日本点字図書館のあけぼの 創立80周年記念 「日本点字図書館のあけぼの」編集委員会 編 社会福祉法人日本点字図書館   表紙画像   テキストデイジー版 日本点字図書館 2020年製作 この図書は、著作権法第37条第3項に基づいて製作しています。又貸し、複製等による第三者への提供はできません。 テキストデイジー図書凡例 1.このテキストデイジー図書の階層は、3レベルです。 2.ページ番号には飛ばし読み(スキッパブル)設定をしています。プレイヤーによっては飛ばし読み機能を利用することができます。 3.テキスト化するにあたっての製作者の注は、〈 〉(山カッコ)の中に記述しています。 4.原文中の読み上げない文字には、〈 〉(山カッコ)で読みを補いました。 凡例、終わり 発刊にあたって 日本点字図書館理事長 田中徹二  創立者本間一夫の生誕百年に刊行された『本間一夫と日本盲人図書館 本間一夫生誕百年記念出版』には、それまでの10年以内に新たに見つかった資料の分析が掲載されている。主に実践女子大学短期大学部の西脇智子准教授、静岡県立大学短期大学部の立花明彦教授による分析で研究論文風にまとめられている。そして本書では、2015年以後に新たに見つかったものや、生誕百年記念ではふれられなかったものを加えて編纂できた。今回、創立80周年記念として発刊できたことに対し、西脇・立花両氏のご努力に衷心からの謝意を表するしだいである。  日本盲人図書館の開館日について、私はかねてから疑問を感じていた。立花氏もふれているように、どうしてわが国の点字制定日の11月1日ではなく、11月10日にしたかという点である。しかも1940年は、点字制定から満50年にあたる。1990年の点字制定百年記念行事は、私も深く関わったが、視覚障害者の世界を挙げて盛大に催された。それなのに50周年のときは、なんの関心も示されなかったのか不思議だった。点字図書館の開館日としては、11月10日に催された紀元2600年奉祝記念式典に合わせるより、点字制定日にするほうが適切だと思うからである。  しかし、本間が残した「本間ノート」によると、開館準備時の業務日誌には、11月1日は無記入のままだ。その前後にも、点字制定日についての記述はまったくない。当時、盲学校などでは点字考案者の石川倉次に謝意を述べたという記録があるが、それが本間や一般の視覚障害者間にまで伝わっていなかったのかもしれない。  こんなことも含めて、日本点字図書館のあけぼののころをご理解いただけると幸いである。 目次 発刊にあたって   第1章 写真で見る本間一夫と図書館活動  1ページ  1.創立から戦後の再出発  2ページ  2.厚生省委託事業を受託  5ページ  3.著作権者からの製作許諾の返信  6ページ   第2章 日本盲人図書館と「本間ノート」  9ページ  1.「本間ノート」の始まり  10ページ  2.「本間ノート」を読み解く  11ページ  3.「日本盲人図書館日誌」(昭和16年1月1日〜3月31日)  12ページ   第3章 日本盲人図書館から日本点字図書館へ  23ページ  1.日本盲人図書館の戦中・戦後直後の点訳奉仕活動  24ぺージ   (1)点訳奉仕活動を知る新たなてがかり  24ページ   (2)「点訳書受付簿」にみる日本盲人図書館の点訳奉仕活動  24ページ   (3)当事者による点訳奉仕活動  27ページ   補記:増毛から帰館した点訳書と「点訳書受付簿」との照合  27ページ  2.日本点字図書館初年度の点訳奉仕活動  29ページ  3.昭和23年6月10日発行「蔵書目録」  31ページ   (1)蔵書目録の発行  31ページ   (2)本間の「ご挨拶」  32ページ   (3)復興時の蔵書  33ページ   第4章 厚生省委託事業への前史  37ページ  1.岩波書店からの寄贈書  38ページ  2.「点訳書選定委員会」の発足  40ページ  3.岩波書店の呼びかけによる「点訳用図書選定書」  41ページ   第5章 著作権者と日本点字図書館  43ページ  1.著作権法の改正  44ページ  2.著作権者への依頼  44ページ  3.著作権者から届いた返信  46ページ   (1)点訳書承諾  46ページ   (2)録音図書承諾  47ページ   (3)「はがき」および「封書」の内容から読み取る  51ページ   第6章 「点訳通信」  57ページ  1.二つの「点訳通信」  58ページ  2.欠落していた「点訳通信」点字版の発見  59ページ  3.岸氏寄贈の「点訳通信」点字版の墨訳  61ページ   あとがき  69ページ 引用・参考文献一覧  70ページ   (表紙画像は、昭和23年、戦後初めて発行した蔵書目録) 本書を刊行するにあたって ・墨訳については、原文のままとしました。ただし、書名には二重鉤括弧をつけました。 ・転載の文は、原則として原文のままとしました。 ・従来「朝日社会奉仕賞」と記していた賞を朝日新聞文化財団様の指示により、引用を除き「朝日賞(社会福祉賞)」としました。 1ページ 第1章 写真で見る本間一夫と図書館活動 2ページ 1.創立から戦後の再出発 写真:関西学院大学のノートに書かれていた業務日誌(本間ノート)(第2章) 写真:「日本盲人図書館日誌」1941(昭和16)年1月のページ(第2章) 3ページ 写真:1941年から1950年 音楽帳を利用した「点訳書受付簿」(第3章) 写真:1945年から1948年 再疎開した実家の丸一本間合名会社社屋(1963年撮影)(第3章) 4ページ 写真:1948年「日本点字図書館」に改称して初の蔵書目録(第3章) 写真:1951年から1952年 岸博実氏から寄贈された「点訳通信」(点字版)の綴り(第6章) 写真:1953年頃 点訳奉仕者による蔵書点訳のための許諾依頼文案(第5章) 写真:1953年 全国出版協会宛原本寄贈のお願い(第4章) 〈写真、終わり〉   5ページ 2.厚生省委託事業を受託 写真:1955年 厚生省委託図書として許諾依頼文書 (第5章) 写真:1956年 図書選定委員会 左から厚生省児童局 中山茂氏、日本出版協会 鈴木武雄氏、国立国会図書館 山崎武雄氏、教育大附属盲学校 阿佐博氏、厚生省更生課 青木行雄氏、日本図書館協会 弥吉光長氏、本間一夫、加藤善徳 ※所属名称は当時のまま (第4章) 〈写真、終わり〉   6ページ 3.著作権者からの製作許諾の返信 (第5章) ・点訳書製作 写真:江戸川乱歩 『二銭銅貨』『心理試験』1956年 写真:谷崎潤一郎(書名不明)1955年 写真:武者小路実篤(書名不明)1955年 〈写真、終わり〉 ・録音図書製作 写真:録音図書製作のための許諾依頼文書 1963年 写真:安部公房 『砂の女』1964年 写真:有吉佐和子 『閉店時間』『非色』1965年 7ページ 写真:池波正太郎(書名不明)1969年 写真:石川達三(書名不明)1970年 写真:五木寛之 『蒼ざめた馬を見よ』1967年   写真:井上靖 『わが一期一会』1977年 写真:井伏鱒二 『多甚古村』1959年 写真:開高健 『ロビンソンの末裔』1976年 写真:ドナルド・キーン 『碧い眼の太郎冠者』1978年 写真:志賀直哉 『和解・ある男、その姉の死』1967年 写真:司馬遼太郎 『竜馬がゆく』1968年 8ページ 写真:柴田錬三郎 『眠狂四郎殺法帖』1977年 写真:寺山修司 『家出のすすめ』1977年 写真:中勘助 『銀の匙』 1958年 写真:三島由紀夫 『愛の渇き』・『午後の曳航』1967年 写真:武者小路実篤 『人類の意志について』1962年 写真:森繁久彌 『アッパさん船長』・『森繁自伝』1978年 写真:横溝正史 『犬神家の一族』1976年 写真:吉行淳之介 『闇の中の祝祭』1962年 〈写真、終わり〉 ・点訳書・録音図書か不明 写真:川端康成(書名不明)1958年 〈写真、終わり〉 9ページ 第2章 日本盲人図書館と「本間ノート」  日本点字図書館には「本間一夫記念室」と名付けられた一室がある。そこは創設者・本間一夫が使用した机やイスを据え、机上には愛用した点字盤やテープレコーダー、電話などを置いて執務室を再現する。その周囲には、この図書館が日本盲人図書館の名の下に開館したときの特注の木製書棚、図書カード(1941(昭和16)年当時)、「日本盲人図書館概要」(1943(昭和18)年発行)と点字原稿、1953(昭和28)年に受賞した朝日賞(朝日社会福祉賞)ブロンズ楯、褒章と勲章等、本間に関わる資料と図書館草創期の貴重な品々が所狭しと並ぶ。一部しか公開していないものの、この記念室が保管する本間に関わる資料には、表紙に「KWANSEI GAKUIN UNIVERSITY」と印刷された複数の大学ノートがある。「本間ノート」と総称されているもので、ページを捲ると6行書きの携帯用点字器で書いたと思われる点字が書かれているのみで墨字はない。これは本間が関西学院大学在学中の1936(昭和11)年〜1939(昭和14)年に購入し、講義内容等で用いていたものであるが、使い切らなかったノートは大学を卒業し、上京した後、図書館開設準備の記録や開館後の業務日誌、業務上の記録としても用いている。その概要ならびに資料的価値については『本間一夫と日本盲人図書館 本間一夫生誕百年記念出版』(本間記念室委員会編、日本点字図書館、2015)で既に述べているので多くはそれに譲り、ここでは、そこで触れなかったこと、「本間ノート」から見えてくること、「本間ノート」を元に進められている研究の一端を報告する。併せて、日本盲人図書館開館初年度に当たる1941(昭和16)年1月1日から年度末の3月31日までの「日本盲人図書館日誌」を墨字訳して掲載する。 10ページ 1.「本間ノート」の始まり  点字盤を用いて点字を書くと、コツコツという音が発生する。関西学院大学在学時、静かな教室ではかなり響くことから、他の学生のじゃまにならないよう、薄い紙である大学ノートを使うことによって消音化を図ろうとしたことが「本間ノート」に結実する。しかも本間は、そのノートを机の上ではなく、膝の上にのせて書くという気遣いをしていて驚かされる。(『指と耳で読む』p39)  大学ノートへ点字を書くメリットは、消音化のほかにもある。点字用紙を用いた場合、書きあがった用紙のファイリングが必要であるが、ノートならばこれを省略でき、記録する内容の連続性を確保しやすい。持ち運びに便利で、点字器は携帯用のそれで良く、移動時に身軽になるなどが挙げられ、点字が摩耗しやすいとのデメリットを越えるものがある。それ故に、本間は単に講義でのノートを取るためだけではなく、保存する点字の記録すべてにおいてこのノートを活用した。さらには日本盲人図書館開館後も、使用できるノートが残っている限り、これを使い続けたと考えられる。大学ノートを使った点字の書き取り、本間はこれを自ら発想したのであろうか、それともだれかから教えられたのであろうか。  本間が関西学院大学に在学していたとき、学内には視覚障害をもつ学生が本間を含めて4人いた。神学部の瀬尾真澄(1916(大正5)〜2005(平成17)、大分ライトハウス創設者)と下澤仁(1917(大正6)〜1999(平成11)、横浜訓盲院教諭を経て日本点字図書館点字部長)、文学部の高尾正徳(1915(大正4)〜1990(平成2)、島根ライトハウス創設者、第4代日本盲人会連合会長)と本間で、瀬尾は本間よりも1学年上、下澤は同学年、高尾は1学年下であった。本間以外の学生も、授業では本間同様の気遣いをしたと思われ、本間が点字の筆記にあたって大学ノートを用いるようになったのは、入学時、既に1学年上に在籍していた瀬尾の伝授によるものではないかと推測される。瀬尾は、点字の英語に略字や縮字があって、読み書きの効率化を図っているように、日本語にもこうした方式を採用し、速記できないか試みていたと見受けられる。現に「本間ノート」の1冊には、最初のページに「瀬尾式略字」と題し、瀬尾が考案した略字の一覧が3ページにわたって記されている。本間も日本語の略字に関心があったのか、瀬尾式略字の後に「沢田式普通語略字」(2ページ)をも写し取っていることは興味深い。とはいえ、これらの略字を用いての記録は「本間ノート」全冊を通してまだ確認できていない。ともあれ、大学ノートを用いての点字の筆記は、本間が関西学院の学び舎にいて、一時期を共にした他の盲人学生、下澤や高尾も行なっていた可能性が高く、「本間ノート」は、当時の学生のキャンパスライフを語るものでもあり、同時に想像を駆り立ててくれるものでもある。  略字を記したこのノートには、これらの後、「盲人と社会生活 齋藤百合講演録」(14ページ)と齋藤百合の論文「我国の点字図書館事業」(『中央盲人福祉協会会誌』創刊号、中央盲人福祉協会、1934)(29ページ)の書き取りがあるのみで、本間の図書館事業に数々の示唆を与える1冊となっている。このノートに記録がなされていたのは、上記齋藤論文の書き取り日からして、1937(昭和12)年春から夏ころと推量される。  「大学ノートを活用した点字の書き取りは瀬尾が伝授した」とする仮説は別として、本間は入学すぐにノートを購入し、それを日常での記録にも使用していたことがうかがえる。それを物語るのが、点字で「雑記帳」の表示がある1冊である。本間は1936(昭和11)年4月に関西学院大学に入学するが、この年の7月には早速帰省していて、夏期長期休暇での種々の記録の色合いが強い1冊と言える。  帰省では、その途上、函館に立ち寄り、母校函館盲?院〈もうあいん〉を訪ねたり、知人に会ったりしている。11ページノートの表紙を開くと最初に盲?院〈もうあいん〉でのことが「7月22日正午」と題して1プラス3分の1ページあり、知人に会ったことが「久々で小林嬢に会って」として記されている。  実家・増毛へは留萌線を利用して移動しているが、本間は車中においても思うところを書き記していて「留萌線車中にて種々思う」の文は次のように始まる。  大いなる理想と輝かしき希望を抱いて自分は遠く関西へと向かったのは去る3月の末だった。入学試験をはじめ、その後のすべては極めて順調に運び、第1回の帰省の途次、今自分は懐かしき故郷の一歩手前まで帰ってきた。しかし、今朝から自分の周囲に起こった種々の事柄を合わせて、今し方母から聞いた事柄を加えれば、心は自ずと憂鬱ならざるを得ない。(後略)  大学への受験、進学が順調に運んでいる一方で、叔父や従妹が病床にあり、容体が優れないことを聞いての思いを綴ったものであるが、このように、本間は折々の出来事を書き記していて、その作業を厭わなかった。ノートにはこの後、歌謡曲「港恋しや」「果てなき旅」「気まぐれ涙」「十九の春」「旅傘道中」の歌詞が2ページあって、当時の本間の関心事が見えてくる。  1936(昭和11)年はベルリンオリンピックが開催された年であり、本間は毎日競技の様子をラジオで聴いている。その模様と感想を日々ノートに綴っていて、「100メイトル自由形破る」「マラソンは優勝」(昭和11 8 10)、「競泳には勝ったぞ」(8 10夜)、「前畑優勝す」(昭和11 8の11の夜)、「またしても破る400自由形」(8の12)、「200ブエストの反撃」(8の15記す)、「小島嬢の奮戦目覚まし」(8の15)、「1500に勝ち制覇ついになる」(8の15)などと題した記載が見られる。(括弧内の日付の表記は原文通り)  こうした競技の結果やそのときのアナウンサーの表現等の記録からは、本間の興奮ぶりがうかがえるとともに、オリンピックを夢中になって聴き入っていたことが読み取れる。生前の本間は、ラジオを聴くこと、特に野球やラグビーのスポーツ中継を聴くことが楽しみの一つであったことはよく知られていて、そのことを著書『指と耳で読む』に記していたり、『点字あればこそ』(善本社、1997)には、視覚障害者にとってのラジオの有用性を述べている。本間がラジオ放送を好み、特にスポーツ中継を楽しみの一つにした萌芽はこのころにあったのかもしれない。  人物としての本間については幾人かが述べているが、日本盲人図書館時代からの利用者で、日本点字委員会の会長や顧問を務めた阿佐博(1922(大正11)〜2018(平成30))は、本間の点字の活用について次のように語る。  本間氏は点字を愛し、それを活用した人でもあった。13歳で函館盲?院〈もうあいん〉に入学し、点字を習得するや日記をつけ始め、それを生涯続けたという。日記をつけ始めたのは、点字を習得した喜びを表現するものであったとお聞きしたことがあるが、それを継続する強固な意志の持ち主でもあったのだ。(「本間一夫氏と点字」『日本の点字』29、日本点字委員会、2004、p14)  「本間ノート」は、まさに「点字を習得した喜びを表現するもの」であり、人物研究としての本間を語るものでもあると言える。 2.「本間ノート」を読み解く  「本間ノート」の発見を受けて以降、西脇智子(実践女子大学短期大学部)や立花明彦(静岡県立大学短期大学部)らを中心にそれらの資料ならびに関連して発見された資料を読み解く作業が進められていて、その成果も公表されている。  西脇は、日本点字図書館所蔵永久保存「点訳奉仕者個人別台帳」を分析し、1941(昭和16)年1月から1948(昭和23)年3月までの87ヶ月の期間、85ヶ月にわたり、延べ218名の点訳者が、819冊の点訳書を寄贈していたこと、91名の点訳者は、戦中戦後の厳しい社会情勢下においても途切れることなく点訳書を寄贈していた実態を突き止めた。12ページそのうえで、この点訳奉仕活動の成就は、今日の日本点字図書館の礎を築いた日本盲人図書館の証であると述べる〈注1〉。また増毛から帰館した日本盲人図書館の蔵書のうち、点字出版図書について、発行所別に分類して再考し、それらは開館当時に現存していた27軒の点字出版所が製版発行した図書であることを明らかにしている〈注2〉。 〈注1:西脇智子「日本盲人図書館における点訳奉仕活動の実態:「点訳奉仕者個人別台帳」の閲覧結果より」『実践女子大学短期大学部紀要』39、2018、p111-125 注、終わり〉 〈注2:西脇智子「日本盲人図書館の点字出版本」『実践女子大学短期大学部紀要』40、2019、p69-83 注、終わり〉  立花らは、本間が図書館の創設にあたりどのような構想を描き、運営方針を立てたかについて、本間ノートならびに関連する資料を元に考察し、日本盲人図書館の特色は、運営方針とした@貸出を主たる業務とし、その対象は全国貸出とした、A貸出における無料無保証、B図書館事業のみの完遂、及びC東京での開設の4点にあることを指摘した。そのうえで、これらは齋藤百合(1891(明治24)〜1947(昭和22))や中村京太郎(1880(明治13)〜1964(昭和39))、好本督(1878(明治11)〜1973(昭和48))らとの交流や彼らが著した論文に影響するところが大きいとの結論を導いている〈注3〉。 〈注3:立花明彦、山田美雪「本間ノートを読み解く2:日本盲人図書館の構想とその創設」『図書館界』71(2)、2019、p150-155 注、終わり〉  立花には「本間ノート」の「図書貸出事業準備記録」にある1940(昭和15)年11月10日の開館からその年の12月31日までに注目し、1ヶ月余りの活動実態を元に考察したものもある。そこでは、蔵書は発注したものが全部揃わず、カード目録や郵送貸出の便に供する点字版蔵書目録は未完成で、「図書館ニュース」も発行予定日からずれ込むなどして、準備万端での船出と言うよりも、見切り発車的な色合いが濃い開館であったことを指摘し、開館日を11月10日に設定したことに疑問を投げかける。そのうえで、1940(昭和15)年は皇紀2600年に当たり、11月10日には奉祝式典が宮城外苑において盛大に執り行なわれた。本間は、小さな図書館が幾久しく繁栄するようにとの強い思いから、皇紀2600年の奉祝にあやかろうとして、早くからこの日を開館日に定め、式典を挙行したのではなかろうかと推察している〈注4〉。さらに立花らは本間ノートを元に開館1年の活動を整理して考察し、利用者数・貸出数・増加冊数は、本間が1年を振り返って述べているように「順調」に推移していったことを報告する。その背景には、本間が館運営の大きな方針にした@全国貸出、A貸出における無料無保証、B図書館事業のみの完遂、およびC東京での開設に強く拘った点にあることが指摘できるとの見解を示した〈注5〉。 〈注4:立花明彦「日本盲人図書館開館直後の活動実態」『Journal of LISSASPAC JAPAN ―アジア太平洋図書館情報学会日本支部誌』1(2)、2018、p36-41 注、終わり〉 〈注5:立花明彦、山田美雪「本間ノートを読み解く1:日本盲人図書館開館1年の活動実態」『図書館界』70(2)、2018、p417-423 注、終わり〉 3.「日本盲人図書館日誌」(昭和16年1月1日〜3月31日)  「本間ノート」中の日本盲人図書館の業務日誌となるものについて、本格的な開館準備を始めた1940(昭和15)年9月1日から開館日となる同年11月10日までは既に『本間一夫と日本盲人図書館』(日本点字図書館、2015)で墨字訳し掲載している。ここでは、紙数の関係からこの図書館の初年度5ヶ月のうち、後半となる3ヶ月分を掲載した。記載のない日は3月5日(水)だけで、その他の日は文字数の差はあるものの、記録がある。13ページこの間、3月に高田馬場に新築された住居兼図書館に越したため、同月16日から18日まで業務を停止したが、日誌の記録はあり、引っ越しの様子や図書の整理、受け入れた点訳書、利用者から寄贈された図書の書名が記されている。