらい、触読したときに心に強く響くものを感じた。だが具体的なプロフィールがわからない。孝之進について取材をしたいとの思いが強くなった。その思いを同僚に語ると「今すぐ行動を起こすべきだ」と激励された。でも何の手がかりもなかった。
 同僚と一緒に、鹿児島市と孝之進の夫人の出生地福岡県久留米市へ出掛けた。幸いなことに夫人の実家を訪問することができた。この秋、夫人の実家から「あけぼの」第一号(明治三十九年一月一日発行)がもたらされたのである。千載一遇のこの年に!孝之進からの最大の贈り物である。
 第一号発刊の言葉に孝之進の点字出版事業に寄せる心意気が感じられる。また、親交のあった盲界の有識者の祝辞が掲載されている。その中の東京盲唖学校の小西信八校長の祝辞に次の一文がある。
 【‥‥我が国盲教育の元祖なる京都盲唖院の創立者古河太四郎君 日本点字翻案者石川倉次君 点字新聞「あけぼの」の発行者左近允孝之進君 長くこれら恩人の徳を忘れざる工夫を致したく思うこと甚だ切なる 盲人諸君の同意を得ること容易ならんと固く信ずるものなり‥‥】。
一〇四年前に点字新聞発行へこのような賛辞を得ているとは!
 十一月一日「点字制定記念日」、十一月十一日「孝之進の命日」に当たり、自ら読み書きできる点字により生活の糧を得、教養を身に付けることができることを感謝している。
 二十六年後二〇三五年、次回の皆既日食を健康で迎えられるように、そして点字文化が市民生活の中にさらにとけ込み、様々な場面で視覚障害者が社会参加できるようにと切に願うものである。

本文 おわり

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