この3ヶ月間は、図書館の利用者、ならびに蔵書数が順調に伸びていく時期で、日を追うごとに1日の貸出数の新記録を塗り替えていく。本文には「レコードをつくる」の言葉が用いられていて、本間の図書貸出事業への手応えを表現している。折々の本間の感情が読み取れる記述もあり、それは必ずしも喜びや期待ばかりではなく、2月28日に「今月はなぜか気持ちが進まず、まだ何らニュースの出来ていないのは遺憾の極みである。」とあるように浮き沈みがあって、自らを叱咤したことがわかる。  日本盲人図書館は全国貸出を一つの運営方針に掲げたが、そのために図書館の広報にも力を入れた。具体的には全国に購読者をもつ「点字大阪毎日」(現「点字毎日」)に1月16日号を皮切りに、この年に4回の有料の広告を出している。広告文は、先述の立花の調査研究〈注5〉に詳しい。  当時、図書館の運営資金は北海道増毛の実家の全面的な支援を受けていた。実家では、創設時に千円を、また館の経営費として毎月50円を支出している。よって、職員への俸給はこの経営費で賄った。3月28日の項には「母さんは7時の汽車で発った。だいたい仕事の意義も認めてくれたらしいから、まず安心」との一文が見られるように、実家では本間の図書館事業を少なからず心配していたことがうかがえる。この年の6月13日付で「中外商業新報」(現・日本経済新聞)にこの図書館の記事が掲載されたときには複部数購入し、増毛の実家へ送付しているが、これも事業が社会的に認められつつあることを実家に報告し、支援の続投を要請しようとしたものであるとも受け取れる。  以下、墨訳の日誌 日本盲人図書館日誌 (昭和16年) 【1月】  1の1(水)  午前一人静かに図書館の将来を思う。午後は久美子さんが来たのを幸い図書の発送準備やカードの整理に専念、最初の事務を行なう。来館者は図書を返しにきた澁谷誠吾さんをもって最初とす。    1の2(木)  1日異常なし。    1の3  京盲の鳥居篤治郎先生より図書館の誕生を喜ぶ実にしみじみとした温かな手紙をもらい、感極まる思い、これをこそ長く保存することにした。また、大野加久二氏からは「日本点字表」なる小冊子が贈られ、これも丁度求めていたものだけに喜びは大きい。    1の4(土)  横尾勝氏来館さる。金150銭を寄付さる。長岡氏あてに本館最初の「点毎」への広告文を送る。  来館者4名。    1の5(日)  1時から「心の家」の点字講習会なのだが、風邪気のため欠席。大垣の酒井政子さんから非常に美しい心のあふれる手紙をもらい思わず泣かされた。彼女もやっぱり両親を持たぬとのこと、本館を中心に集まるものみな「寂しき人々」である。    1の6(月)  夜、水谷吉治さんが『麦と兵隊 上』の後半の点訳を終えて持ってきてくれる。 14ページ  来館者4名。    1の7(火)  青木一太郎氏より『赤き十字架』寄贈さる。発送用カバー、信仰会からもらったもの10個は「信仰会」の文字を消して、名札入れをつけるため、また、うちの物8個は名札入れの口金を完全にするため、雨池さんにお願いしテント屋さんにまわしてもらった。  来館者6名、発送書11冊、返却書7冊。    1の8  発送書11、返却書7。    1の9  午前、鷺宮の仲村点字器製作所へ出向き、450銭の点字器を30銭だけ引いてもらう交渉に成功し、まず5面買ってくる。うち3面はすでに注文のあった遠藤、大野、岩元3氏に発送。夜、鈴木さんという心の家の姉妹来館、種々話し合い、お友達シュトウキヌコさんのものとともに点字器2面をくって帰られた。今日買ってきたばかりで本当によかった。さるにても心の家関係で点字盤の出ることすでに10個、驚くべきことである。礒倉太一氏より『信仰のすすめ 上下』『日々の力 上中下』計5冊寄贈。去る「点毎」へ250銭の広告料送金。長い間気になっていた村松君子さん点訳の『田園交響曲』を一気に読破、期待通りなかなか良く書けている。  発送書8、返却書4、来館者3名であった。    1の10(金)  午後0時から夜の10時まで末永さんと二人で今まで手をつけていなかった書名カードの整理、すなわちすでに動いた書名カードに点字を入れ貸出先を書き込み、ナンバリングする等全整理を一気になしおうせた。10時、やっと夕飯を食いながら我ながら「熱だなあ」と痛感す。  貸出書、返却書ともに7冊ずつ。    1の11(土)  事業連盟へ15年度版会費5円及び、シー模造1千枚の用紙代3円12銭を払う。「心の家」の家庭会出席の交通費20銭。蒲田区の橋敬一氏より『近世病理総論 1巻より7巻』まで、および『生理学解説』の後編、計8冊寄贈さる。また「点毎」の大野氏よりは「日本点字表」20部寄贈さる。  来館者高橋氏以下7名。発送書11冊、返却書8冊。    1の12(日)  夜「心の家」関係の岩元正雄氏見え、点字のことエスペラントのこと、早や10年の友のごとき親しさで話し合った。実に愉快である。真船さん、帰省から帰り挨拶に来た。  来館者1、返却書3。    1の13(月)  午後、東京府盲人協会豊島支部の新年会開催。騒ぐこと、やかましいこと、不愉快であった。夜、松田甚三君来館、『悪戯小僧日記』寄贈さる。今夜から事務は真船さんに復す。  来館者21名、発送書6、返却書5。    1の14(火)  今日は、カズハマ、ノト、セキガワの増毛なじみが集まって語り、午後、閲覧日にも関わらず築地本願寺へばあやまで連れ出してしまう。留守のため、そのあたりを回られたとのことであったが「心の家」関係の上條氏夕刻来館、しばらく話し、新しいのがないため、ぼくの32マスを持って帰られ、用紙50枚、送料等450銭もらう。忙しさの中のため何のおもてなしも出来ず恐縮だった。15ページ水谷吉治君『麦と兵隊』の下を完成してきた。北風多美子さんから『波 上中下』『坊ちゃん 上下』『海と兵隊 上下』計7冊贈らる。橋茂子さんからは『新西洋史』を贈らる。  来館者4、発送書10、返却書6。    1の15(水)  来館者3、発送書5、返却書5。    1の16(木)  1時半頃から次々と人が来、昼飯を食べるひまを見出し得なかった忙しさ。稲枝京子さんが森田たまの随筆『随筆歳時記』の1、2月分を完成して寄贈さる。橘江市氏、松原の両面書きライターを持って来、貸してくれる。  来館者12名、発送書21冊、返却書7冊。    1の17(金)  「点字倶楽部」のほうにすっかり時間を取られ図書館のほうはお留守。  発送書4、返却書3。    1の18(土)  水谷吉治さんに『麦と兵隊(上)』80枚4円、『麦と兵隊(下)』83枚4円15銭、計815銭を払う。兵庫の上田トク子さんから『ヘレンケラー自叙伝』『四重の福音』『絶望の底よりの救』『キャラメル王の体験談』『人生の避難処』『恩寵の追懐』計6冊寄贈さる。  来館者1、発送書4、返却書7。    1の19  来館者1、発送書0、返却書3。    1の20(月)  午後真船さんと神田へ出かけ次の買い物をした。借出人名簿にするための人名簿250銭とその予備用紙58銭、ニュース用の会計簿60銭、郵便整理箱160銭、その他吸い取り器40銭、それに交通費28銭、計5円96銭。  来館者は東盲普通師の酒井、秋山両氏等3名、発送書4、返却書4。    1の21(火)  青木一太郎氏から『野口英世とわなめーかー』寄贈さる。ニュース発送箋に穴あけ賃50銭払う。  来館者5、発送書16、返却書12。    1の22  「点毎」の反響に応うべく目録50部、陽光会に刷ってもらう。  発送書13、返却書11。    1の23  来館者4、発送書22、返却書11。    1の24(金)  末永さんに謝礼15円を払う。  蒲田鍼灸組合より後藤先生の著書『楽園』と『選民』の2冊寄贈さる。  来館者4、発送書8、返却書11。    1の25(土)  島根の斉藤ミツヨさんから『講義附論語』全5冊寄贈さる。開館以来の貸出冊数合計は461冊、12月26日以降ここ1ヶ月間は312冊、1日平均10冊強と統計が出て非常に愉快。館長風邪のため1日寝込む。来館者5、発送書16、返却書13。    1の26(日)  返却書6、他に変わりなし。    1の27(月)  事業連盟より紙1千枚届けらる。 16ページ  発送書11、返却書2。    1の28(火)  丸山光進氏より『赤穂義士傳本傳』寄贈さる。  来館者10、発送書26、返却書21、今までのレコードならん。    1の29(水)  村松君子さんに写本料『田園交響曲』の98枚分490銭のところ、紙代等もあろうと6円為替で送る。  発送書8、返却書9。    1の30  来館者2、発送書13、返却書7。    1の31(金)  昨日から始めたニュース2月号の編集を午前で終わり、午後、陽光会へ出かけ小林さんに製版してもらい校正をも終えて6時帰宅。今月は寄贈書を大いに募集してみたが、その反響が楽しみだ。  発送書11、返却書10。   【2月】  2の1  午前中に陽光会からニュース2月号250部が完成し来たり。午後真船さん、泰夫さん、それに丁度やって来た今さん等、一騎当千のつわものどもに手伝ってもらい、5時には249部を発送し、わずかに1部余ったのみ。  来館者5、発送書14、返却書12。    2の2  午後、後藤静香先生の集まりに佐藤、雨池、秋元3氏とともに出席。コガトクコとか言う人の点字盤代5円預かる。交通費20銭。  来館者1、貸出書1、返却書9。    2の3(月)  仲村点字器へ午前出かけて7面買うはずのところ、品不足のため2面のみ(8.4円)しかもらえなかった。信仰会からザラ紙半連買う。代価9円30銭。  発送書14、返却書5。    2の4(火)  金沢の三谷復二郎氏から自らの著書『災害殊に骨折のメカノテラピー』が贈られた。旧臘出版されたものだけにそのご好意を深く感謝する。  来館者7、発送書19、返却書19。    2の5(水)  オオノサダイチ氏には点字器、コガトクコ氏には点字器および用紙2帖を送った。いずれも入金済み。  発送書、返却書ともに11冊ずつ、忙しいことはなはだし。    2の6(木)  新潟県の藤沢亨氏より『吉田松陰』『ジャンヌダルク』『伊藤博文』『野口英世』等偉人傳4冊、それに池田市の原田秀夫氏よりは『鍼灸療点学』上下、および『軍歌集』の3冊それぞれ寄贈さる。  来館者4、発送書14、返却書13。   2の7(金)  来館者2、発送書7、返却書8。    2の8(土)  福田正氏より『恩讐の彼方に』、徳部貞嘉氏より『73シュウシ』寄贈さる。  来館者3、発送書18冊、返却書11冊。  夜「心の家」の家庭会に出席。一昨日手紙で後藤先生に頼んでおいた事務員の件、早くもナカマタツネコ(23)さんを決定。17ページ紹介してくれ実に感謝に堪えない。大人しそうないい人らしく、喜びに満ちて帰った。明後日から来てくれ、9時から4時まで30円であるが、これで生活の建て直しも出来ようというものである。    2の9(日)  ヤマグチアキラ氏より『ニュークラウン自習詳解』上下と『新撰中等教育算術教科書』上下、計4冊寄贈さる。  返却書14冊。    2の10(月)  約束どおりナカマタツネコさんは9時から4時まで来てくれた。ものわかりのいい役に立ちそうな人だが、小学校だけのためか、くずした字が分かりかねることと英語が全然ダメであることが欠点。しかし、とにかく人を得たことは喜びである。  来館者3、発送書11冊、返却書4冊。    2の11  野忠治〈たかのただはる〉氏より『伏家の曙』を寄贈さる。  発送書6、返却書13、来館者6。    2の12  仲田義太郎氏は「点毎」から直接『紀元2600年史』上下の全くの新本を寄贈さる。非常な感謝である。マツダイクコ氏より『波』1部3冊、伊藤きぬ子氏より『ヘレンケラー詳伝』寄贈さる。佐藤さんと片瀬に好本先生を訪問し、事業に沿う一層の援助方を依頼す。なお、一昨日来たナカマタさんは「発熱した」の理由で辞める旨の意思表示をなしたと後藤先生から手紙有り。また変わりを捜さねばならなくなった。  来館者2、発送書13、返却書10。    2の13  吉田広信氏より『電気治療早学び』、クロヌマフミさんから『母を思えば』『紀ノ川音頭』『唐人お吉』の3冊寄贈さる。赤澤さんに頼んでナカマタさんに代わるに森さんという人を得た。あるいは暫定的かも知れぬが明後日から来るとのこと、扁桃腺で休んでいた真船さんも今夜から出勤。    2の14  赤澤さんの斡旋ですぐ近くの森さんという方が9時から4時半まで明日から来てくれることになった。ただし、その娘さんの都合の悪い時はお母さんが来てくれる由。  発送書13、返却書14。    2の15(土)  昼過ぎから森さんのお母さんが見え初事務をした。年寄りだけに飲み込みは悪いが親切、几帳面な人らしいからまずよかろう。箱屋さんがボールのカバー100個を持って来、代金12円支払う。「心の家」関係の副島  来館者5、発送書26、返却書14。    2の16(日)  午前蒲田区の橋敬一〈たかはしけいいち〉氏がわざわざ早稲田の講義録寄贈のため来訪、寄贈は陽光会へ届けてくける等、感激に堪えない。午後真船さんと久美子さんが来てくれ非常に仕事の能率を上げ得た。  来館者2、発送書1、返却書7。    2の17(月)  今日も蒲田の橋〈たかはし〉氏は早稲田の講義録数冊をわざわざ持ってきて下すった。書名等はまとまってから記す。水谷吉治氏より『霊魂は羽ばたく』寄贈さる。今日から袋の代用たるボールのカバーを使い始めたが具合はなかなかいい。 18ページ  発送書14、返却書6。    2の18(火)  森さんは時間を非常に正確に来てくれるので仕事の能率が上がり実にありがたい。今日をもって時間に余裕が出来発送箋に「入り」「済み」のスタンプをほとんど全部押してもらうことが出来た。横浜の渡辺豊治氏より『パウロの復活論』寄贈さる。来館者5。さて今日の貸出書は27、返却書は23と、ともに今までのレコードであり、計60冊の本が動いたわけである。しかも目が十分あるので、どさりと配達が置いていった本の山にいきなり飛びつき、たちまちにこれが発送準備を完了するといった状態で、実に愉快この上もない。    2の19(水)  ニュース発送箋に「入り」と「済み」のスタンプを全部押し終わる。  貸出書11、返却書12。    2の20  水谷吉治氏『小島の春 2』および『その妹』の点訳完了し、計9円5銭払う。  来館者6、貸出書20、返却書19。    2の21(金)  仲村点字器より点字盤5面届き21円を払う。  発送書12、返却書12。    2の22(土)  名越麗華氏より『若き日』を寄贈さる。  来館者5、発送書19、返却書14。    2の23(日)  午後、第1回の点字研究会を開く。集まる者、佐藤、赤澤、肥後、水谷、山本(定夫)、それに稲枝京子さん、ぼくとも7名で、過日、大野さんからもらった「点字規則」の検討をなし、今日は表記法につき大いに議論し合い、実に愉快であった。  返却書13。    2の24(月)  蒲田区の橋敬一〈たかはしけいいち〉氏が幾回にも持って来てくれた早稲田の講義録は今日で全部となったが『哲学概論』3冊、『徒然草』『文学概論』『俳句の鑑賞と作法』以上2冊ずつ『短歌の鑑賞と作法』『国文法講義』2冊、それに『大鏡』の上、『枕草子』の下、『十八史略 中』『国文学史』上、以上16冊の寄贈である。内製本済みは4冊、その他『鍼按要論』の解剖編3冊も寄贈さる。  発送書38、返却書14という貸出数においては勿論、合計の動きにおいても14冊というこれまでのレコードを作った。    2の25(火)  吉田広信氏より『作法要項』を、北風多美子氏より『考穴』を寄贈さる。  発送書12、返却書14。    2の26(水)  京都の元村政男氏より早稲田講義の『藝術学概論』上下、『俳句の鑑賞と作法』上下、『短歌の鑑賞と作法』それに『最新生理学 巻一』と計6冊寄贈さる。事業連盟よりの用紙1千枚3円12銭引き取る。夜、連盟の委員会(委員長宅)に出席し、関東事業連盟を全国的なものに拡大するの件を決議す。岩橋先生が委員長にも事務所にも無断で統制局において関東連盟を抹殺していたことは高橋氏以下一同の憤激を買うことはなはだし。岩橋先生のため、遺憾の極みである。  来館者3、発送書10、返却書8。 19ページ    2の27(木)  森さんのお母さんは毎日非常に正確に来てくれ、かつ熱心、親切に仕事を運んでくれ本当にありがたい。今日の午後、初めて娘さんが変わりに来てくれた。少し無愛想でわがままそうだが、仕事の飲み込みはいい人のようである。1月26日以降、2月25日までの総貸出冊数を計算してもらったが、合計180人の人が452冊を借出しているから、1日平均15冊弱となって、先月の10冊強に比すれば激増である。コウトク社印刷所から借出券500枚が出来てき、6円払う。「心の家」関係の福岡県の堀川筆子さんから点字の手紙が来た。  来館者2、発送書、返却書ともに16冊ずつ。    2の28(金)  福岡の井上次郎氏より『因果はめぐる』と『のろわれの家』寄贈さる。森さんに俸給15円払う。今月はなぜか気持ちが進まず、まだ何らニュースの準備の出来ていないのは遺憾の極みである。  発送書10、返却書8。   【3月】  3の1(土)  清水英一郎氏より1円、大垣の酒井政子さんより切手にて2円40銭寄付さる。伊藤福七氏より『心理学教科書』『支那事変忠勇美談集』2部寄贈さる。    3の2(日)  午後「心の家」に行ってきたが、前から約束の点字器1面を上條夫人に渡した。今日は非常に寄贈書が多く、次の如し。内藤津多さんから早稲田の文学講義録の『古事記』2冊、『源氏』3冊、『万葉』2冊、『短歌講義』3冊、『短歌鑑賞』1冊、『俳句鑑賞』1冊、『文法』3冊、『論語』2冊、『枕草子』1冊、『大鏡』2冊、『徒然草』2冊、『哲学』1冊、計23冊。池谷桂泉氏からは『昭和国民讀本』3冊、『波』1巻のみ、『実業学校西洋史』『新体制早わかり』計6冊、高窪光春氏からは『怪盗』『人間椅子』『聖杯の武士』計3冊、杉山良斉氏からは『算術講義』の下、阿佐博氏からは漱石の『二百十日』等々莫大だった。またこの他、紙をやって頼んであった東盲の原版を利用するのこと、阿佐博君から『新撰平家物語』『小さい国文学史 上』『奥の細道』『源氏物語撰』『方丈記』『俳句の名句撰』等、届けらる。その努力感謝に堪えず。  返却書15冊。    3の3(月)  浅野利夫氏より『光は闇より』寄贈さる。夜は大変遅れたニュースの編集に没頭してほぼ完成す。  貸出書21、返却書10。  岡山のウラタコウジュン氏に点字盤発送。過日、代金は5円来ており、紙も1帖添えておいた。送料22銭。    3の4(火)  名古屋のキクタトウル氏より、やはり「心の家」の兄弟で良き点訳者あり、本の選定を願うとの便りあり、非常にうれしい。佐藤さんが取るべき用紙2千枚6.24円を事業連盟からぼくの方へ譲ってもらい東盲の原版を印刷してくれる阿佐さんの方へまわした。  貸出書14冊、返却書22冊。    3の6(木)  『田園交響楽』『イノックアーデン』『麦と兵隊 上下』計4冊を桜雲会を製本に頼む。なぜ今まで頼まなかったか慙愧のいたりである。午後、失軍田中氏が真船さんと共に来館し種々語り合った。 20ページ  今日は貸出、返却ともに16冊。    3の7(金)  記憶を失い書き得ず。    3の8  梶原生造氏より『マッサージ講義』。  貸出13、返却14。    3の9  大阪ライトハウスの木村氏来館、一泊せらる。  返却書5。    3の10(月)  木村氏、午後帰らる。今度上京の用件は、今関氏の事業連盟かき回しに対する対策。  貸出21、返却13。    3の11(火)  元村政男氏より『文学概論』2冊、『十八史略』3冊、『国文学史概論』3冊、計8冊、関口伊吉氏より『右門捕り物帖』、和田秋芳氏より『受験生の手記』等寄贈さる。陽光会へニュース、目録等の代、14円26銭払う。夜、母上京し初めて図書室を見る。  貸出書18、返却書16。    3の12(水)  大久保周雄氏より『解剖学教科書 上』、池谷桂泉氏より『NEW AGE READERS』1・2巻寄贈。  貸出書16、返却書17。    3の13(木)  広島の楠田福三氏より『新旧約聖書』全部31冊寄贈さる。また大久保周雄氏よりは『解剖学教科書』の上、池谷桂泉氏よりは『ニュークラウン自習詳解』2冊寄贈さる。真船さんに2月分のお礼と今までお世話になった感謝の意味を兼ね20円送った。  貸出書10、返却書8。    3の14(金)  道家照夫氏より『霊魂は羽ばたく』寄贈さる。  貸出書11、返却書10。   3の15(土)  浜口清氏より『鍼按試験問答』『鍼術に電気応用消毒法』『経穴』ほか教科書等13冊寄贈さる。  貸出書16、返却書13。    3の16(日)  いよいよ高田馬場の新宅へ引越しを開始す。真船さんとワタナベマサイチさん、カゲハマさんなど手伝いに来てくれたが、やはり引越しの中心は図書館であり、ことに本棚を外へ出すのには大いに苦心した。トラックが来ず、全部を移せなかったが、箱や袋につめた本だけはようやくオート三輪によって間に合わせた。  貸出書もなく、返却書も不明。    3の17(月)  運送屋によって本棚等全部運んだが、この整理には中々骨が折れそうだ。森さんには休んでもらった。末永さんが夜、真船さんとやってきて、かねて頼んでおいたカード入れの箱を寄贈してくれた。真船さんを通し、紙3千枚9円72銭を買った。    3の18(火)  森さんとともに1日、本の整理に専念し、大体完了させた。後藤先生から『一日一話』の4月分が届けられたほか、萬木健夫氏より『井上内科』、厚見寿美子氏から『金の鈴』上下、『アラビアンナイト』『グリム童話』『フランダースの犬』『お話の国』6冊寄贈さる。 21ページ    3の19(水)  村松君子さんから『エバン・ジェリン』が完成して届けられた。  停滞していた図書を一気に解決。その結果貸出書25、返却書31。    3の20(木)  午後、山本定夫氏が新館最初の閲覧者として来館、続いて正岡誠三君もやってきた。  貸出書71、返却書62。    3の21(金)  酒井繁二氏より『光は闇より』全4巻寄贈さる。また、クニタケハルエ氏よりは『選民と呪われの家』寄贈さる。住所変更のためのスタンプの直し料1円65銭。  返却書23冊。    3の22(土)  仲田義太郎氏より『失明軍人のための小話集』、北風寿美子氏より『メンジンクン』、楠田福三氏より『日本ブンテン』上下、『国文教科書』1・2巻、元村政男氏より『俳句集』2冊。(なお、楠田氏よりは『小さき者へ』等々寄贈さる。)  貸出書26、返却書17。    3の23(日)  上田トク子氏より『闇にひらめく声なき声』、『解剖教科書』上、唐沢彦吉氏より『伊藤博文』『リンカーン』『吉田松陰』各殿下3冊寄贈さる。  返却書8。    3の24(月)  時沢福松氏より『少年 塙保己一伝』『日支事変』『忠勇美談集』、二宮一夫氏より『国体の本義』、荒木逸男氏より『大地』1・2巻寄贈さる。  貸出書22、返却書10。    3の25(火)  野ア哲馬〈のざきてつま〉氏より『最新内科診察法』『鍼技新書治療編』3冊、計4冊寄贈さる。  貸出書7、返却書8。    3の26(水)  光の家より『何処へ往く』『ああ無情』等、計31冊ようやく届けられたが、なおかなり残部あり。運送費1円。  貸出書3、返却書5。    3の27(木)  母さんが14円30銭の事務棚を買い、届けさせるようにして来たとのこと、早くくれば良い。浜口清氏より『皇國二千六百年史』上下の寄贈あり。注文殺到する折とて、上下とも直ちに出た。クニタケハルエ氏より『空の彼方へ 恋愛編』寄贈さる。  貸出書27、返却書20。なお東盲の清水、西川、矢島、渋谷、渋の5君ようやく探し当てたとて実に嬉しそうにやってきて、それぞれ本を借りて引き上げて行った。東盲から少し遠くなったことは気の毒である。    3の28(金)  水谷吉治氏に『命の初夜』と『一日一話』の点訳費6円を払う。3月中の貸出冊数を出してみたが、前月に比し、121冊と大きく減ってわずか331冊に過ぎず、やや失望した。これが最大の理由は東盲生をはじめ、学生が試験のため利用しなかったということが最大原因のようである。母さんは7時の汽車で発った。だいたい仕事の意義も認めてくれたらしいから、まず安心。  貸出書16、返却書13。 22ページ    3の29(土)  今日で借出券は305号までいったが、201号から300号までの統計を出してみたところ、性別は男子86、女子14、年齢別は10歳台22名、20歳台41名、30歳台21名、40歳台11名、50歳台は3名、60歳台は2名、また職業別は、治療家48名、音楽家6名、教育家6名、学生31名、編物1名、金融1名、無職7名と出た。  杉山三郎氏より『高等按鍼学医科法』1・2巻、『自然治癒について』および『治療学教科書』3巻、計6冊寄贈さる。  貸出17、返却17。    3の30(日)  まだ何となく落ち着きのない日が続く。  返却書7冊。    3の31  昨日1日かかって編集し終わったニュースを午後、陽光会で製版し終わった。なお、森さんは今日をもって引くこととなり、お礼35円を差し上げた。  貸出書14冊、返却書3。   ※本文中、氏名等の漢字が不明なものはカタカナで表記した。また句読点は墨字訳者による。 23ページ 第3章 日本盲人図書館から日本点字図書館へ 24ページ 1.日本盲人図書館の戦中・戦後直後の点訳奉仕活動 (1)点訳奉仕活動を知る新たなてがかり  日本点字図書館では本間一夫の没後、本間の業績を称え、遺徳を伝え、人となりを偲ぶ事業が必要と考え「本間一夫記念室」の設置が企画され、2006(平成18)年3月に開設された。この記念室の目的は、@法人の創業者としての本間の理念を知る場所とすること、A視覚障害者への情報提供の歴史を検証する場所とすることの二つである。この開設によって「本間の生前の活動記録を広く紹介するとともに、日本点字図書館創立の経緯や図書館活動などを記録すること」を重視した調査研究の拠点が誕生したことになる〈注6〉。 〈注6:記念誌製作委員会編『日本点字図書館創立70周年記念誌 新たな世紀、新たなサービス:電子図書館への歩み』日本点字図書館、2011、p31、p35。注、終わり〉  本間一夫記念室が所蔵する貴重な諸資料は記念室のスタッフによって整理・保管されてはいるが、集積しつつある膨大な館内外の諸資料の中には手つかずのものも少なくない。「点訳書受付簿」もその一つである。  「点訳書受付簿」とは、日本盲人図書館開館初年度に当たる1941(昭和16)年2月から1950(昭和25)年9月に至る期間に点訳奉仕者が寄贈した点訳書を時系列に墨字で記録したノートである(第1章の写真参照)。立花が本書第2章で紹介したように、「本間ノート」の発見を受けて以降、西脇は、日本盲人図書館の点訳書寄贈の実態を明らかにするため、日本点字図書館所蔵の永久保存「点訳奉仕者個人別台帳」の分析を試みてきた。当時の認識では、日本盲人図書館の点訳奉仕活動を知る唯一の基礎資料が「点訳奉仕者個人別台帳」であった。しかしその後、この台帳が保管されていた永久保存用段ボールの中に、埋もれていた「点訳書受付簿」を発見した〈注7〉。この「点訳書受付簿」は「点訳奉仕者個人別台帳」に転記したであろうと推察される原本であり、オリジナルの度合いが高いだけに、その分析が急がれた。 〈注7:「点訳書受付簿」は、2017(平成29)年8月23日に発見された。日本点字図書館所蔵の永久保存「点訳奉仕者個人別台帳」が入っていた段ボールの中に埋もれていた包みを、当館奥村文庫の濱田幸子に手渡して保護紙を外してもらい、所在が明らかとなった。注、終わり〉  本節ならびに次節では、日本盲人図書館時代と日本点字図書館初年度の点訳奉仕活動について、新たに発見された「点訳書受付簿」の分析を試みた。 (2)「点訳書受付簿」にみる日本盲人図書館の点訳奉仕活動  「点訳書受付簿」の調査結果から判明したのは、日本盲人図書館における1941(昭和16)年2月15日から1948(昭和23)年3月までの7年2ヶ月、すなわち86ヶ月にわたる点訳奉仕活動の実態である(表1)。   表1-1:日本盲人図書館点訳書年度・月別受入数(単位:冊) 昭和15年度 2月 3 3月 3 年度別合計 6 昭和16年度 4月 3 5月 6 6月 3 7月 8 8月 0 9月 4 10月 6 11月 4 12月 2 1月 6 2月 15 3月 9 年度別合計 66 昭和17年度 4月 16 5月 7 6月 5 7月 15 8月 7 9月 7 10月 18 11月 13 12月 13 1月 8 2月 9 3月 9 年度別合計 127 昭和18年度 4月 13 5月 11 6月 17 7月 17 8月 10 9月 18 10月 17 11月 14 12月 59 1月 15 2月 16 3月 24 年度別合計 231 昭和19年度 4月 12 5月 18 6月 10 7月 14 8月 18 9月 17 10月 28 11月 20 12月 18 1月 14 2月 12 3月 10 年度別合計 191 昭和20年度 4月 3 5月 5 6月 3 7月 6 8月 2 9月 2 10月 7 11月 14 12月 6 1月 9 2月 2 3月 3 年度別合計 62 昭和21年度 4月 15 5月 1 6月 5 7月 4 8月 2 9月 10 10月 5 11月 7 12月 1 1月 11 2月 6 3月 4 年度別合計 71 昭和22年度 4月 7 5月 7 6月 5 7月 7 8月 6 9月 6 10月 3 11月 5 12月 4 1月 3 2月 7 3月 2 年度別合計 62 月別合計 4月 69 5月 55 6月 48 7月 71 8月 45 9月 64 10月 84 11月 77 12月 103 1月 66 2月 70 3月 64 年度別合計 816   表1-2:日本盲人図書館年度別点訳者数、新規参与点訳者名、寄贈冊数 〈製作者注:以下、「年度」、「点訳者数」、「点訳者名(50音順)、「寄贈冊数」」の順に記載。注、終わり〉 昭和15年度 3 稲枝京子、村松君子、後藤静香 6 昭和16年度 14(11) 岩元正雄、上條ひさ枝、沓名芳枝、酒井政子、桜井正代、杉本利明、鈴木ツネヨ、福田 弘、堀川筆子、三浦みやけ、山本 篁 66 昭和17年度 37(26) 新 孝之輔、荒木邦男、粟村チエ子、伊藤正雄、岩見英利、岡崎富輔、清水たへ子、杉橋親次、鈴木将美、高橋恵美子、高橋豊治、田尻治男・芝峯武夫、橘 孝次郎、トーセイ学園、富岡初恵、直居 鉄、羽田光一、林 次一、久田端葉、間垣洋助、松原雪江、丸田恭子、村尾りつ子、村松そよ、吉野耕 127 昭和18年度 62(42) 赤沼和子、浅田知恵、荒木邦男、新木寿子、井添富久代、伊東茂子、伊藤正雄、井上寛子、内田須規子、宇野幸子、大森紀子、小倉富司子、尾崎啓一、鴛淵佐智子、各務房子、賀来百合子、館野まつ、岸 登烈、木下歌子、久保寺昌子、坂井きぬ、酒井政子、桜井正代、佐藤みよ、高須すみ子、竹重スミエ、鶴田良子、直原輝夫、中平寿賀子、新山 重、羽田ハツ子、平井テル子、増井白子、増田久栄、松村百合子、松本 功、水谷ゆき子、峰岸静江、宮島美穂子、山田久子、山本正子、吉田知子 231 昭和19年度 53(10) 大関のぶ子、柏原秀子、川瀬富恵、木下富美子、滝口まき、戸田エダ、丹羽一身、三添 了、峰岸周七、横溝ミエカ 191 昭和20年度 17(2) 篠塚幸子、藤林とく・本間一夫 62 昭和21年度 18(1) 久田富美江 71 昭和22年度 14(4) 今里キク、小林隆平、廣部登茂子、本間田鶴子・本間一夫 62 合計 のべ218名(点訳者99名) 816 出典:「点訳書受付簿」の記録から情報を収集・整理して、筆者が作成した。 〈表、終わり〉    @点訳書の寄贈期日を確認できたのは、全86ヶ月のうち85ヶ月である。1941(昭和16)年8月以外、点訳書の寄贈がほぼ毎月あったこと、Aこの85ヶ月に寄贈された点訳書は816冊であり、Bこの間の点訳奉仕者は、のべ218名に上ったことである。日本盲人図書館の全期間86ヶ月を通して点訳奉仕活動を支えたのは、99名の点訳奉仕者であった。  点訳書の受け付けがもっとも多かったのは、昭和18年度の231冊、次いで昭和19年度の191冊である。2度目の疎開をすることになった1945(昭和20)年4月〜1948(昭和23)年3月までの3年度には、北海道増毛町で195冊の点訳書を受け付けた。  日本盲人図書館初年度となる昭和15年度の点訳者は、稲枝京子、村松君子、後藤静香である。この3名の点訳者により6冊の点訳書が寄贈された。図書館が創設された豊島区雑司ヶ谷の借家から現在地の高田馬場に移ったのは1941(昭和16)年3月16日である。したがって、後藤静香からの寄贈は、高田馬場で受け付けた最初の点訳書となる。増毛の本家が建ててくれた自宅の玄関脇の洋間に書棚を並べて、書庫を兼ねた仕事場にした。点訳奉仕者が増え、明治の名作が次々と届けられ、誰よりも先に本間自身が夢中になって読みふけた(『指と耳で読む』p61)。 25ページ  昭和16年度には、11名が新たに参与した。初年度の3名の点訳者とともに、合わせて14名の点訳者から66冊の点訳書が寄贈された。「その頃の数少ない協力者の中に、陽光会で知り合った山本篁さんという、私よりだいぶ年上の方がいました」(『指と耳で読む』p63)、と本間は記している。「図書館創立一周年」の記念誌の編集を引き受け、仕上げたのが山本である。1942(昭和17)年5月11日付で、社会事業としての正式認可がおりた。この書類づくりを手伝ったのは加藤善徳で、1941(昭和16)年の感謝の会で出会った加藤との最初の結びつきとなった。  昭和17年度には、26名が新たに参与した。先発の11名の点訳者とともに、合わせて37名の点訳者から127冊の点訳書が寄贈された。  本間は1943(昭和18)年の状況を自著に詳しく述べている(『指と耳で読む』p65〜68)。1943(昭和18)年3月9日付の朝日新聞は、「盲人の点字図書館生る、戦傷勇士に希望の光」とのタイトルで、大日本点訳奉仕団(団長・後藤静香)の誕生と活動を、五段抜きの大記事で報道した。次いで20日には、毎日新聞が「高き文化の点字本」と題して、井上英会話スクール校長井上当蔵夫妻の発起で失明兵士に点訳書をおくる「点字奉公会」が結成されたことを報じ、点訳を勉強してくれる人は有楽町の同校で開かれている点訳講習会に出席してほしい、と訴えた。これらの記事は、意外なほど大きな反響を呼び、4月9日の第1回講習会には若い婦人を主に100人もの人が教室にあふれた。  1943(昭和18)年7月18日には、日本盲人図書館単独の建物が竣工し、木造2階建て32坪の落成式が挙行された。NHKは、この日3回に渡って全国ニュースで点字図書館の竣工を報道した。このPR効果は非常に大きかった。昭和18年度には、42名が新たに参与した。先発の20名の点訳者とともに、合わせて62名の点訳者より231冊の点訳書が寄贈された。  戦局は日を追って不利となり、いつ敵機が東京の空を襲うかわからない情勢になった。高田馬場に図書館が新築されてわずか9ヶ月経ったところで、本間は空襲の危機が迫った東京を去ることにする。点訳書2300冊、書棚5本、家財道具など一切を2台のトラックに乗せて、茨城県結城郡総上村へ疎開した。物資はますます窮屈になって、点字用紙なども入手困難となり、点字出版事業などはほとんど行き詰っており、日本盲人図書館が全国の盲人読者の希望を一手に引き受けるような形になった(『指と耳で読む』p71〜72)。昭和19年度には、10名が新たに参与した。先発の43名とともに、合わせて53名の点訳者より191冊の点訳書が寄贈された。  1945(昭和20)年4月、本間は2度目の疎開先となる北海道の増毛から貸出事業を開始する。昭和20年度には、篠塚幸子が新たに参与した。本間は、1943(昭和18)年6月21日に藤林喜代子と結婚しており、妻の姉である藤林としに活字本を読んでもらい自らも点訳書づくりを始めた。先発の15名とともに、合わせて17名の点訳者より62冊が寄贈された。この「点訳書受付簿」には、「藤林とし・本間一夫」による点訳書が寄贈されたことが明示されており特筆すべきことである。本間の点訳書づくりについては、次節で詳しく述べる。  昭和21年度には、久田富美江が新たに参与し、先発の17名の点訳者とともに、合わせて18名の点訳者より71冊の点訳書が寄贈された。1946(昭和21)年5月には、本間の長男が誕生した。妻の手を借りることが少なくなった本間は、図書館事業を今里利枝に手伝ってもらうことになる。郵便局に勤めていた今里の孫のキクは、毎日持ち込まれる点訳書を見て、点訳奉仕を志した。本間の郷里に誕生した唯一の点訳奉仕者である(『指と耳で読む』p79)。  昭和22年度には、この今里キク(のちに結婚して荒谷姓となる)を含め、4名が新たに参与した。先発の10名の点訳者とともに、合わせて14名の点訳者より62冊の点訳書が寄贈された。本間は、いとこの田鶴子にも本を読んでもらい、点訳書を寄贈している。  物資が乏しく、生活がひっ迫した戦中・戦後という時代背景にあって、日本盲人図書館は点訳者99名の尽力によりなされた点訳奉仕活動に支えられた実態が浮き彫りになった。 27ページ (3)当事者による点訳奉仕活動  「点訳書受付簿」には直居鉄(1926(大正15)〜2012(平成24))の名前がある。直居は生来弱視で墨字を使っていたが、転校した東京盲学校の中等部では点字の読み書きの指導を受けた。ある日、日本盲人図書館へ出向くと、点字を覚えたばかりの14歳の直居に、本間は「君は墨字も読めるし点字も書けるから点訳をしてくれないか」と勧められた。そして「それならば」と、自分で選んで坪田譲治の『風の中の子供』を点訳し始めた〈注8〉。この直居が点訳寄贈した『風の中の子供』は、「点訳書受付簿」の1942(昭和17)年10月30日に記録されている。直居はその後も点訳寄贈をしていて、太田黒元雄の『洋楽夜話』(1・2)を、日本点字図書館初年度の8月5日に納めている。直居が寄贈した点訳書は、これで3冊となった。 〈注8:直居鉄「本間一夫先生の「点字の心」」『日本の点字』No.29、日本点字委員会、2004、p17〜19 この文献では『音楽夜話』と印字されているが、国立国会図書館の検索結果から『洋楽夜話』が妥当であると判断し、引用文を修正した。注、終わり〉  本間自身も点訳書を寄贈していたことが「点訳書受付簿」から裏付けられた。日本盲人図書館は、1948(昭和23)年3月に東京復帰を実現するまでの3年度にわたり、増毛から貸出事業を継続させた。この間に本間は、自身も点訳書づくりを始めたことを記している(『指と耳で読む』p81)。  「時間に少しゆとりができると、私も点訳書づくりを始めました。家内の姉に活字の本を読んでもらい、私がそれを書きとるのです。岸田国士の「力としての文化」や、箕作元八の「西洋史講話」等でした。」  1945(昭和20)年から1946(昭和21)年にかけて、岸田国士『力としての文化』と箕作元八『西洋史講話』とともに、アンドレ・モーロア『フランス破れたり』、倉田百三『愛と認識との出発』、イプセン『人形の家』、アンデルセン『絵なき絵本』も点訳し、併せて6タイトル14冊を寄贈している。また、1947(昭和22)年には、いとこの本間田鶴子に、チエホフの『桜の園』を読んでもらい、1タイトル1冊を点訳寄贈していたことが明らかになった。  今回、新たに発見された「点訳書受付簿」の分析結果から、当事者も参与しての点訳寄贈の史実を発見することができたことは特筆すべき事項である。 補記:増毛から帰館した点訳書と「点訳書受付簿」との照合  本間は1948(昭和23)年、疎開先の増毛を後にして東京へ復帰するとき、蔵書の一部は意識的に増毛に残している。それらは、時代にそぐわなくなった軍記ものや破損の激しい図書等であったが、本間の実家では、それらの点訳書を丁寧に蔵で保存していた。2012(平成24)年9月、それらが長い時空を超えて日本点字図書館に戻ってきた。本間記念室委員会では、これらの図書を「帰館した蔵書」と呼んでいる。2015(平成27)年に発行した『本間一夫と日本盲人図書館』の38〜49ページでは、帰館した蔵書18冊を紹介した。  帰館した蔵書を、今般発見した「点訳書受付簿」に照らしてみると、点訳書は、3つの工程、@点訳者から届けられた点訳書の受付期日を「受付簿」に記帳する、A本間が「感謝のことば」を直筆する、Bそれを点訳書に綴じ合わせて製本する、を経て貸出に至っていることが示唆された。  本間が「感謝のことば」を直筆するタイミングは、「受付簿」記帳の翌日、数日、または数週間かかる場合もみられる。小倉富司子が点訳寄贈した『海軍第一巻』は、1943(昭和18)年12月26日に受付簿に記帳され、本間の「感謝のことば」は同年12月末日と記されていることから、数日で工程を経ているようにみえる。しかし、この点訳書の最後には、1943(昭和18)年8月27日に記された「点訳者のことば」が綴じられており、貸出までに数か月かかっていることがわかる。本間の「感謝のことば」の最後には、「(前略)なお、全5巻、初秋のころ、既に完成されていたのですが、点訳書製本難のため、貸出が今回に遅れましたことを、小倉さんに対して、読者の皆さまに対し、深くお詫び申し上げます。」と記されている。28ページ「点訳書受付簿」の記帳は、1943(昭和18)年12月が最も多く59冊を数えることから、点訳書を製本することが困難な時期であったと判断された。  ところで、「点訳書受付簿」と帰館した蔵書を照合した結果、「点訳書受付簿」に受け入れ記録のなかった点訳寄贈書が発見された。1943(昭和18)年に久田端葉が点訳寄贈した『南太平洋の底を行く』である。本間がこの年の6月28日に直筆の「感謝のことば」を述べている。1943(昭和18)年は、急激に点訳者と寄贈される点訳書が増加しており、でき上がった点訳書はすぐに貸し出される場合もあり、受付簿の記録から漏れたことが推察される。以下は、この点訳書への本間の感謝の文と、点訳者のことばを墨字訳したものである。   ■1943(昭和18)年6月 久田端葉 点訳寄贈 山岡荘八著『南太平洋の底をゆく』他2編  本書の点訳を感謝して 本間一夫    久田端葉さんは、既にいく冊かの点訳書を本館に寄贈しておられる方で、例の名古屋の沓名さんのご紹介くださった方であります。遠く長崎県平戸の方で、長らく病魔に侵され、ずっと病床にあられる方と伺います。にもかかわらず、久田さんの烈々たる点訳奉仕のご熱意は、文字どおり病苦をしのいで痛ましいまでに続いておるのであります。あるときのごとき心臓の鼓動まで鈍り、人事不省に陥ったと申します。おそらく、おうちの方などは、お体を思うのあまり、点訳などには反対しておられるのではないかと思われます。  あるときの手紙の一節に「私は笑われても、そしられても、ただ、もう点訳を続けることのみに生きがいを見いだしています。否、これをすることなしには、1日も生活することはできません」とありました。私は、そのあまりに猛烈な熱意に何か圧せられるものを感じ、そして、しばし襟正さずにはおられなかったのであります。どうか、本書に限らず、久田さんの点訳に接しられる読者諸兄におかれては、その一点一点が血と肉もていない命をかけた点の連続であることをご承知あって、深い感謝を捧げていただきたいのであります。しかも、久田さんの点訳は、なおも盛んに続けられております。  昭和18年6月28日記す    (点訳者のことば)  おわりに  生か死かの際にも思い続けた点訳、絶ちがたい厳しい点字への愛着、失明の方への友情。  点訳のためになら喜んで命捧げようと固く決心し、つたない点訳を今日までいたして参りましたが・・・肉体的苦痛にともすると怯むこころにいつまで続くかと心もとなく思います。  誠が足りないのかと思いつつ、痛さのため、動かない肩を、歯を食いしばって点訳を進め、めんそれをとくし、なんとかして続けたいとがんばっています。  からだと相談し、さわらぬ程度にするといいのですが、気分が気分でやり出すとわが身をはめるので、常に物議の種となって困っています。  肩だけ痛いのでしたら心強く思われますが、そこかしこ・・・それに神経衰弱は頭を持ち上げようとしますし、からだの弱いのが悲しく思います。  時局柄、貴重な用紙を無駄にせず、お忙しい本間先生を煩わせ致さないのは良いことだとは思いますが、点訳できないと思うと心もとなく思います。  間違いの多い不完全な点訳に良心が責めますが、できる間、点訳は続けさせていただきたいと思います。  どうか、読者の皆様、おからだ大切にご清福のほど、お気づきの点、厳しくご叱咤ください。  さぞお読みにくいことを申し訳なく思います。  昭和18年6月11日    「点訳書受付簿」には、1941(昭和16)年2月15日から1943(昭和18)年6月7日までの期間で「ナシ」という鉛筆書きが散見される。29ページ同時に、1941(昭和16)年5月2日から1944(昭和19)年4月2日までの期間では、‘赤線が引かれている箇所’が複数見られる。または、「ナシ」と‘赤線’の両方が付記された点訳書も散見される。これらが意味することについて考察した。  「ナシ」の語は1943(昭和18)年6月7日までの期間で記されている。この年の7月18日には、待望の独立した図書館が落成しており、蔵書をそこに移動させる必要が生じた。その作業において、貸出中等で書架にない点訳書について「ナシ」と記したと推察できる。  一方、‘赤線’は東京で再出発をするにあたって、戦記物や破損のある書籍は、増毛に残して行く判断作業において、該当の書名に‘赤線’を引いていて、作業途中となったと推察する。  このように「点訳書受付簿」は、寄贈された点訳書を受け入れるだけではなく、蔵書の確認でも活用したのではないかと考えられる。 2.日本点字図書館初年度の点訳奉仕活動  敗戦後の混乱渦中にある日本の盲聾唖者に希望を与えるためにヘレン・ケラー女史がはるばる日本を訪問する大朗報がもたらされた。「このチャンスを逸しては、いつの日にか上京が叶えられよう、なんとしても東京へ帰らなければならない」と決心した本間は母に訴え、高田馬場の焼け跡に15坪の木造住宅を建ててもらうことになった。この完成を待ちきれずに、郷里に妻子を残して単身上京したのは1948(昭和23)年1月のことである。住宅が完成した3月半ばには家族を呼び寄せ、北海道の図書館業務をすべて移した。1948(昭和23)年度が始まる4月1日、日本盲人図書館の名称を改称した「日本点字図書館」は再出発を果たす。そこで、本節では日本盲人図書館の灯を守り続けた点訳奉仕活動が引き継がれ復活を果たした日本点字図書館初年度の新たな点訳奉仕活動の実態を報告する。  1948(昭和23)年4月1日、日本点字図書館初年度の点訳奉仕活動がいよいよ始動した。終戦後4度目の新年となる1949(昭和24)年1月に発行した「点訳通信謄写版」第4報に、本間は新人奉仕者を新たに迎えた喜びととともに、日本盲人図書館からの奉仕者への感謝の気持ちを率直に述べている。    「点訳通信」は昭和19年の7月第1報を発行し3回を重ねただけで中止されていたが、今度沢山の新人奉仕者をお迎へして勇躍復活することになりました。とりあえず3カ月に1回の予定とし心からの感謝をこめてお送り申し上げます。この点訳奉仕運動は昨年の秋ヘレン・ケラー女史の来朝が機會となって、ラジオや新聞により広く全国に報道されました。その結果地元の東京はもちろん全国各地に亙って200余名の共鳴者を得、その中半数以上の方は既に点字器を持って練習しておられます。30ページ昨年末までに完全な点字を書けるやうになり、本をきめて点訳にかかられた方だけでも都内をはじめ遠くは広島・大阪・近くは山梨・浜松など約20名に達しています。(中略)これほど沢山の特志家が與へられたことは空前でありこの運動の上に全く新しい時代が訪れたのであります。1冊でも多くの点字書をと憧れ求めている盲人にとって何といふ喜びでありませう。(中略)今1つこの通信の復活に当り是非とも申し上げねばならないことは、空襲前からの奉仕者中20余名の方がずっとたゆみなく奉仕を続けて居られるといふことです。しかしこの方々は殆ど例外なく戦災の厄に会って居られることを思へばまことに云ひつくされない感謝でございます。(中略)一人の新しい奉仕者を迎えるたびに1冊の新しい本をいただくたびに、私は敬虔な感謝にあふれます。    日本点字図書館初年度の点訳奉仕活動は、フルに12ヶ月にわたって展開され、のべ86名の点訳者が合計110冊の点訳書を寄贈した(表2、3)。新たに迎えた新人22名の点訳者が合計40冊の点訳書を寄贈する一方、日本盲人図書館から継続して活動する19名の点訳者が合計70冊の点訳書を寄贈し、力強く点訳奉仕活動を展開していたことは興味深い。   表2:日本点字図書館初年度の月別点訳奉仕活動(1948年度) 新人22名 月人数冊数 4月00 5月00 6月11 7月25 8月22 9月11 10月23 11月11 12月56 1月11 2月78 3月1112 合計のべ3340   表2:日本点字図書館初年度の月別点訳奉仕活動(1948年度) 日本盲人図書館 19名 月人数冊数 4月22 5月37 6月56 7月912 8月57 9月22 10月34 11月68 12月56 1月56 2月22 3月68 合計のべ5370   表2:日本点字図書館初年度の月別点訳奉仕活動(1948年度) 総数41名 月人数冊数 4月22 5月37 6月67 7月1117 8月79 9月33 10月57 11月79 12月1012 1月67 2月910 3月1720 合計のべ86110   表3:日本点字図書館 初年度点訳者数 年度別 昭和23年度 点訳者数 41(新22) 点訳者名(50音順)赤平耕治、井口昭洋、石川悦子、及部 勝、小川光一郎、加登川美代、小柳芳枝、坂井一男、坂本健一、佐藤麻子、佐橋秀次郎、下保和子、高野一夫、高橋静枝、中野 宏、西 敏枝、西村文江、平野恒子、廣澤大八郎、古川友厚、宮沢喜男、山本正代 寄贈冊数 110冊 出典:「点訳書受付簿」の記録から情報を収集・整理して、筆者が作成した。 〈表、終わり〉    日本点字図書館初年度の4月と5月は、日本盲人図書館の時代の点訳者5名が先行して点訳奉仕活動を展開していたことがわかった。  日本点字図書館が始動した翌日、「点訳書受付簿」に最初に記録されたのは、宇野幸子からの寄贈書である。宇野は、1944(昭和19)年2月4日から寄贈記録があり、大作『カラマーゾフの兄弟』など、すでに32冊を寄贈している。点訳奉仕者から後に日本点字図書館の職員となり、点訳者の育成にあたって目覚ましい仕事ぶりが評価された人物である。記念すべき日本点字図書館に初めて寄贈された点訳書が宇野による『戦争と平和3』であったということは奇遇といえよう。  次いで、4月5日には、本間の郷里である増毛の点訳者、今里キクから『武蔵野』が寄贈された。増毛に疎開中の本間は、今里が点字を始めるにあたり自らが使用していた点字盤を譲っている〈注9〉。本間から点字を直伝された今里は、1947(昭和22)年7月9日から寄贈記録があり、すでに4冊を寄贈していた。 〈注9:本間記念室委員会編『本間一夫と日本盲人図書館:本間一夫生誕百年記念出版』日本点字図書館、2015、p58 注、終わり〉 31ページ  5月になると、5日には藤林としから『次郎物語(巻2)1』が寄贈された。妻の喜代子の姉、病身の藤林は本間夫妻とともに増毛に疎開していた。1945(昭和20)年10月18日から寄贈記録があり、すでに21冊の点訳書を寄贈していた。  5月15日には、相川七郎から3冊の点訳書が寄贈された。日本盲人図書館にもっとも多くの点訳書を寄贈したのは、1944(昭和19)年10月27日から寄贈記録がある相川である。戦後の1946(昭和21)年1月から1947(昭和22)年3月までの24ヶ月、毎月必ず点訳書を寄贈したのは圧巻で、戦後の点訳奉仕活動を支えた立役者である。相川は、日本点字図書館が始動した翌月、51冊目の『うぐひす笛』、52冊目・53冊目となる『釈迦2・3』を寄贈した。  5月31日には、鈴木京子(旧姓・稲枝)が9冊目の『縁々堂随筆』、10冊目の『日本昆虫記1』、11冊目となる『戻り道』を寄贈した。そもそも日本盲人図書館の最初の点訳書となる『随筆歳時記』を1941(昭和16)年2月15日に寄贈したのが稲枝京子であったが、1943(昭和18)年7月1日の8冊目となる『針線余事』の寄贈から久しい点訳奉仕活動であった。  日本盲人図書館の点訳者とともに、新たに迎えた22名の点訳者が点訳奉仕活動を展開させていった。本間は、1949(昭和24)年の4月発行「点訳通信謄写版」第5報の「点訳者御紹介 その1」と、7月発行「点訳通信謄写版」第6報の「点訳者御紹介 その2」にかなり詳細な個人紹介を記しているので参照されたい。  新たに点訳奉仕活動に参与する新人の点訳者の増加傾向は、1948(昭和23)年9月以降に顕著にみられる。理由の一つとして考えられるのは、報道ベースの情報量にある。9月6日には朝のNHK番組「私たちの言葉」で、本間の書いた「点訳奉仕を世に訴える」の一文が放送された。この日の午後には、ヘレン・ケラーが神田の共立講堂に立たれ、絶妙のタイミングでの放送となったことも多く影響している。また、10月17日にはNHKの「市民の時間」でも取り上げられた。さらに22日の毎日新聞にも大きなスペースを割いて報道されるなど、これらのマスコミの影響は少なくないといえよう。 3.昭和23年6月10日発行「蔵書目録」 (1)蔵書目録の発行  全国の盲人を対象に郵送による貸出を行なう図書館では、利用者が読みたい図書を選択し、発送の依頼をするために手元に持つ蔵書目録は必須である。日本盲人図書館時代には、開館した翌月の1940(昭和15)年12月、最初の蔵書目録を発行し、点訳運動の結果として蔵書が増していった戦時中に第2版を出している。32ページ日本点字図書館として東京での復興を始めた1948(昭和23)年には6月10日付けで、第2版以降の新入図書をも収めた「蔵書目録第3版」(以下「第3版」と記す)を発行し、貸出に備えた。第1版と第2版は現物が存在しないためにその内容を把握できない。しかし第3版は、「心の家」点字講習会修了者で第1号の点訳書を収めた稲枝京子の遺族から2011(平成23)年に寄贈された点訳関係の遺品の中に含まれていた。それは当時を語る貴重な資料となっている。  第3版は76ページで、これに「新入図書紹介」と題した付録2ページを加えたものからなり、定価40円で頒布した。最初に本間の「ご挨拶」があり、続いて10の分野に分けた蔵書が紹介され、巻末には「貸出規定」と「会員の方々へ」が割り付けられている。収録された図書数は917タイトル1,916冊で、各図書は書名・冊数・著者(訳者)の順に並ぶ。巻末の「新入図書紹介」には、点訳者の氏名も記されているのに対し、目録ではそれを割愛している。  墨字の図書を点訳した場合、複数冊になることがあるが、「点訳書受付簿」を見ていると、大方の点訳者は点訳書1冊の分量になるとそれをすぐに図書館へ届けていたことがわかる。第3版には、こうした全冊通しての点訳が完了していない図書についても掲載していて、その旨を注で伝えている。また資材節約の関係から、「著」「訳」「編」などの語を割愛したと記していて、物資の調達が容易ではなかったことと、経費を抑えたいとする図書館側の事情が読み取れる。  ところで、これまで館が発行する蔵書目録や「図書館ニュース」などの点字の製版と印刷は、齋藤百合が主催する陽光会ホームへ依頼していた。しかしながら、第3版は静岡県富士郡富士根村(現・富士宮市)にあった富士根園点字出版所〈注10〉に発注している。陽光会ホームは、東京の空襲が激しさを増す中で疎開を強いられ、これに伴い1944(昭和19)年に閉鎖。終戦後、東京への帰郷は果たしたものの、1947(昭和22)年に齋藤百合が病死し、復興には至らなかった。戦前、東京には複数の点字出版所が存在したが、戦災によって多くが廃業に迫られた。本間は『文藝春秋』の1951(昭和26)年2月号に「點字の世界:盲人にも文化を與へよ!!」と題する文章を投稿していて、その中でこのころの点字出版の様を「點字定期刊行物の世界は一應賑やかだといつていゝ。ところが、單行本の世界はといふと、點字出版社が東京に一箇所大阪に二箇所それに静岡、京都にもあつて、それぞれ努力してゐるにも拘らず、こゝは又きはめて寥々、何とも情ない限りである。」と紹介している。この一文からも、点字の製版と印刷をする施設が少なく、遠方の富士根園に発注したことは頷けるが、もう一つ理由があったと推量する。それは、富士根園の点字編集職員に陽光会ホームで点字の出版にも携わっていた粟津(当時は金井)キヨがいて、本間自身顔馴染みであったことである。粟津は、陽光会ホームで製版・印刷した蔵書目録の初版や第2版にも関わっていたと思われ、第3版の作業においても本間は安心して任せられたと考えられる。第6章で触れる「点訳通信点字版」の第37信で、本間は新潟へ出張したとき、帰途で高田へ寄り、粟津を訪ね語らったことを「A婦人」として記している。その内容からも粟津と懇意であったことがわかる。 〈注10:富士根園点字出版所については不明な点が多い。傷痍軍人で日本盲人会連合の第1期理事(1948(昭和23)〜1950(昭和30)年)をも務めた石川廸三が1948(昭和23)年に開設し、翌年から教科書を作成している。事業は1960(昭和35)年ころまで続けられたと思われるがはっきりしない。点字教科書(高等部普通科を中心に、幾何、解析、物理、英語など、ほぼすべての教科)の他、理療関係書、教養書、童話、小説(青春小説も含む)、読み物系の雑誌を発行していて、それらの一部が筑波大学附属視覚特別支援学校資料室に保管されている。(土居由知「幻の点字出版所“富士根園”の周辺」(チラシ)、静岡県視覚障害支援センター、2009)注、終わり〉 (2)本間の「ご挨拶」  第3版を開くと、中扉の次には本間が執筆した「ご挨拶」が続く。点字のページで2ページのそれには次のようにある。  「ご挨拶 点字を知る数少ない盲人の中から、あなたは更に機会を得て今、この図書館を利用しておられます。いまだ発展の途上にあって、意に満たぬところの多い本館ではありますが、奇しくもここに結ばれたあなたのためには、できる限りお役に立ちたいと願っています。盲人にとって、読書が晴眼者以上に心の糧であることは御承知のとおりです。どうか、あなたと図書館との関係が、単なる事業とこれを利用する者との関係に留まらず、深い愛情と強い信頼とに根ざすものであってほしいと思います。 33ページ  この種の事業は、直接利用する読者と、私ども職員と、周囲から援助する晴眼者の力とが三位一体化されて初めて完全を期し得られます。私どもは今、日本の黎明期に立って、この事業の輝かしい未来を夢見ると共に、険しかった過去7年有半の歩みに思いを致しつつ、踏み締める一歩一歩に精魂を傾ける覚悟です。御協力を切にお願いいたします。」  冒頭の「点字を知る数少ない盲人」とは、盲教育がまだ義務化されておらず、このために盲人と言えども点字の習得者が少なかった社会背景を指す。中村京太郎は「盲人と読書」の論考で1936(昭和11)年10月調査での日本の盲人総数と学校卒業者数、無学者数を紹介しているが、無学者を点字未習得者とみた場合、その数は盲人総数の約6割を占め、点字を読める盲人は約4割でしかない。「蔵書目録」発行時からすれば、10年余りも前の数字ではあるが、本間にこうした一文を書かせていることは、状況が10年前と大きく変わっていないことを物語るものである。本間の文章は、そのうえで蔵書目録を手にした盲人が図書館の利用者になったことを喜び、図書館との関係が深い愛情と強い信頼とに根ざすものであってほしいと願う。単なる事業とこれを利用する者との関係に留まらないことを希望する背景には、復興にあるこの図書館を利用し、支援し、盛り立てて発展させてほしいとの祈りにも近い願いが込められているようにうかがえる。 (3)復興時の蔵書  日本点字図書館としての歩みを始めた1948(昭和23)年、館では早々に「昭和23年版 日本点字図書館概要」と題したリーフレットを作成している。この中で事業の現況では、4月現在での蔵書数として3,027冊とあるが、既に記したように第3版に収録されている図書の冊数1,916冊、巻末の「新入図書紹介」に収載されている22冊を合わせた1,938冊と齟齬を生じる。表4は、第3版での分類別の冊数と「図書館概要」にある蔵書一覧の冊数を見比べたものである。「図書館概要」4月現在での蔵書数と、第3版の収載冊数には1,089冊の開きが認められる。この開きは、一つに、「図書館概要」の蔵書一覧には「洋書」150冊、「雑」625冊とあるのに対し、第3版ではそれらが収められていないことによる。とはいえ、それでも314冊の差が見られる。   表4:「第3版」と「図書館概要」蔵書数比較 (単位;冊) 分類蔵書目録図書館概要 盲人関係書6778 宗教・哲学・修養398469 文学601709 語学174193 歴史・伝記6376 音楽2225 社会科学3743 自然科学5766 医学377451 少年少女向き書類120142 洋書空欄150 雑空欄625 合計1,9163,027 〈表、終わり〉    本間は1948(昭和23)年に疎開先の増毛を引き上げるとき、東京へ蔵書を送るに当たり、理療科などの教科書、世相を反映した戦記物、破損の激しい図書など複数の図書を意図的に残している。それらは、実家の人々によって丁寧に保存されていて、その存在が本間の没後の2007(平成19)年に明らかになった。もちろん本間自身、そのことを記憶していたが、日本点字図書館の元館長・小野俊己は、これについて本間が「あれはごみだから」と言って、それらの蔵書の引き上げに取り合わなかったことをメモしている。『本間一夫と日本盲人図書館』で明らかにした通り、増毛の蔵に残され、日本点字図書館としての再出発では蔵書に加えられなかった図書数は210冊で、「日本点字図書館概要」と「第3版」にある蔵書数との差314冊からさらにこの数を差し引いても、104冊の食い違いが生じる。34ページ最も開きの大きい分野は文学で108冊、次に医学の74冊、宗教・哲学・修養の71冊と続く。逆に開きの小さい分野は音楽の3冊、社会科学の6冊、自然科学の9冊で、いずれも一桁の数字となっている。実際、日本盲人図書館時代には所蔵していた『愛国百人一首』『海軍』『海戦』『海底記』『学徒の書』『教育勅語謹解』『軍歌集』『軍人援護』『軍神を生んだ母』『皇國二千六百年史』『国体の本義』『時局に処する道』『時局の重大性』『支那事変忠勇美談集』『日支事変忠勇美談集』等は、第3版には見当たらず、日本点字図書館の貸出図書として除籍されたことが読み取れる。つまり、開館から戦後までの日本盲人図書館は、時局柄、失明軍人の発生も合わさり、世の影響をある程度受けざるを得ず、蔵書構成にもそれが現れていた。「昭和19年版日本盲人図書館概要」で本間は、点字図書館の意義について次のように書いている。  悽愴苛烈な決戰下一億國民中、唯一人でもその力を出し切つてゐないものがあるとすれば、それは由々しい問題であります。此の意味に於て、私は聖戰に兩眼を捧げた失明勇士及び十萬盲同胞の存在を、御考慮いたゞきたいと思ふのであります。/失明の苦腦については今更語る迄もありません。殊に突如暗Kの世界に投ぜられた失明勇士のそれを思ふ時、國民ひとしく肅然たらざるを得ないでありませう。また一般失明者も、その燃ゆる愛國の至情に於て何等劣るものではありません。只悲しむべきは、點字圖書の不足から來るヘ養の乏しさであり、點字新刊書に對する滿たされざる激しい慾求であります。/點字書に向ふ時のみ、失明者もリ眼者同樣の喜びが得られることは、私自身の體驗であり、此處に點字圖書館の?對なる意義があるのであります。完備せる點字圖書館は、失明者の生活戰上實に唯一のオアシスであり、これなくしては失明勇士の再起奉公の完全は期し得られないのであります。  この文から本間は、世の流れを強く意識し、その力を借りて図書館運営を維持しようとしていたように推察される。その結果、蔵書も世相や時局を反映したものが少なからずあったことは理解できる。後半の一文「只悲しむべきは、點字圖書の不足から來るヘ養の乏しさであり、點字新刊書に對する滿たされざる激しい慾求であります。」は、当時の点字出版界が資材不足等の影響から停頓気味にあり、このために一層の点訳奉仕を強く求めたことを意味する。  表5は、第3版収載の図書について分類別にタイトル数、冊数、比率を示したものである。蔵書が最も多い分野は文学の284タイトル601冊で、今日の点字図書館と共通するものの、その占有率は31.0%でしかなく、今日とは大きく異なる。また次に多い分野は宗教・哲学・修養の209タイトル398冊22.8%となっている。医学は、今日では文学に次ぐ分野であるが、当時は160タイトル377冊、比率も17.4%となっていて、第3位であるのは興味深い。「文学」の蔵書数が多いのは点訳奉仕者の活動の成果・証であり、「宗教・哲学・修養」と「医学」のそれは点字出版界の戦前の蓄積の証である。   表5:「第3版」分類別タイトル数等 分類タイトル数冊数比率(%) 盲人関係書34673.7 宗教・哲学・修養20939822.8 文学28460131.0 語学541745.9 歴史・伝記30633.2 音楽10221.1 社会科学20372.2 自然科学33573.6 医学16037717.4 少年少女向き書類831209.1 合計9171,916100.0 〈表、終わり〉   37ページ 第4章 厚生省委託事業への前史  本間は、1948(昭和23)年4月1日をもって「日本点字図書館」と改称し、諏訪町(現在の高田馬場)の焼け跡に完成した木造15坪の建物で事業を再出発させた。目下の大事業は、法人格の取得と焼失した図書館の建物を再建することだった。  法人格を持たない任意団体では、将来の事業発展がおぼつかない。そこで本間は私有地の土地の半分、約120坪を基本財産として寄付することにして法人の申請に取りかかった。財団法人の許可を得たのは1950(昭和25)年10月9日のことである。創立時の理事長には、当時国立国会図書館長の金森徳次郎を迎え、本間は常務理事、理事には、柏木教会牧師でYWCA会長の上村環、リーダーズ・ダイジェスト日本支社長の鈴木文史朗、内部から加藤善徳、佐藤和興がその任にあたった。1952(昭和27)年5月7日には「社会福祉法人日本点字図書館」に組織変更し法人化はしたものの、経済的苦境は一向に改善されず、困難は日ごとに増し、どん底の状態に置かれた。本間は「人生の中でもっとも苦しい時期」にあったと自著で述懐している(『指と耳で読む』p88〜91)。  ところがこの苦しい最中にどん底から「起死回生の二つの出来事が起こった。一つは、1952(昭和27)年春、岩波書店が点訳に必要な図書は、すべて無料で提供してくれるという申し出であった。しかも、岩波の呼びかけで、文藝春秋・新潮社・中央公論社・講談社などが、無料提供に賛同してくれたのであった。二つ目は、1952(昭和27)年11月、朝日新聞社から「朝日社会奉仕賞」が贈られるという知らせがあったことである。このことは、翌年の1月3日、朝日新聞に大きく報道され、点字図書館事業が広く世に紹介されたのであった。この受賞は、2年後の厚生省からの委託事業へと結びつき、国からの補助金の道を開くことになる。」(谷合侑『盲人福祉事業の歴史』明石書店、1998、p80〜81)  そこで本章では、起死回生となった出来事の細部を分析した結果を踏まえて「厚生省委託事業への道」の前史を紹介する。 38ページ 1.岩波書店からの寄贈書  日本点字図書館の苦しい時期にあって一つの大きな喜びがもたらされる。それは、1952(昭和27)年春のある日、岩波書店専務の小林勇が秘書の浅見いく子とカメラマンの長野重一を伴って、突然、本間を訪ねて来たことにはじまる。小林らが訪問した当時の建物の外観と自宅を兼ねた図書館内部の様子は、残されている写真から推察されよう。   写真:戦後スタートした日本点字図書館の外観  写真:昭和25年当時の日本点字図書館 〈写真、終わり〉    岩波書店との事業の縁が結ばれた最初の日について、本間は自著に述懐している(『指と耳で読む』p93)。    狭いようやくすり抜けられるような仕事場を見ていただいてから、2階の部屋でお話を伺いました。/「今回『図書』が、読者投稿を求めたところ、加藤善徳氏から「点字本のなげき―点字本も図書である」という投稿が参り、初めてお宅の存在を知りました。そこで2月号に、厚生省の松本更生課長の原稿をいただき、今日は実際を拝見にあがったのです。お仕事のことはよくわかりました。これから点訳のために必要な岩波書店の図書は、無条件で提供しましょう」と言われるのです。さらに岩波書店から日本出版協会や全国出版協会を通して他の出版社にも呼びかけ、同じ協力をしてもらおうと、おっしゃるのです。思いもかけぬ事であり、一冊の活字書を買うにもままならぬ時だっただけに、このことは本当にありがたく、岩波書店、文藝春秋社、新潮社、中央公論社、講談社等、その冊数の増減はありますが、30年後の今日まで、ずっとそのご協力をいただいております。またこれが、岩波書店とこの事業とのご縁が結ばれた最初の日でもありました。    本間は、この経緯を点訳者に伝えるため、1952(昭和27)年7月発行の「点訳通信謄写版」第23報に「多年の懸案であった点訳書選定委員会をいよいよ近く設置できる運びとなった」と一報した。    この事がこの様に急速に具体化したのは全く岩波書店の絶大な御好意御協力に依るものなのであります。岩波書店発行の「図書」2月号に厚生省の松本更生課長が点字図書の問題について書かれた事は本紙21報にもふれましたが、それ以来岩波の本事業に対する関心は非常に深まり、先頃専務小林勇氏が直接来館視察されて、今後点訳の為に用いるなら同書店発行の本は何なりと寄贈しようという確約を下され既に第一回分として29冊を御寄贈下さいました。そして更に今後適当な機関を通して、この事を他の有力な出版社にも呼びかけようとの御熱意をまで示されたのであります。点訳書選定委員会の事は、本館の誕生後1〜2年にして考えられ乍ら、活字書購入の経済的裏付けを持たぬまま実現を見なかったのでありますが今日、このよろこびの時は、岩波書店によってもたらされたと云っても決して過言ではありません。数々の良書を発行普及して我国の一般文化に偉大な貢献をして来た同書店が忘れられて居た盲人読書の面にも率先奉仕の先鞭をつけられたわけであります。誠に感謝に耐えません。 39ページ    岩波書店からの寄贈書が本間の手元に実際に届くようになると、本間は点訳者に宛てて「点訳通信謄写版」の第23報と第26報を通じてこの59冊を照会し、点訳希望の申し出を依頼した。  岩波書店から届いた寄贈書の内訳は、第1回分が29冊(新書10冊、文庫14冊、現代叢書1冊、少年文庫4冊)、第2回分が30冊(少国民のために3冊、全書1冊、新書3冊、文庫15冊、現代叢書1冊、少年文庫7冊)である。   表:岩波書店からの「第1回分」寄贈書一覧 書名著者名発行年備考 音楽美入門山根銀二昭和25年新書 三民主義と現代中国岩村三千夫昭和24年新書 ミケルアンヂェロ羽仁五郎昭和14年新書 禅と日本文化鈴木大拙/北川桃雄訳昭和15年新書 続 禅と日本文化鈴木大拙/北川桃雄訳昭和17年新書 ミレーとコロー内田巖昭和25年新書 ジャンヌ・ダルクジョセフ・カルメット 川俣晃目訳昭和26年新書 川釣り井伏鱒二昭和27年新書 蒙古の旅 上巻ハズルンド/内藤岩雄訳昭和17年新書 蒙古の旅 下巻ハズルンド/内藤岩雄訳昭和17年新書 近代国家に於ける自由ラスキ/飯坂良明訳昭和26年現代叢書 共産党宣言マルクス、エンゲルス 大内兵衛・向坂逸郎訳昭和26年文庫 その前夜ツルゲーネフ/湯浅芳子訳昭和26年文庫 さすらひのオランダ人・タンホイザーワアグナア/高木卓訳昭和26年文庫 旅は驢馬をつれてスティヴンソン/吉田健一訳昭和26年文庫 恋ぶみ濫用ケラー/関泰祐訳昭和26年文庫 守銭奴モリエール/鈴木力衛訳昭和26年文庫 ドン・ジュアンモリエール/鈴木力衛訳昭和27年文庫 或る少女の死まで室生犀星昭和27年文庫 魔風恋風 前篇小杉天外昭和26年文庫 魔風恋風 後篇小杉天外昭和26年文庫 項羽と劉邦長与善郎昭和26年文庫 今戸心中広津柳浪昭和26年文庫 ロビンフッドの愉快な冒険H・パイル/村山知義訳昭和26年文庫 続 ロビンフッドの愉快な冒険H・パイル/村山知義訳昭和26年文庫 名犬ラッドターヒューン/岩田欣三訳昭和26年少年文庫 クルミわりとネズミの王様ホフマン/国松孝二訳昭和26年少年文庫 ドン・キホーテセルバンテス/永田寛定訳昭和26年少年文庫 りこうすぎた王子A・ラング/光吉夏弥訳昭和26年少年文庫   表:岩波書店からの「第2回分」寄贈書一覧 書名著者名刊行年備考 日本人の祖先長谷部言人昭和26年少国民のために 蚊のいない国細井輝彦昭和27年少国民のために 私たちの太陽関口鯉吉昭和27年少国民のために 砂漠と闘う人々リッチ・コールダー/甲斐静馬訳昭和27年新書 引力季広田/岡崎俊夫訳昭和27年新書 平和の証言杉捷夫昭和27年新書 古代ギリシャ文学史高津繁春昭和27年全書 人間の歴史の物語 下ヴァン・ローン/日高六郎・日高八郎共訳昭和27年少年文庫 ガリヴァー旅行記スウィフト/中野好夫訳昭和26年少年文庫 続 ガリヴァー旅行記スウィフト/中野好夫訳昭和26年少年文庫 レスター先生の学校ラム/西川正身訳昭和27年少年文庫 世界をまわろう 上V.M.ヒルター/光吉夏弥訳昭和27年少年文庫 世界をまわろう 下V.M.ヒルター/光吉夏弥訳昭和27年少年文庫 水の子キングスレイ/阿部知二訳昭和27年少年文庫 デマの心理学オルポート、ポストマン/南博訳昭和27年現代叢書 今昔物語集(1)丸山次郎校訂昭和27年文庫 古今和歌集尾上八郎校訂昭和2年文庫 新古今和歌集佐々木信綱校訂昭和4年文庫 国性爺合戦近松門左衛門昭和2年文庫 七人の風来坊ホーソン/福原麟太郎訳昭和27年文庫 東洋の幻影ピエール・ロティ/佐藤輝夫訳昭和27年文庫 かもめチェーホフ/湯浅芳子訳昭和27年文庫 マリー・アントワネット 上シュテファン・ツワイク/高橋貞二・秋山英夫訳昭和27年文庫 自殺についてショウペンハウエル/斎藤信治訳昭和27年文庫 黒髪 他近松秋江昭和27年文庫 同志の人々山本有三昭和27年文庫 役の行者坪内道遥昭和27年文庫 恩讐の彼方に 忠直卿行状記菊池寛昭和27年文庫 木下杢太郎詩集河盛好蔵選昭和27年文庫 機械横光利一昭和27年文庫 出典:本間一夫 編『点訳通信謄写版』第26報 日本点字図書館、1953及び、緑川亨編『岩波書店70年』岩波書店、1988と照合し、筆者が作表した。 〈表、終わり〉   40ページ  1953(昭和28)年1月発行の『点訳通信謄写版』第26報には、「点訳通信23報の巻頭に岩波書店からの点訳用活字書の寄贈をビッグニュースとして報じたが、同じ協力を他のあらゆる出版社からもいただけることとなった」と報じた。「日本出版協会と全国出版協会の首脳部の方々が特別なご理解とご熱意をもって所属各出版社に対して点訳奉仕運動の意義を説き、点訳用活字書の寄贈方を依頼して下さった結果」である。この事は、点訳書選定委員会の発足に優るとも劣らぬ「盲人文化史上の一大福音」である、と本間は感謝の意を表した。  この『点訳通信謄写版』第26報には、日本点字図書館と出版社の協働に関連する記事の見出しが5件(@点訳書選定委員会の発足、A各出版社の御協力、B点訳書選定委員会第1回選定図書名、C岩波書店御寄贈書、D第二書房御寄贈書)掲載された。また、岩波書店からの寄贈があった同時期に「第二書房」からも6冊の寄贈書が届いていたことが新たに判明した。   表:第二書房の寄贈書一覧 書名著者名刊行年 貞明皇后御歌謹解佐佐木信綱昭和26年 夜や秋や日記吉田絃二郎昭和24年 歌集 仰日伊藤保昭和26年 現代短歌の話:短歌の基本問題(短歌選書)松村英一昭和26年 短歌入門ノオト(短歌選書)佐藤佐太郎昭和26年 俳句の解釈と鑑賞俳句学会編昭和25年 出典:本間一夫編『点訳通信謄写版』26報 日本点字図書館、1953、国立国会図書館オンラインで照合し、筆者が作表した。 〈表、終わり〉 2.「点訳書選定委員会」の発足  いよいよ「点訳書選定委員会」が発足し、出版協会の斡旋による各出版社から点訳用活字書が寄贈される道が拓かれようとしていた。  この第1回選定委員会の詳細な記録は、1953(昭和28)年1月発行の「点訳通信謄写版」第26報に掲載し、これまでの経緯とともに選定委員会委員を紹介した。点訳書選定委員会は、@1952(昭和27)年12月19日に第1回会合を開催し正式に発足したこと、A毎月の第4金曜日を定例日としたこと、Bすでに2回の会合をもったこと、C選定方針の大綱も決まり、第1回分を発表できる運びとなったことを報じている。 41ページ  選定委員会委員は、全国出版協会常務理事の宮本信太郎と文化部長の橘経雄、日本出版協会企画調査部長の鈴木剛男、日本図書館協会理事の弥吉光長、国立国会図書館一般考査部長の阪谷俊作と一般連絡調整課長の斎藤毅と受入整理部の山崎武雄、東京教育大学雑司ヶ谷分校(盲学校)教諭の阿佐博、そして、日本点字図書館常務理事の本間一夫と、理事の加藤善徳がその任に当たった。  本間は、「点訳書選定委員会と出版界の協力」について、1954(昭和29)年7月発行の「点訳通信謄写版」第35報にも詳細を報じている。@点訳書選定委員会は一昨年12月以来1ヶ月おきに継続して開催されていること、A定例日は第4金曜日で午後2時から5時過ぎまで開催していること、B正式委員は7名で、本館から本間常務理事と加藤理事が出席していること。さらに、日本出版協会企画調査課長の鈴木剛男、国立国会図書館支部図書館部考査奉仕課長の山崎武雄、日本図書館協会常務理事の弥吉光長、東京教育大学付属盲学校教諭の阿佐博の4名が、「お忙しい仕事をお持ちであるにもかかわらず、その都度必ず出席下さいます」と特筆した。  また、図書選定の方法についても詳細に報告した。選定委員会の開催日に合わせて、@図書館協会、児童福祉審議会、NHKの3社の選定図書等を成人向き・児童向きに分けて、あらかじめ80冊程度のリストを加藤理事が作り、Aこれを選定委員に事前配布を行い、B選定委員がそれを持ち寄る手順を踏んでいた。選定委員会の席上では、C各委員が良書としてつけた印の数を計算し、直ちにその点数を発表して候補書を選出している。D各委員は、良書悪書にかかわらず点訳書として特に問題のある書物について意見が詳しく述べられ、E最終的に承認された候補書を本決まりとしていた。また、F決定された数十冊の選定書は、直ちに出版社別に分類整理してリストを作り、G寄贈依頼先にあてて郵送する段取りとなる。その際、既に寄贈を受けたことのある出版社には、日本出版協会・全国出版協会からの推薦状とともに、以前に寄贈された書物の点訳経過の報告書を添えて寄贈依頼書を郵送している。依頼状を発送して数日経つと、出版社から真新しい図書が次々と郵送されてきた。一方、初めての寄贈依頼先となる出版社には、本間常務と職員1名が訪問、挨拶を兼ねて趣旨を詳しく説明した。1日に7〜10ヶ所回る本間らは、訪問先の責任者が例外なく「点字の世界の特殊性をよく理解し、極めて丁寧に対応されるばかりでなく激励までしてもらい」、第1回分の寄贈書を手に、感謝に満ちて帰館していた。Hこうして集められた図書には、直ちに「日本点字図書館点訳書選定委員会選定書」の印が押され、I点訳の申し出のあった点訳者のもとに送られた。  本間が特筆した岩波書店の呼びかけによる出版社の協力実態とはなにか。それについては分析結果を踏まえて次に述べる。 3.岩波書店の呼びかけによる「点訳用図書選定書」  「点訳書選定委員会」に関連する史実は、これまで『日本点字図書館50年史』(日本点字図書館50年史編集委員会、日本点字図書館、1994)による記録、すなわち、@「(昭和27年)12月19日、第1回点訳書選定委員会開催。日本出版協会・鈴木剛男、日本図書館協会・弥吉光長、国立国会図書館・山崎武雄、国立盲学校・阿佐博、当館・本間一夫、加藤善徳ら。出版協会の斡旋により各出版社から点訳用活字書寄贈の途、開かれる」、A1953(昭和28)年11月の事項の下に「1月より5回開催、315冊選定。活字書は出版社より寄贈。著訳者への挨拶状送付等、相当数の厚意ある返信を受ける。」との記載によって把握されてきた。  本間一夫記念室で保管している保存資料「保存箱No.4:墨字原本寄贈」を紐解いていくと、岩波書店の呼びかけによる「点訳用図書選定書」は「点訳書選定委員会」が決定し、日本出版協会と全国出版協会宛てに発送していた史実が判明した(第1章の写真参照)。42ページ点訳書選定委員会が決定した選定書は、1953(昭和28)年1月23日付〜1954(昭和29)年10月1日付の書面をもって9回発送されていた。選定書を刊行した出版社258社から合計565冊が届けられたのである。   表:「点訳書選定委員会」が決定した選書数一覧 選定書の送付年月日選書数出版社数 第1回1953(昭和28)年1月23日付 5028 第2回(日付不明)4220 第3回(日付不明)6632 第4回1953(昭和28)年6月26日付 6126 第5回1953(昭和28)年8月28日付 7030 第6回1953(昭和28)年12月3日付 4325 第7回1954(昭和29)年2月26日付 7832 第8回1954(昭和29)年7月2日付 7127 第9回1954(昭和29)年10月1日付 8438 合計 565冊 258社 〈表、終わり〉    1952(昭和27)年12月19日に開催された第1回点訳書選定委員会で決定された図書は、1953(昭和28)年1月23日付の書面をもって全国出版協会と日本出版協会宛に送付された。本間は『点訳通信点字版』第17信に「出版社からの点訳用活字書の寄贈です。これも1ヶ月おきに開かれている点訳書選定委員会のご努力もあって、各出版社ともお願いをいれてくれております。この頃こちらから皆様にお送りする活字書は、すべてそうしていただいたものです」と伝えている。第2回目以降の点訳書選定委員会も、書面の送付日の1ヶ月前には開催されていたことが推察された。  ところで本間が自著『指と耳で読む』で述懐した「岩波書店、文藝春秋社、新潮社、中央公論社、講談社等」の出版社との協働とはどのようなものだったのだろうか。今回の分析結果では、岩波書店の呼びかけに対して刊行本寄贈に賛同し協力してくれることになった出版社は109社であった。このことから、これまで「岩波書店、文藝春秋社、新潮社、中央公論社、講談社等」の「等」一文字で表されてきた「出版社」は104社であることが判明した。この選定書を刊行した出版社からは、その後も寄贈を受けることになり、懸案だった点訳用図書の入手が担保されるに至った。  本間は、「もっとも記念すべき時期は?」と問われるならば、「私は(昭和)29年の後半から30年の前半にかけての一年間をあげたいと思います。なぜなら、それは厚生省から事業委託を受けて、図書館の乏しい予算に国費が加えられることになったからです。」(『指と耳で読む』p105〜106)と述べている。本間が何よりも嬉しかったのは、全額国の予算で、木造37坪の建物が建てられ、苦しみぬいてきた極度の建物の狭さからようやく解放されることだった。  本章で紹介した、1952(昭和27)年末から取り組んできた「点訳書選定委員会」の実績は、その後、厚生省からの事業委託に寄与することになる。  1953(昭和28)年の夏頃に、厚生省(当時)の安田巌社会局長と松本征二更生課長が来館して事業の実績をつぶさに視察した。その後、「あの事業をあのまま放っておくわけにはいかない。とにかく熱心にやっており、あれだけの基礎があるのだから、個別に国立の施設をつくるより、あの事業を育ててやろう」という安田社会局長の英断が下される。本間は、松本更生課長に呼ばれ、「建物だけで終わる都立より、事業委託費がずっと継続する厚生省でいったらどうか」と告げられる。今日の日本点字図書館の基礎は、この厚生省との結びつきによって築かれたといっても過言ではない。本間は、1954(昭和29)年1月14日午前10時、厚生省の事業委託予算が決定した旨の電話を、松本更生課長から受けた。「その瞬間の何ともいいようのない喜びと安堵感を、私は25年後の今も、生々しく覚えております。」と自著に記している(『指と耳で読む』p104〜105)。  焼け跡からのどん底の時代から再建を果たすに至った起点は、岩波書店の小林勇の来訪に恵まれたことに他ならない。本間は、1955(昭和30)年代を迎え、厚生省委託事業への道を拓いていったのである。   本章は西脇智子(2020)「日本点字図書館と出版社との協働」『実践女子大学短期大学部紀要』(41)53-74を大幅に加筆修正したものである。 43ページ 第5章 著作権者と日本点字図書館  後述する「1.著作権法の改正」にあるように、1970(昭和45)年まで点訳、音声訳にあたり、著作権者に許諾を得なければならない規定は一切なかった。そのこともあって、本間は開館当初から、点訳奉仕者が製作する点訳書に著作者の承諾が必要だという発想はまったくなかったと思われる。  当時、奉仕者が手打ちで点訳する点訳書は、世界に1冊しか存在しなかったことも影響している。それが、1955(昭和30)年になって、当時の厚生省が国費を出して点字出版を日本点字図書館に委託した。その際、複部数の点字書を製作するなら、著作権者に許諾を得るべきだという示唆があったものと考えられる。それにより著作権者への許諾を得るための手紙が出されるようになった。しかしその後も、奉仕者が1冊ずつ作成する点訳書についての許諾の申請はしていなかったという証言がある。  一方、1958(昭和33)年に始まった音声訳図書の製作にあたっては、当初から許諾を得るという発想があった。テープで複部数コピーができる上に、音声は目の見える人でも聴くことができるということによるものと考えられる。  点訳書についての許諾も含めて、著作権者からの許諾承認の返信が保管されていることは以前からわかっていた。第2章から第4章までとは異なり、新たに発見された資料ではない。2018(平成30)年に、テープライブラリー発足60周年に際し、それまで一括して保管していた著作権者からの返信は録音製作課から本間一夫記念室に移管された。今回、それが整理されたので、公表することにした。 44ページ 1.著作権法の改正  現在の著作権法は、1900(明治33)年に制定された旧著作権法の全部を改正して1970(昭和45)年に制定された。旧法では、障害者への情報提供のための規定が設けられていなかったため、点訳や音声訳を行なうには、著作権者の許諾が必要だった。  1970(昭和45)年に制定された著作権法の一部を引用する(その後改訂されている)。   (点字による複製等) 第三十七条 1 公表された著作物は、盲人用の点字により複製することができる。 2 点字図書館その他の盲人の福祉の増進を目的とする施設で政令で定めるものにおいては、もつぱら盲人向けの貸出しの用に供するために、公表された著作物を録音することができる。    この著作権法の改正によって、当時普及しつつあった音声訳図書の製作にあたっては、著者に製作の許諾を得る必要がなくなった。 2.著作権者への依頼 @ 点訳奉仕者による蔵書点訳のための許諾依頼文案。1953(昭和28)年頃。(第1章の写真参照)  拝啓 突然に、しかも印刷物をもつてご挨拶申上げる失禮をお許し願います。  当図書館は昭和15年以来、全国盲人に對し、点字書を郵送で貸出し、非常によろこばれ感謝されてまいりました。そしてこの事業の最も大きな特色は、点字出版事業がまだ發達しておりませんため、6千藏書の過半数が、篤志家の手になる点字寫本書である事であります。私共はこれを点譯奉仕運動と呼んでおりますが、美しい愛盲運動として、最近はラヂオや新聞等にも?々取り上げられるようになりました。これら晴眼者〔眼明き〕の方は、ご自分には何の必要もない点字を進んで学び、活字本を1字1字全くの奉仕で、点字に寫本してご寄贈下さるのであります。こうした篤志家は全国に渉つて、現在約8百名程おられます。点譯されますこれらの図書は、本館の点譯書選定委員会において、選定いたすのでありますが、この度その選定にもとづき、左記の御著書の点譯をお許し頂きたく、お願い申上げる次第でございます。 一点譯希望の御著書 一点譯奉仕者 この点譯奉仕の原本につきましては、日本出版協会並に全国出版協会の特別のお言葉添えをいたゞき、各出版社とも、点譯用原本に限り、ご寄贈いたゞけることになり、心から感謝致しております。  御著書点譯  完成の上は、この貴重な1冊が、本館を通して讀書に飢え渇く多くの盲人の指先に、心からの感謝とよろこびとを以て讀み取られて行くでありましよう。  ご多忙のところ誠に恐縮でございますが、これを機会に、この特殊な讀書の世界をご記憶下さいまして、盲人文化向上のため今後良書のご指導とご援助を切にお願い申上げます。  御著書点譯に先だちましてお許しを頂きたく、一言ご挨拶申上げる次第でございます。  尚ご参考までに、點譯書選定委員を附記させて頂きます。  点譯書選定委員 (順不同敬称略) 日本図書館協会理事  弥吉 光長 日本出版協会企画調査課長  鈴木 剛男 全国出版協会常務理事  宮本 信太郎 国立国会図書館一般考査部長  阪谷 俊作 国立国会図書館一般考査部連絡調整課長  齋藤 毅 45ページ    この他に毎回点訳奉仕者代表、盲人読者代表、図書館側各1名が正式に出席協議に加つております。 昭和  年  月  日  東京都新宿区諏訪町212番地  社会福祉法人 日本點字図書館   A厚生省委託図書として許諾依頼文書(小泉信三に送ったもの)(第1章の写真参照) 拝啓、とつぜんお便りを申し上げる失礼をお許し願います。 さて本館は昭和15年以来、全国盲人を対象に、点字図書館事業をつゞけて参りました。申し上げるまでもなく、点字書は出版事業として成り立ちませんので、一般教養書の如きは、無いに等しい現状であります。それゆえ本館は創立以来今日まで、晴眼(めあき)篤志家の協力により、点訳奉仕運動を展開し、無料で点字の手書き写本をしていただき、これを郵送貸出により事業をすすめて参りました。既に1万冊に近い蔵書の大部分は、こうして出来た本であります。ただこの手書き写本では、1冊しか出来ないので、読者の要求に応じ切れない悩みをつゞけて来たのでございます。 今回厚生省から「点字図書貸出」の委託事業を受け、今までの点訳奉仕者による写本以外に、点字複本をつくる資材の提供を受けることになりました。その第2回の点訳原本として、選定委員会は、  先生の御著「読書論」 を選定いたしました。つきましては、何卒盲界文化のために、これが点訳複本をお許しいたゞきたくお願い申し上げます。複本は50部乃至100部の予定で、これを本館及び全国各府県の盲人文化施設に備え、盲人に無料で貸出すものであります。このことにより不幸なる盲人が晴眼者同様文化の恩沢に浴し得るのであります。まことに「盲人は点字で眼が開く」ので、その感激がいかに大なるものであるかは、失明苦を知らぬ人には、想像も及ばぬ事柄であります。 尚、甚だ恐れ入りますが、資材費しかない僅少な予算でありますので、無印税にてお許しが願えませんでしょうか。(非売品で無定価) 以上、複本の許可と印税の件につき何分の御指示を賜りたくお願い申し上げます。もし必要がございましたら、御一報次第参上、親しくお願い申し上げる用意もございます。    記 1.使用する点訳原本 岩波新書版 2.完成本は1部献呈申し上げます。 3.出版社の諒解は直接当方からお願いいたします。 4.選定委員会の委員は次の方々であります。  厚生省厚生課長  松本 征二 氏  仝 児童局  中山 茂 氏  文部省特殊教育室長  辻村 泰男 氏  国立国会図書館  山崎 武雄 氏  日本出版協会  鈴木 剛男 氏  全国出版協会  橘 経雄 氏  日本図書館協会  弥吉 光長 氏  教育大附属盲学校  阿佐 博 氏  (以上)   東京都新宿區諏訪町212  社会福祉法人日本点字図書館  振替東京100288番  電話九段(33)7261番 小泉信三先生   [小泉信三は、手紙の枠外に直筆で下記の返事を書き、返信してきた。封筒にある日本点字図書館の受付印は1955(昭和30)年5月16日]   御申入れの件、承諾。 一言岩波へ御ことはり下され。  5月13日 小泉信三 46ページ   B録音図書製作のための許諾依頼文書。1963(昭和38)年に使用。(第1章の写真参照)   盲人の読書のための録音許可についてのお願い    とつぜんお便り申上げる失礼をおゆるし願います。本館は創立以来、晴眼篤志家の協力により、点訳奉仕運動を展開、点字の手書き写本をつくつて、郵送貸出をつづけてまいりました。昭和30年から厚生省の委託を受け、点字印刷書をつくることもでき、現在は両方を合せて7万(活字原本約6千冊)の蔵書を持つに至りました。    しかし、これら点字書のみでは、すべての盲人の読書欲をみたすことはできません。と申しますのは、点字を知らない盲人、中途失明者があまりに多いからであります。このため私共は「耳からの読書」の必要性を痛感し、昭和33年9月に「テープ・ライブラリー」を設けました。即ち原本をその通り音読してテープに録音し、そのテープを盲人に貸出す方法であります。幸いに著者諸先生をはじめ各方面の理解とご協力をいただき現在約3千本(活字原本約5百冊)のテープを持つに至りました。郵政省もこの録音テープを昭和36年6月から特別に無料扱いにして下さつております。    この度、私共は「テープ・ライブラリー」の中に、先生の御著書   を、加えさせて頂きたく、企画いたしました。録音は朗読奉仕会員が研究と練習を重ねた上、本館スタジオまたは家庭で行うことになつております。貸出先は、全国の盲学校、各府県点字図書館、盲人施設及び個人で、全部無料貸出であります。なにとぞ盲人福祉のため、御著の録音をおゆるし頂きたくお願い申上げます。 同封葉書により貴意をおきかせいただければ幸甚に存じます。    昭和 年 月 日  東京都新宿区諏訪町212  社会福祉法人 日本点字図書館  先生 3.著作権者から届いた返信 (1)点訳書承諾(第1章の写真参照) 拝復拙作「二銭銅貨」と「心理試験」点字本六十冊ぐらい御出版の件承知しました。無印税で結構です。 原稿二つとも同封します。本屋の方へはお断りに及びません。 御返事で 草々 昭和30年12月8日 江戸川乱歩 日本点字図書館御中   熱海宅宛御手紙拝見いたしました 御申越の件 すべて承知いたしましたから宜しきやうに御願いたします 5月20日 谷崎潤一郎   御手紙拝見 御役に立てばうれしく 元より印税のことなど御心配なく、 御骨折りに敬意を示します。 5月13日 武者小路実篤   冠省 御申越の亡父幸田露伴著五重塔 点字本におうつしの趣 よろこんで拝承いたしました 47ページ 一、この作品は亡父生前の○により岩波書店が出版いたしてをります申○ 当方よりも同書店に連絡いたしますが 貴館よりも同書店小林専務宛お伝へおき願ひます 一、無印税の件 承知いたしました 一、○○使用の原本は岩波文庫版より ・露伴全集第五巻(岩波書店版) ・筑摩書房 現代日本文学全集「幸田露伴集」 ・河出書房 現代日本小説大系「幸田露伴集」の中、どちらかをお選びの方がよろしいかと存じます 幸田文   前畧 点訳無印税の事○承知しました 尚前に1度か2度 点訳本を頂戴した事あり 讀む人もないので無駄になりますからお送り下さぬやう願ひます 草々 17日 志賀直哉   御申し越しの件承知致しました。 松本清張   御返事○○○○つもりでおりましたところ、まだで、大変失礼いたしました 私は赤毛のアンシリーズ点字訳については異議ありませんが、文庫版ならば新潮社から10巻まで出ていますし三笠書房では8巻までですから両社に一応お申○○○○○○方が いいと存じます。なお、偕成社から近く「ヘレン・ケラー伝」を出します○○、これもいかがと存じます 村岡花子   「日本の伝説」 「日本の昔話」 この2冊を點字にしてご利用○○○ ありません 右返事のこと 世田谷区成城町 柳田国男   前略 執筆旅行中にてお返事大へん遅れました。お申し越の件、大へん意義あることとて、お使い下さいますようお願い致します。 私の方こそ喜んで「暖簾」「花のれん」を加えていただきたいと思っています。 とりあえずお返事まで 山崎豊子   拝復  晶子歌集の版権は小生には無く與謝野家にて御相談あるべく同家の許可さへあれば小生には異存無く○ 右御返事のみ 佐藤春夫 (2)録音図書承諾(第1章の写真参照) 「きかんしゃやえもん」の件承知いたしました 8月21日 阿川弘之   御手紙の御趣き拝見致しました 私も只今はお休みして居りますがテープサービス者の一人でございます。私のお恥づかしい作品を読んでいただいて恐縮致しますが御役に立てれば嬉しく存じます御不明の箇書は何卒御遠慮なくお問ひ合せ下さいませ 私宅留守の場合は妹が申し上げます 本間先生の御仕事にはいつも敬意をささげて居ります 御返事まで かしこ 秋山加代   啓  お申し越しの件(「決められた以外のせりふ」の録音)承諾致しました。 如何様にお使い下さっても結構です。小生自身の朗読のテープも、TBSにあるはずです 匆々 芥川比呂志   御依頼の件(音楽を愛する人に−筑摩書房刊)承諾いたしました。 48ページ 芥川也寸志   「砂の女」お申し入れの件、了承いたしました。 12月12日 安部公房   「閉店時間」 「非色」 どうぞ、お使い下さい。 ついては、「非色」のテープは、是非1本頒けて頂き度く、テープ代お支拂いします 6/1.お願いします。 有吉佐和子   御申越しの件 承知をいたしました 御自由におつかい下さい 池波正太郎   拝復点字訳については総て無條件承認して居ります。しかし録音テープについては協力致しません、悪しからずご承知下さい。 2月7日 石川達三   拝復  国会多忙中のため御返事遅れて申し分けございませんでした。 貴殿の御申しこみ、承諾致します。 今後の御活動、心より御祈り申し上げます。 5月15日 石原愼太郎   拝復、  「蒼ざめた馬を見よ」をテープ・ライブラリーにお加え下さる由、大変光栄に存じます。皆様の御盡力により、更に多くの方に読んで頂けることを幸せに思います。  貴社の御発展を祈らせて頂きます。 草々 五木寛之   御芳書拝見、よろこんで承知いたします 少々でも盲人の方々の御なぐさめともなればこの上ない幸にて筆とる身の冥利とも存じます 私母方の親類で点字訳の仕事を一生の仕事としておる者もあり、テープライブラリイのこともよく承知申し上げております。どうぞ、お自由におつかい下さいませ。なお万一不明の箇所あればご一報を 犬養道子   「一期一会」テープの件承諾します 井上靖   拝復 拙著『多甚古村』の録音の件につき承知しました。 右、御返事まで。匆々 井伏鱒二   終りのない旅  どうぞ どうぞ なんでも御自由に! ありがたいと思っています。 永六輔   前畧  日頃盲人の方達のために御骨折り頂き感謝申上げます  『ぼくとホームラン』盲人の方々にお役に立てて倖せでございます  どうか御自由にお使い頂き度く存じます。全国盲人の方達の御健勝祈念申上げます  不一 王貞治   お返事がおくれました。結構です。ただ誤植がとても多いので、それを書きこもうとしたため御返事が○引した次第です。お許し下さい。全ては書き切れませんので、ひどいものだけにします。 49ページ [誤植の箇所20箇所あり] ひどい誤りは以上です。尚、不明の点はお問い合せ下さいませ。御返事いたします 草々 小原秀雄   「ロビンソンの末裔」点字化とのこと。どうぞ御自由に進行して下さい。 開高 健   承知いたしました ただし、あれの版権はストックホルムのノーベル財団にあります。財団の承認を得て下さると幸いです。 川端康成   前略、 拙著「蒼い眼の太郎冠者」(中央公論社刊)をテープ蔵書の中に加えて下りたいと分りました。喜んで許可を上げます。尚、無料貸出であることを了承いたします。 以上は簡單ながら御参考まで。 早々 5月22日 ドナルド・キーン   「たべものと日本人」テープ化、よろこんで承諾いたします。 多くの盲人の方々に、少しでもお役に立てば、大へんうれしいです。 私どものグループの中にも、点訳奉仕をしているものがおりますし、私の父は、昨年亡くなりましたが、点字毎日創設ために中心となりました。(毎日新聞元社員河野三通士) そういったこともあり、拙著がお役に立つことは、いろいろな意味で、感謝でございます。 河野友美   お手紙拝見いたしました。私のつたない著書“貝のうた”の録音希望のお申出、よろこんで承諾いたします。講談社の方えは、そちらからご交渉下さいませ。(学芸図書第二出版部) 私も録音奉仕させていただいたことがあります。実はこの本も、自分で録音させて戴きたいとかねて思っておりました。ただ あまりに忙しいので、なかなか出来ませんで困っておりました。どなたかおやり下されば早く、ご希望にそえることになりましょう。是非おねがいいたします。  とりあえずお返事まで 沢村貞子   お手紙拝見 点字のこと承知致しました 志賀直哉 20日 「ある男、その姉の死」よりもう少し面白い短篇を二つか三つ選ばれる方がいいと思ひます   竜馬がゆく 5巻 点字になさること、許可致します。 昭和43年5月25日 司馬遼太郎 日本点字図書館御中   諾 柴田錬三郎   テープライブラリーに拙著をとのことでございますが、今回は辞退させていただきます。別のものでございましたら御協力いたしたく存じますが、今回御指定のものは おゆるし下さいますようお願い仕ります 田宮虎彦   拝復「遥かなノートル・ダム」(森有正氏著)のおたずねがありましたが、何ぶんにも小生の著書ではないので、小生の一存で御承諾してよいものか、どうか迷っております。もちろん御趣旨には賛成ですし、パリの森先生も御快諾下さると存じますが、一応、出版元の筑摩書房にご連絡下さって、そちらでOKをおとりになったらいかがでしょうか。 もし出版元で著者の代わりということで小生が必要でしたら、いつでもお電話下さい。 50ページ とりあえず右御返事まで 草々 辻邦生   御申し越しの件 承知しました 寺山修司   拙著 銀の匙 をテープレコーダーに録音 貴舘の聲のライブラリー(仮称)に御採用の件承知致しました。 昭和33年11月23日 中 勘助   「銀嶺の人」盲人用テープの件承知いたしました。遠慮することなんか要りません。どんどん使って下さい。 昭和51年5月21日 新田次郎   拝復 小生と坂口安吾集(集の点訳)とは関係もありませんのでお断りします 丹羽文雄   どうぞお使い下さい。 畑正憲   前略 お申越の“人間ドック”録音テープの件 お役に立てて頂ければ幸いに存じます 何卒お用い下さいます様 皆様の御努力御盡力に陰ながら感謝申しております 先づは御返事まで 8月15日 日野原重明   御書面拝見「忘却の河」及び「草の花」の録音は悦んで許可します 私の妻が久しく病気のため成城の信愛ホームに毎日通ってゐますがそれにつられて私も時々ハリをしてもらってゐます いつぞやたまたま本間さんの隣のベッドにゐましたので懐しく存じました 宜しくお傳へ下さい 1月20日追記、「点字一覧表」を1部下さいませんか 福永武彦   前略 どうぞご使用下さい しかし私も視力を失い字がよめませんので私の作品のテープを1本宛 御送付下さいませんか 宜しくお願いたします 代筆  敬具 舟橋聖一   昭和史発掘 全13巻の点字化の件。不許可。 理由。厖大な拙著の点字化を求めるのに、一片の機械的な刷りもので依頼されるのはあまりに非常識だからです 松本清張   お手紙感謝申しあげます。お申越しの「道ありき」録音の件、承知いたしました。 どうぞお用いくださいませ。 右とりあえずご返事迄 三浦綾子   拝復 「愛の渇き」「午後の曳航」の録音の件、了承御候 8月25日 三島由紀夫   どうぞ よいようにおつかひ下さい 室生犀星   喜んで承知 武者小路実篤   森繁自伝 51ページ アッパさん船長 御使用下さい 53 4/1 森繁久弥   徳川家康の録音御完成の御由 おめでとう御座います と共に有難く存じます。盲いた方々のためにお役に立てて頂き却って御礼を申上げます 織田信長もどうぞお使い下さいませ 先に右御返事迄申上げます 山岡荘八   前略。 去る7月17日附で拙著「白い巨塔」の録音書についてご依頼書を戴きましたのを、全く当方の事務連絡不行届をもって(7月の3カ月一杯六甲山上宅におり涼寺は留守) 平日、書類整理の時発見致しました。大へん○○致しましたが どうかお役におたて下さいませ  お返事まで  かしこ 山崎豊子   御申越しの件承知いたしました 御返事まで申上ます 山手樹一郎   御丁寧なお手紙を頂きありがたく拝見いたしました。ずっと以前にも、「凱旋門」であったと思います。九州の方からお話があり、おねがいいたしました。 現在の「政治」。一般国民のための、心のこもった政治が全く欠け落ち、まことに殺伐で、索莫とした生活を強いられ、腹立たしいことばかりの思いを余儀なくされております今日この頃、非常に心温まるお仕事のお便りをいただき、拝見いたしました。拙訳がお役に立てていただけることは、何よりの喜びであります。レマルクの作品はこの学的価値は別として、あの恐ろしいユダヤ人大迫害の○された愕○をわかり易い文体で描いたもので、あの「汝の隣人を愛せよ」「凱旋門」「愛する時と死する時」そして収容所からのユダヤ人の解放を描いた「生命の火花」の四作はナチスによるユダヤ人迫害の悲劇を描いた連作で、一人でも多くの方たちに○に悲しみや悩みを知ることによって生きることの尊さを知ることができた方々に読んで頂けたら幸甚と存じます。 レマルク自身たった一人の姉かそれとも妹をナチのガス部屋で殺されたのでした。 山西英一   お手紙の趣き委細承知いたしました。 何分よろしくお願いいたします。  右まで 横溝正史   お申し越しの件、承知しました。 吉行淳之介   御書面拝見いたしました。私の本の録音テープのこと盲人への御奉仕はまことに結構と思います。しかしあの本の版権はベスト・セラーズ社にありますので ベスト・セラーズ社のこの本の係りの佐藤氏にどうか御電話して許可をとることを御たのみいたします。 淀川長治 *点訳書か録音図書か不明 御自由にお使ひ下さい 33年12月29日 川端康成 (3)「はがき」および「封書」の内容から読み取る  録音製作課が保管していた図書製作のために著作権者に許諾を得たはがき(1931通)と封書(26通)を整理してみた。52ページこのはがきについては『日点だより』第8号(1977(昭和52)年5月)、第9号(1977(昭和52)年8月)、第13号(1978(昭和53)年8月)に「著者の手跡」として6枚が紹介されている。  はがきから著者名、書名、出版社、出版年、差出人、消印、日本点字図書館の受付日、差出人が書いた日付、はがき裏面の内容、その他を読み取った上で、エクセルを使って整理をした。書名が書いてあるものや日本点字図書館側が書いたとみられるメモからCLIS(総合図書館情報システム)検索をして、ないものは国立国会図書館サーチにより検索をした。しかし、書名が特定できないものも多数あった。  録音製作課で保管していたが、293通は点訳書製作のために許諾を得たものだった。また、102通は点訳書の許諾を得たはがきか録音図書の許諾を得たはがきか判断できなかった。  はがきが戻ってきた時に、チェックをした一覧等があったと思われるが、「そのようなものは見たことがない」とのことだった。(元図書製作部上野目部長に確認)   @点訳書の許諾について 枚数 293通(内封書6通)内お礼 31通   最古 1955(昭和30)年1月16日(消印)  『雁』 森鴎外著 最新 1965(昭和40)年5月11日(消印)  『3分間スピーチ』 諸星龍著   消印の年(お礼状を除く)  1955(昭和30)年 34通  1956(昭和31)年 35通  1957(昭和32)年 25通  1958(昭和33)年 31通  1959(昭和34)年 10通  1960(昭和35)年 2通  1961(昭和36)年 〈空欄〉  1962(昭和37)年 74通  1963(昭和38)年 46通  1964(昭和39)年 3通  1965(昭和40)年 1通  不明 1通 *消印が読めない  合計 262通    現在残っている点訳書作製のために著者に許諾を得たはがきは、枚数が少なく、これが全てとは思えないが、他にはがきは見つかっていない。許諾の始まりが1955(昭和30)年であることは、厚生省の委託を受け、点字印刷が始まった年と合致するが、1970(昭和45)年に著作権法が制定される前の5年間のはがきがないことには、疑問が残る。   A録音図書の許諾について  枚数 1562通(内封書19通)内お礼 4通 最古 1958(昭和33)年10月28日(消印)  『赤い雪』 榛葉英治著 最新 1978(昭和53)年8月14日(消印)  『死ぬ瞬間』E. キュープラー・ロス著 川口正吉訳   消印の年(お礼状を除く)  1958(昭和33)年 11通  1959(昭和34)年 39通  1960(昭和35)年 18通  1961(昭和36)年 10通  1962(昭和37)年 127通  1963(昭和38)年 56通  1964(昭和39)年 59通  1965(昭和40)年 90通  1966(昭和41)年 60通  1967(昭和42)年 92通  1968(昭和43)年 119通  1969(昭和44)年 206通  1970(昭和45)年 143通  1971(昭和46)年 8通  1972(昭和47)年 〈空欄〉  1973(昭和48)年 〈空欄〉  1974(昭和49)年 1通 53ページ  1975(昭和50)年 79通  1976(昭和51)年 119通  1977(昭和52)年 155通  1978(昭和53)年 144通  不明 22通 *消印が読めない等  合計 1558通    はがきの宛名に「日本点字図書館テープライブラリー御中」とあるもの(返信用のはがきで、住所、宛名は日本点字図書館がゴム印を押している)は、すべて録音図書製作の許諾をお願いしたもの。裏に「点字本」「点訳」「点字化」など記載があるものがあるが、「著作権者が間違えている」とのこと。(元図書製作部上野目部長に確認)  最古のはがきが1958(昭和33)年であることは、この年9月に「声のライブラリー」が発足したことと合致するが、1970(昭和45)年に制定され、1971(昭和46)年1月1日施行された著作権法により、点字図書館では録音図書を自由に製作できるようになったのに、1975(昭和50)年から1978(昭和53)年までに、許諾のはがきが497通もあることの理由を見出すことができていない。録音製作課の職員が、著作権法の改正を知らなかったとは考えにくい。「あなたの著作が視覚障害者の世界でも活用されているのですよ」という啓蒙を込めて、許諾の形式のまま、手紙を出し続けていたものと想像される。   「永井荷風と点字図書館」   荷風からの来信  日本点字図書館が厚生省の委託で、盲人のための点字図書をつくりはじめたのは、昭和30年1月からであった。かぎられた予算であったので、最初から無印税の諒解を著者に求める方針をたてた。  点訳書選定委員会は第1回から3回までに、数十冊の選定をしたが、著者たちは申しあわせたように、快く著作権の使用を許可してくれた。第4回目に至って、はじめて許可せぬという人物があらわれた。その後7年たつが、点字図書の場合、これが唯一の例外である。その著者の名は永井荷風―    「御書状拝見仕候 拙者無印税にてご使用の儀は 御断致候 正午12時前後なれば在宅致候間 御出被下度委細面談致可く候 御返事のみ勿々  12月8日  市川市菅野1124  永井荷風」    この葉書を受けとったのは、昭和30年12月9日のことで、さっそく作家の選定委員S氏に電話で相談した。文学者としての荷風を心から尊敬している氏は、  「荷風先生がちっぽけな印税にこだわっているはずはありません。おそらく高貴な文学精神から、著作権という公的権利の筋を通さねば、というお考えからでしょう。点字図書のことを説明すれば、すぐおゆるしが出ますよ。人に会わないので有名な先生が、先方から来いというのは絶好のチャンスです。行ってらっしゃい」 という熱心なおすすめ。12月14日、私はこのあまりにも有名な文化勲章の作家を、市川の寓居に訪れた次第である。   三度びっくり  選定委員会で決定した荷風の作品は「つゆのあとさき」と「雨瀟々」であった。前者にはともかく、後者には圧倒された。典雅な朗々誦すべき名文である。気品あくまで高く、一字一句抜きさしならぬ活きた文字の躍動で、魂をうばわれ恍惚我を忘れる境地を味わった。私はその感動の余韻をかみしめながら、砂地の松林を通り、やっと荷風先生の家をさがしあてた。  閑静な別荘地のような一角であった。竹塀をめぐらした瓦屋根の平屋。くぐり戸をあけて玄関に立った。呼鈴はない。戸に手をかけたが動かない。カギがかかっている。  「ごめんなさい」と声をかけ、ガタガタと戸を押した。54ページややあって、「だれだッ」といった声がして、玄関に人のけはいがする。「先生からお葉書をいただいて参った者です。日本点字図書館と申します」というと、戸の向側に降りたって、カギをはずす音がした。ガラリと戸があいた。一代の文豪永井荷風先生がそこに立っていた。  私はどぎもをぬかれた。この時ほどびっくりしたことはない。自分の眼をうたがったのである。  歯がぬけて、2、3本しかない。それは年令だから当然だが、どぎもをぬかれたのは、その服装である。私は戦後の窮乏時代のみじめな服装を知っている。しかし、その日の荷風先生ほどの傑作に出会ったことはない。メリヤスの下着はよれよれ、上衣の背広は、どこのゴミタメから拾ってきたかと思うような代物。両袖が袖口から20センチもさけている。ズボンはバンドで辛うじて腰にまきついてはいるが、前ボタンがかからず、パンツがまる見え、おまけにそれが破けている。私の顔は、あやふく、ふき出そうとするものを、懸命におさえる努力で、名状すべからざる混乱を呈した。  「さあ、どうぞ、おあがり下さい」  荷風の言葉は、さっきの「だれだッ」とは打って変って、丁重きわまるものであった。服装からは想像もできない洗練された東京コトバである。これは私にとって、二度びっくりであった。  丸石を敷きこんだ一坪の玄関、くつぬぎから上ると、すぐ三畳の間がある。畳に立っておどろいた。ひどく弾力があるのである。褐色に色あせた畳の表面は、一面にケバ立っている。いつ表換えをしたのであろう。まるで一昔二昔も前を思わせる畳である。みちびかれた客間の八畳も同様であった。この八畳には、家具は何一つなかった。絵も額もない、殺風景きわまる部屋で、次の間の六畳には、机や炊事道具などがあるのだろうが、私のところからは見えない。  「さあ、どうぞおあて下さい」  荷風は座布団を次の間から持って来た。見ると破けたところから綿がはみ出している。押しいただいてその上に乗ると、高低等しからざる平面である。ふと見ると、先生は私の前の例の畳に正座していられる。さてあいさつがすむと、荷風先生は真剣な面持でずばっと申された。  「ところで、いくら出しますか?」  これは私にとって、三度目のびっくりであった。まさか、最初の言葉が、金の取引きとは思わなかった。瞬間、Sさんのいった「高貴な文学精神…著作権の公的権利主張…」という言葉が、私の脳裡をかすめた。が、眼前の先生は、乞食同然の服装で、私の顔をにらみつけるようにして、「いくら出す」と、仰せられるのである。私は正直、二の句がつげなかった。  やっと気をとり直して、咄々と盲人読書の実態や点字出版に実情を説明した。先生は黙ってきいている。私の熱も段々加わり、どうぞ先生のご理解と、ご協力をと結んだ。この間、約30分ほどであったろうか。私の言葉が終わると、やおら荷風先生が口をきられた。  「それで、いくら出そうというのですか」  まるで私の説明は耳にはいらなかったようである。「雨瀟々」の作者、観潮楼跡の鴎外碑にふるったあの名筆の主と、いま私の前に坐って、「いくら出す」といっている人物とは、果たして同一人なのであろうか。   書付が欲しい  私は長期戦の構えをとった。それまでに頂いた著作権者からの快諾の葉書を、先生の前に、まるでカルタでもはじめるように竝べた。その中には、荷風の門下筋にあたる高名な文学者の直筆が何枚かあった。  「私の著作を無印税で出そうなどという人間は、はじめてです」  と荷風先生は言った。私も負けていず、  「盲人のための点字書に、印税を要求されたのは今までに先生一人です」  と反論した。しばらくして荷風先生はしぶしぶと、  「みんなが承知したのなら仕方ない。60部だけ許可します。増刷のときは、もう一度相談に来て下さい」と言って、押問答にピリオドを打った。55ページこの間約1時間。  私は厚くお礼をのべて起とうとした。すると荷風先生は、「書きつけがないですか」と言われる。その意味を判じかねていると、「無印税で許可したことに対し、書きつけが欲しい」との仰せ。「後からお送りします」ということでようやく辞去することにした。  屋外に出ると、私は大きく深呼吸した。なぜか笑いと涙が一緒になってこみあげてきた。あの日以後、私にとって、永井荷風は永久のスフインクスになった。  (昭和37年7月「厚生」掲載)   加藤善徳『目の不自由な人々の読書―点字と録音テープの図書館―』(日点文庫No.4)日本点字図書館、1965、P65-67    多くの著作権者が好意的に受け止め、許諾しているが、不許可の返信も何枚かはあった。しかし、「無印税で」とお願いしているのに「いくら出しますか?」と言ったのは永井荷風のみであったろう。  『父荷風』(永井永光、白水社、2005、p149)には、「いろいろな本に荷風はケチだと書かれていますが、それはほんとうです。敗戦の日から月日がたつにつれて、荷風には手土産を持った出版社からの原稿依頼が増えましたが、それらを決して私たちに分けてくれることはありませんでした」とある。  永井荷風の日記『斷腸亭日乘』7(岩波書店、1981、p90)には、 「十二月十四日。陰又晴。日本點字圖書館ゝ員加藤氏来話。午後浅草。アリゾナにて食事。」の一文がある。 57ページ 第6章 点訳通信 58ページ 1.二つの「点訳通信」  かつて、日本点字図書館が点訳奉仕者へ送っていたものに「点訳通信」がある。一時期、それは謄写版と点字版の2種類があって、内容もそれぞれに異なるものが発行されていた。  謄写版のそれは1944(昭和19)年7月に第1報が出ていて、その中で発行の意図を、決戦生活の寸暇を割いて黙々と点筆を奮っている点訳者に感謝の言葉だけでは言い表されない感激を覚えており、その感激の一端を表わすと記している。そのうえで、点訳者一人一人に呼びかけするような自由な気持ち、とらわれない形式で書くとの編集方針を述べる。また「日本盲人図書館だより」第3信(1944(昭和19)年8月)も「点訳通信」の発行を報じており、その中で「多忙な決戦下の寸暇を割き、点訳奉仕されている方々へ感謝を表し、連絡をはかるためのもの」と発行の目的を説明する。このときの全体の構成は館長・本間の巻頭言、期間内に納められた点訳図書名と点訳者芳名、図書館からのお知らせとなっていて、隔月での発行を基本とした。とはいえ、第2報は同年10月に延び、第3報は本来の発行月である11月に戻したものの、1945(昭和20)年に入ると再疎開、戦後の混乱など図書館を巡る状況や環境が目まぐるしく変化をしたために、休刊状態にあった。1948(昭和23)年からの東京での再出発では、点訳奉仕運動の復活を館運営の柱の一つに据えて活動した。その成果が現れて点訳奉仕者が増加したことを受け、1949(昭和24)年2月、戦後初の通信となる第4報を発行する。この中で発行頻度は3ヶ月に1回と書いているが、4月には第5報を出している。第1報と第2報はA5判の4ページ、第3報はB5判変形で7ページ、第4報はB5判変形で4ページ、第5報はB5判変形4ページで編集された。この「点訳通信謄写版」は、1975(昭和50)年4月の第133報をもって終刊となった。  一方、点字版の「点訳通信」は1950(昭和25)年6月末付けで点訳奉仕者へ送られた。その冒頭で本間は発行の趣旨を次のように語る。  「この点訳通信点字版は、私が直接皆様とお会いしているような気持で、また個人的なお便りのような気持で、謄写刷りのとは異なり、自由奔放に書いてゆきたいと思います。「点訳放談」とでも申しましょうか。したがって形式も順序もありません。どうか、そのつもりでお読み捨て下さい。」  この一文を見ても、謄写版とは異なるものであることが容易に推測される。すなわち、謄写版は「皆様お一人お一人にお呼びかけするような自由な気持ちと、とらわれない形式で書かせて頂きます」と述べつつも、館として点訳奉仕者への感謝と点訳への継続を強く願うものであり、このことが色濃く表れた内容構成である。対して、点字版は点訳奉仕への感謝と点訳継続を求めるものであっても、それを前面に出さず、形を変えて表現し、かつ私信のような形式で伝えようとする。第1信の内容は日本点字図書館における点訳奉仕運動の沿革、点字触読の実際(一般的な盲人の読速度)、盲人社会で用いられる言葉(墨字、晴眼者)を紹介していて、謄写版との違いが鮮明である。各回の具体的な内容は既に墨字に訳され『忘れ残りの通信集――点訳ボランティアの方々へ――点訳通信点字版』(日本点字図書館、1999)として公表されているので参照されたい。発行頻度は不定期で、当初は2ヶ月に1回の割合のように見受けられるが、その後間隔が広がり、後半は4ヶ月に1回の場合が多くなる。そして1958(昭和33)年8月の第37信をもって終刊となった。  第3章で取り上げた1948(昭和23)年6月10日発行「蔵書目録第3版」の「ご挨拶」で、本間は「この種の事業は、直接利用する読者と、私ども職員と、周囲から援助する晴眼者の力とが三位一体化されて初めて完全を期し、得られます。」と述べている。点字図書館事業は、利用者(読者)、図書館職員、支援者である晴眼者の調和によって維持され発展することを強調し、この蔵書目録では利用者にこのことを伝え、協力を呼びかけている。59ページ「点訳通信」の謄写版、点字版は、三位一体における支援者である点訳奉仕者に対してこのことを伝え続け、協力を乞うツールであったと言える。  「点訳通信」の性格は理解できたものの、本間はなぜ2種類のうち、一つをわざわざ点字で発行したのか疑問が沸く。郵便制度上、点字郵便はまだ無料化されていなかったので、財政的負担を抑えるためとする答えは成り立たない。日本点字図書館の理事を長く務め、副館長として現場の指揮にも当たったことのある直居鉄(1926(大正15)〜2012(平成24))の次の一文は、この疑問を解くヒントをもたらすものである。  本間先生は亡くなる直前まで寄付の礼状を点字で書き続けた。墨字で印刷した形式的な書面ではなく、一人一人に点字で書き、職員がかなふりをして出し続けた。私が日点で9年間先生と机に向かい合って仕事をしていたときも、ちょっとでも時間があけば点字板でこつこつと書いていた。タイプライターは使わずに古びた愛用の点字板で1枚1枚、一人一人に話しかけるように書いていた。私なら、覚えたてのワープロで書きたいところだが、先生は「点字でなければ自分の気持は通じないよ」と口癖のように言っていた。13歳で自ら読み書きできる点字の存在を知り、点字によって点字のために生涯を捧げた本間一夫先生の「点字でなければ自分の心は伝えられない」という「点字の心」を大切にしなければならないと思う。(直居鉄「本間一夫先生の「点字の心」」『日本の点字』29、日本点字委員会、2004、p19)  「点字でなければ自分の心は伝えられない」とあるが、ここでの本間の心は三位一体の一翼を担う点訳奉仕者に、感謝とさらなる点訳奉仕を願うものであり、そのために点字版に拘ったのではないかと考えられる。「点訳通信」点字版は製版・印刷によって作成されていて、点筆を使っての手書きではなかったとは言え、ここにも本間の点字の心をみることができよう。 2.欠落していた「点訳通信」点字版の発見  「点訳通信点字版」の内容は、墨字訳され、『忘れ残りの通信集――点訳ボランティアの方々へ――点訳通信点字版』に収載されているものの、それはすべてではなく、実は1950(昭和25)年の秋以降から1951(昭和26)年に出したと思われる第3信から第8信と、翌1952(昭和27)年に当たる第12信が欠落している。つまり、点字の現物は日本点字図書館に保存されているとは言え、全部が揃ってはいなかった。ところが2019(平成31)年になって、岸博実氏(日本盲教育史研究会事務局長)がインターネットオークションで「点訳通信点字版」のいくつかが綴りになっているものを発見し入手した。その中には、欠落となっていたうちの第5信から第8信、ならびに第12信も含まれていて、それらが岸氏から日本点字図書館に寄贈された。  第5信は3月27日の日付があるものの、年が記されていない。ただ発信時期からして1951(昭和26)年であることはほぼ疑いない。B5判6ページで、定型の封筒に入れられるよう裏面には4・9・14行目に折れ線を入れていて、これはその後のものにも共通する。このときの内容は、@好本督の著書『英国の魂』にあったロンドンの国民盲人図書館の点訳奉仕者が語る「ブレールコンシェンス(点字良心)」の紹介、A「点字毎日」に掲載された盲人作の短歌から、盲人の生活ぶりを表した作品の紹介となっている。  第6信は5月29日の日付とあるので、第5信と同じ年のものである。前月、名古屋でフィラデルフィヤクラブが主催して、同市に住む点訳奉仕者への感謝会が開かれ、本間もこれに出席し、点訳奉仕者の方々と懇談し、その後は読者と語らっていて、それらの内容を紹介する。翌日の東京への帰途では、浜松と静岡で下車し、当地の点訳奉仕者を訪ねており、その様子も伝える。60ページページの最後では、昭和25年度の決算がまとまり、寄付金総額が17万7千余円であったこと、その大部分が奉仕者の努力の賜であったことを感謝し、今年度も無理のない範囲での寄付を依頼している。  本間は『文藝春秋』1951(昭和26)年2月号に「點字の世界――盲人にも文化を與えよ」と題した7ページに渡る文書を寄せていて、自身の生い立ち、日本の点字図書館の現況、点訳奉仕運動、盲人に多く読まれる図書、米英の点字図書館事情などについて述べている。「1の27」と日付のある「点訳通信」第7信は、その一部を紹介することで終始する。  「点訳通信」第7信と記されたものがもう一つある。それには、日付が記されていないが、内容から推量して、1951(昭和26)年の盛夏のころと判断される。内容は3点で、一つは1948(昭和23)年の東京復帰のために立てた15坪の図書館を兼ねた住宅は狭隘はなはだしく、隣にブロック建ての住宅を建設中であること、二つ目に盲人の楽しみとしてラジオの実況中継があること、盲人が行なうスポーツや盲学校で取り組まれている競技には盲人野球、全国陸上競技会や相撲大会、水泳大会があること、室内でのゲームにはトランプ、将棋、碁、18枚制の百人一首があることの紹介、三つ目に募金への協力となっている。  内容が異なる「第7信」が二つあることは不可解であり、日付や内容からして先の「第7信」は「第4信」であるならば頷くことができるだけに、誤字ではないかと推量される。  第8信も日付がないが、内容的に1951(昭和26)年秋ころの発信と思われる。冒頭で「いつもながら、この通信の発行が大変遅れて、なんとも申し訳ありません。いっそ一度合併号を出してはというご注意もいただいていますが、それもいかにも残念です。何とか追いつきますから、今しばらく御容赦を願います。」と述べ、全体の最後は「では、皆さんごきげんよう。」と結んでいて、言葉遣いや内容からして私信的な雰囲気を醸し出しているようにもうかがえる。本文は二つのトピックがあり、一つは同年8月に全国盲大学生大会が開催されたこと、二つ目は人の声と盲人のその認識について専門家の見解を紹介する。  第12信は1952(昭和27)年の7月29日付とある。点訳奉仕運動の躍進ぶりを喜び、効率的な点訳を図ろうとしてか点訳すべき本の種類を大別し、@教養・専門書、A少年少女読み物、B文学作品とし、奉仕者に点訳したい分野を尋ねている。また、「点字毎日」主催の全国盲学生弁論大会で、演説内容に、ここ両3年、点訳奉仕運動への感謝が取り上げられ、それが高成績をあげていることを紹介し、盲学校生徒の図書館利用が増加していることを伝える。    以上、このたび岸氏から寄贈された各便りについて概要を紹介したが、その内容は必ずしも点訳に関することや点訳奉仕者の動向・消息に留まらず、読者である盲人の実態としての生活の紹介も多いことに気づく。点訳は自宅で行なう孤独な作業である。故にモチベーションをどう維持するかが問われる。奉仕者の中には仕事をもっていて、点訳のための時間を捻出しその作業に当たっている人もあって、こうした人々を図書館につなぎ留めることも必要である。「点訳通信点字版」は、点訳奉仕者と図書館をつなぐためのツールであり、三位一体となって図書館を運営していくとき、点訳奉仕者に読者である盲人の姿を理解していただき、もって点訳への熱意を維持していただこうとした。またそれを「心を伝えるもの」として点字版に拘り、点訳書の利用者である盲人についての理解を得ていただく紙面構成にも考慮したと解釈される。  「本・建物・人」は図書館を構成する三大要素である。日本点字図書館にあってもこれらがその前身の時代から大きな課題となっていたことは館の歴史が物語っているが、戦後の再建では特に本と建物を先決課題にして活動した。2種類の「点訳通信」は、本に関わる対応の一環ではあるが、点字版の内容を読んでいると、館長・本間の図書館事業に注ぐ熱意、何としても再建を成し遂げ、この国の盲人福祉を向上させたいとの強い思いと、そのために点訳奉仕者の協力を切に願う気持ちが行間から伝わってくる。61ページそこには、単に館長としての本間だけではなく、一盲人としての本間、人としての姿も見え隠れしていて、「点訳通信」は人物としての本間に触れることのできる資料でもあると言える。 3.岸氏寄贈の「点訳通信点字版」の墨訳  点訳通信 点字版 第5信  (3の27) 本間一夫  1.皆様、点訳奉仕者が、点字図書館の宝であることは各国とも全く共通であります。世界一の点字図書館であるロンドンの国民盲人図書館は、蔵書28万を数えるとのことですが、その重要な部分は、やはり点訳書だといわれます。この図書館に奉仕する1夫人、点訳者の手記が好本督氏の著書「英国の魂」に出ていますので、これをご紹介しましょう。「料理するにも、裁縫するにも、看護するにも、皆、相当な準備が必要であるように、点字の写本も、その通りで、相当な準備が必要である。そのうち、最も必要なことは、ブレールコンシェンス(点字良心)である。点字良心を得ることは、多くの人々にとって、決して容易でなく、なかなかの努力を要するが、しかし、ひとたびこれを得ると点字を書くことが、すべて楽になる。  そもそも、点字良心とは、なんであるか。間違った写字をした時、例えば、点字がうまく出ていないとか、消したところが十分に消えていないとか、書き出しの場所が少し外れているとか、区切りの印が落ちている事などについて、それらをいちいち書き直さねば、気がすまぬことである。この点字良心は、完全な写字の必要を痛切に感じ、この良心は、おのずから正確に写本する力となるのである。  点字を練習する主な目的は、次第に自動的に正確に楽に写本しうるようになる。そのただ一つのよい近道は、間違うごとに書き直し、完全になるまでやめない事である。正確ということは他のいろいろな事のことと同じく、一つの習慣で、その習慣は、心掛けしだいで容易に得られるものである。まずい点字の写本は、盲人が甚だ厭うものであるが、完全なる点字の写本を作ることは、まずい写本を作るよりも、実際は、楽であり、これに熟達すると最小の時間で最良の写本ができるようになる。  私は、かつてある1枚の点字を書くのに10枚も書き直したことがある。然しかくたびたび書き直したことが、私が、点字を完全に楽に写しうるようになった秘訣である。それからのちは、間違いあるごとに喜んで書き直し、次第に書き直す必要がなくなった。そうして、それがため正確に忠実に仕事をすることが習慣になり、ついに点字を書くことが楽しみとなった。  この人生は、まずい仕事を下手にするのには、あまりに短いが、よい仕事を上手にするには十分の時間がある。点字を写本するにも他の不幸な人々を助けようとする志だけでは不十分で、正確に上手に仕事をする力を養成することが大切である。そうして、点字の写本は、盲人のみならず、写本する人自身が、これによって深く祝福されるのである」    2.今度は、趣きを変えて点字毎日新聞に掲載の盲人の作った短歌の中から、独特の感じを出したものを拾ってみます。つたないものも、季節はずれのものもありますが、ご了承ください。    人垣の あとよりあこをだきあげて 見えぬまぶたに踊り楽しむ(木村)  夢にさえ あこの面影みえねども 人のほむればうれしきものを(いわまる)  雨漏りの 今だ音するよるの部屋に かなだらいの水捨てて寝につく(吉田) 62ページ  新しく せんもうになくものもあらん 朝鮮動乱を嘆きつついる(三宅)  後ろより わが名を呼びて その席を譲られし声に思い当たらず(木村)  音軽く 尼僧は開くパラソルの 色をおとおりわれ○○○  わが前を 子がかけゆくと妻がいえば すなわち叫ぶ応援の声(まき)  せせらぎの かすかにきこゆ城跡の 盤水の日をまさぐりおれば(ふちの)  わがかたを みているらしきこの部屋の ひのびとを感じなずまず座る(池や)  電燈にきし つくつくほうしとらえ見れば 思いのほかに小さかりけり(森田)  さわやかに 秋立つ今日をつりなれし カヤをたたみて名残を惜しむ(おさだ)  しぎりゆく 力を指に感じつつ コスモスの手入れにあさあさ楽し(みずぐち)  鹿の声 しげき車窓に顔向けて 登山電車に揺られつついる(うえのやま)    点訳通信 点字版 第6信  本間 一夫  去る4月15日、名古屋のフィラデルフィヤクラブが主催して、同市に住む点訳奉仕者への感謝会が開かれ、私も出席の栄を得た。このクラブは、カトリック信者の晴眼者と盲人が相寄って作るもので、その有力なメンバーが、本館の読者なのである。出席者は40余名、ただし、点訳奉仕者は、平田益子さん、伊藤美子さん、松本あや子さん、長谷川じゅんさん、それに東京から私を案内してくれた沓名芳枝さんの5名だけであった。語ったり、歌ったり、誠に、和やかな午後であったが、私の一番うれしかったのは、やはり、奉仕者の方々や読者諸君にお会いできたことである。  平田さんはもう8冊の点訳書を持たれ、お子さまに恵まれない寂しさを点訳で癒したいと語られる中年の奥様。伊藤美子さんは、和裁をなさっているといわれるにふさわしい、ものしずかなお嬢様で、先ごろ、川端康成の短編集をなすった方。松本さんは、ごく近々に最初の1冊が出来上がるとの、明るい近代的なお嬢様、長谷川さんは、つい最近点訳を始められた方である。それぞれ個人的にお話できた時間は極めて短くて残念だったが、印象としては鮮やかに刻みつけられた。なお、平田さんは点訳書を選ぶのに大変苦心するという感想を述べておられた。これは、実に全奉仕者の問題であるのかもしれない。図書館としても、その対策の責任を痛感しているが、活字書を十分に購入できるだけの予算を持つまで、その具体化は難しいのではあるまいか。一方、読者との語らいは、7時を過ぎてもつくるところを知らなかった。ある読者は、盲学校の小学部時代から読んでいたのが、今は中学部を終えて、新進気鋭、立派な鍼按家となっている。「図書館から切り離した私の生活は考えられません。」というものもあり、『世界史概説』8冊(新さん点訳)を全部写しとって座右に置いているという熱心家もある。全国の奉仕者、個人個人についての質問もいろいろと出た。  「親兄弟ですら、点字を覚えるものがないのに」というのが、彼らのつきつめた感謝の表現である。理屈を超えた、こうした現実をまのあたりにして、私も本当にうれしかった。  翌日また沓名さんに伴われ、東京への帰り、浜松と静岡で、それぞれ2時間ほどを下車し、矢部文子さんと、山口貞子さんをお訪ねした。矢部さんは、新津にご勤務の時間だったが、駅前の喫茶店にご案内くださる。「家庭の聖女」4冊を書き上げられた方で、お母さまとお二人きりという、ご生活がにじみ出てか、どこか寂しさを感ずる方であるが、雑音に囲まれながらも、しみじみとお話することができた。山口さんの場合は、駅前山口商店の静かな客間に通され、お母さまもご一緒にお話が弾み、美味しいお寿司までご馳走になる。貞子さんは、案じていたご病気もほとんど全快に近く、はつらつとしたお嬢様。しかし、お話には18歳とは思われない深さがあって、流石とうなずかれる。6冊を完成され、大物「チボー家の人々」にかかっておられる。 63ページ  私、この秋には、九州まで旅行する予定であるが、途中また一人でも多くの点訳奉仕者の方にお目にかかることを今から何よりも楽しみにして待っている。    このごろ点訳書の増加が特に目立って参りました。毎日、西から東から届けられる貴い点訳書をまさぐりながら、これによって慰められ、励まされるたくさんの盲人の幸せをしみじみと思います。私自身、どれを読むべきか迷わざるを得ません。少なくも今日までの日本において、私ほど読書の自由を許された盲人はないでありましょう。時間に限りあるを嘆くのみ。「盲人も点字の本に向かう時だけは目があく」との、この運動の大恩人、後藤静香先生のお言葉は確かに至言であります。  このほど25年度の決算がまとまりました。寄付金総額、17万7千余円は、大部分、奉仕者皆様のご努力の賜でありました。二重のご協力、本当に恐縮ではありますが、これなくして本館の経済は成り立ちません。近く、詳しい御礼ご報告を申し上げますが、今年度も決してご無理のない範囲で何分ともよろしくお願い申し上げます。(5月29日)    点訳通信 点字版 第7信  本間 一夫  皆様の美しいご奉仕を世に知らせたいという気持ちから、私は「文藝春秋」2月号に「點字の世界」と題する一文を書きました。お読みになった方もあろうと思いますが、本号にはその一部を抜き書きしてみたいと思います。  点字の本が日本では一体どのくらいできているのであろうか、まず点字出版であるが、これは薄い亜鉛板を2枚重ねにした物に、ちょうどミシン程の大きさの足ぶみ機械で点字を打ち出し、その間に紙をはさんで、ローラーに通すのである。これだと、亜鉛板さえできていれば、必要に応じていくらでも刷れるので、盲学校の教科書や週刊の点字毎日、月刊のリーダーズダイジェスト、その他いくつかの雑誌もあって、点字定期刊行物の世界は一応にぎやかだといっていい。ところが、単行本の世界はというと点字出版社が東京に1ヶ所、大阪に2ヶ所、それに、静岡、京都にもあって、それぞれ努力しているにもかかわらず、ここはまた、極めて寥寥なんとも情けない限りである。終戦後、活字の出版界は、大変な盛況で新版、再版、良書、悪書でごった返し、毎月本屋の店先に飾られる新刊だけでも、相当の数のようである。ところが、その同じ5年間半の間に点字で出版された活字の本は、パンフレットの類を除けば、わずかに88冊で、そのなかに、鍼、あん摩などの職業の専門書が36冊あるから、一般読み物としては、あらゆる物をとりまぜて、52冊しかない。平均すれば年わずかに10冊という驚くべき数字しか出て来ず、ベストセラー級でも、「斜陽」「滞日10年」「細雪」上巻だけがあるに過ぎない。点字出版が、なぜこんなに振るわないかという理由は簡単である。点字出版に必要な資材、設備、技術等は、どうしても、その本を活字の本よりは、はるかに高価な物にしてしまう。売れる部数に限りのあることも当然で、民間の企業としてはとうてい成り立たず、政府がまたこの方面に全然手をつけていないからである。  それでは、海の向こうはどうか、アメリカには23万人の盲人がいるというから、日本の10万に比べれば、はるかに多いが、点字図書館は27あり、連邦政府だけで、盲人の読書のために年額100万ドル以上を費やしている。こうしてできる本は、そのまま27の図書館に配布されるから、各図書館とも5、6万程度の本を持っていて、5千冊ようやくという日本の図書館の思いも及ばぬ便利さで、盲人は個人の蔵書としては、聖書以外は持っていないといわれているほどである。イギリスは、ロンドンに蔵書28万という世界第1の図書館があって、その分館がマンチェスターにあり、この二つで去年の報告によると、1年間に6万ポンドを使っているから、日本の金にすると6千万円である。読者の数も非常に多く、ヨーロッパはもちろん、遠くインドあたりにも貸し出されており、戦争前には日本にもだいぶ来ていた。64ページ点訳奉仕者も相当いるようである。フランス、イタリヤ、ドイツは情報があまりないが戦争で荒らされてもいるので、たいしたことはないようである。  盲人はどんな本を希望するか、という質問を私はよく受ける。一昨年、図書館で全国の読者に対し読書希望の調査をやってみた。その結果は、1位 終戦後の作品、2位 翻訳小説、3位 明治以後の名作というふうに圧倒的に小説の類が多かった。普通の人ならば、この種の物は買うなり借りるなり、たやすく読めるのであろうが、それが全然許されない盲人の場合、これはうなずけることである。なお、4位以下は職業に関する医学の参考書、音楽、宗教などで、物理、科学は一番興味がないようだ。図書館としては、これら読者の希望を考慮し、一定の方針を立てて点訳奉仕者や出版所とも協力し、本を増やしてゆかなければならないと思っているのであるが、陣容が整わなかったり、経済的な事情があったりして、今だ緒についていないことは甚だ残念である。  (なお、どなたかお持ち合わせでしたら、ぜひ本物をお読みくださいますよう。1の27)    点訳通信 点字版 第7信(ママ)  本間 一夫  1.今日も刻々に温度が上ってゆくような暑さです。私は、北海道で育ち、関西で学び、仕事は東京というふうに周り歩きましたが、夏思い出されるのは、やはり北海道です。耐えられないという暑さはごく短く、朝夕は特にひんやりします。しかし、その北海道にももう3年半帰りません。もっとも母やいとこは、時々出て来ます。ところで、その母たちがせっかくはるばる上京しても「この家は本でいっぱいで、寝るところもない」と口説き立て、すぐこの隣に住宅を今建てています。それが、このごろはやり出したブロック建築で、外から見るといかにも図書館にもってこいの建築です。点訳者の方はじめ、来る人々毎におめでとうをいわれ、私どもは苦笑、閉口、弁明、これ努めるといった次第です。後のカラスが先になったとは、この話。ただし、その家も出来上がれば、会合程度には使えましょう。  2.毎年真夏になると、東には都市対抗野球が、西には高校野球が繰り広げられて、満天下ファンの血を沸かしますが、実況放送のおかげで盲人にも野球ファンがたくさんあります。プロリーグや大学リーグがたけなわになってくると、盲学校のスピーカーの前などは、ワァーワァー大騒ぎ。アナウンサーの真似などは、得意中の得意です。もっとも晴眼者は放送を聞いていても、一応その場面をまぶたに描くのでしょうが、盲人にはそれはなく、アナウンサーの熱のあるなしなどに気分が支配される率は大きいようです。とにかく、こうしてラジオを通じて、野球が世間並みに楽しめるということは、本当に大きな幸せです。ところで、つい十日ほど前、大阪で第1回の全国盲学校野球大会というのが開かれました。これは、無論聞くのではなくやるのです。もっとも、1チームに4人までは少し見える生徒が入り、ボールはバスケットのボール大の大きな物に鈴をつけ、ピッチャーはキャッチャーに向かって転がし、バッターは、その音を聞きすましてバットを振るといったふうに勝手は大分違いますが、投げる、打つ、走るの野球には間違いありません。また、盲学校のスポーツには伝統を誇る全国陸上競技や相撲大会があり、今年からは野球のほか、水泳大会も始まるなど、なかなか盛んになって来ました。なお、盲人の短距離レースですが、これはそのコースいっぱいに太い針金を腰の高さにピンと張り、それに3、4寸の竹を通し、それを握って走ります。竹が針金に擦れるカラカラカラという音はしますが、これで方向も狂わず、手も擦れないという訳で、50メートル7秒台の記録が出ています。スピードを主としない競技ではゴールのところでカネをならし、その方向を示すのが普通です。  このほか盲人ができる室内競技には、トランプ様の物がいろいろあります。普通の札にそのまま点字を打っておけば、持ち札は自分で分かりますから、そばの人が場の札を説明するだけの親切があれば、一つの卓を囲んで晴眼者と同じ楽しみを味わえるわけです。65ページこの他将棋大会も催され、時には碁をやる人もあります。将棋は、盤の上に目一つずつの枠を作り、探ってもコマが動かないようにし、コマには、小さなガラスクギ様の物を縦横斜めと、配置を変えて打ち込んで区別します。碁盤は、目の数だけ穴を作って、それに頭を丸くしたのと、とがったのと2種類の棒を差し込んでいきます。なお、このごろは百人一首もわが世界の物となりつつあります。これは、札18枚を並べ、それが探っても動かないように枠を作った縦40センチ横30センチ程の板を6枚用意して、源平3人ずつに分かれるほか、大体ルールは普通です。ただ札の位置を暗記しなければなりませんので、いわゆるお手つきはなしで、絶えず自分や相手の札を探って、記憶を新たにするわけですが、少し慣れてくると、非常に活気ある活発なゲームができます。以上盲人のリクリエーションともいうべきいくつかの例を挙げましたが、まだまだ研究の分野は広く残されているのが実情でありましょう。  3.点訳者の皆様に募金の書類をお目にかけることは非常に心苦しく思いますが、事業の現段階は、やはりそれを必要とすると結論されました。無論ご遠慮なく、お読み捨ていただきたく、ご事情の許す方のみ二重のご協力で誠に恐縮ではございますが、よろしくお願い申し上げます。    点訳通信 点字版 第8信  本間 一夫  いつもながら、この通信の発行が大変遅れて、なんとも申し訳ありません。いっそ一度合併号を出してはというご注意もいただいていますが、それもいかにも残念です。何とか追いつきますから、今しばらく御容赦を願います。  1.去る8月31日から3日間、ヘレン・ケラー協会が主催して、この図書館の近くにある東京盲人会館で、全国盲大学生大会が開かれました。今、日本には聴講生をも含めて20数名の盲大学生がいますが、その大部分が集まり、学校も教育大、早稲田、日大、上智、同志社、立命館、関学、その他神学校など10校をこえ、私は非常な期待と懐かしさとを感ずるまま、ほとんど終始行動をともにしました。この大会の目的は、文部省、厚生省、労働省等の政府機関はもちろん、その他関係ある諸団体に学生の実情を認識させ、その要求を知ってもらうにあって、学生と回答者側との間に終始活発な論議が展開され、誠に見事でありました。問題は広範囲に渡りましたが、なかでも点字の教科書、参考書をどうしてより豊富にするかという点には、特に論議が集中されました。この種の書物はその大部分が外国語であって、そのうえ講義なり、試験なりに間に合わせてゆかなければならないというところに点訳の困難さがあり、ごくわずかではありますが、いわゆる有料点訳の形で少数の人がそれを引き受けて来ています。ヘレン・ケラー財団が、今回これらの盲大学生に対し相当額の奨学資金を出すことになったのは、誠に喜ばしいことであります。目が見えないということは、活字が読めないということであり、また一歩戸外に出れば、もう危険を感じなければならないということです。そういった悪条件を克服して、晴眼学生と机を並べて勉学し、その成績もよく、上位を勝ち得ているということもしばしばであり、誠に痛快であります。今から12、3年前の私どもの時代には、全国で3、4名を数えるに過ぎなかった盲大学生が、戦争後、学生改革によって盲学校の卒業生にも大学の門戸が開かれたため、今日の盛んな時代を迎えたのです。この学徒たちがやがて、続々と社会に送り出される時、盲界文化にも一つの新しい回転期が来るのではないかと楽しまれてなりません。  2.盲人が人を判断する時、その声、話し方、その内容などを材料とすることはご想像の通りですが、盲人問題に詳しいある西洋人は、その声について次のように言っています。(訳者は岩橋武夫氏)言い過ぎもあるようですが、1個人の見解としては、なかなか面白くご紹介します。 66ページ  ――柔らかくて低い声の、何より優れていることを忘れてはならない諸君の声が、高かったり、荒々しかったり、あるいは、何かの理由で不愉快なものであったりするならば、十分その声を抑制して、敏感な盲人に最上の印象を与えるよう注意しなければならない。盲人は、単に言葉のみによらずして、諸君のいうところを考慮し、たとい諸君が望まないにしたところで、諸君の意味する最も大切な真相をばつかみ出すであろう。仮に、諸君が病気である場合、盲人に自分は壮健であると口先ではいえようが、しかし実際、その場合盲人を欺き尽くすことはほとんど不可能である。「正直は最善の政策である。」と常に言われているが、ことに盲人の場合はそうである。なぜかというに、盲人は彼ら特有の直感を持っているからである。多くの場合、人は第一印象により、好きにもなり、嫌いにもなれるものであるが、盲人はこの規則において、全く例外なしといってもよく、実際、人を評価することは晴眼者よりはるかに早く、しかも、最初に受けた悪い印象を長く忘れないものである。それゆえに、諸君は声の使い方において、均衡と静粛さとを必要とする点に特別の注意を払い、それが盲人に対する友情を作る第一の手段であることを知らねばならない。換言すれば、やりそこねのない手加減と同情とが、盲人の心に対する安全な通行券とでも言うべきであろう。――  では、皆さんごきげんよう。    点訳通信 点字版 第12信  本間 一夫  前回の点訳通信と一緒に、募金に関する印刷物を奉仕者皆様の御手許にまでお届けしました。これに対し、たくさんの方々から非常なご協力をいただき、誠にありがとうございます。私は、ここに多くは語りません。ただ、胸に満ちあふれる限りなき感謝をささげ、事業の使命のため、いよいよ邁進せんことをお誓いいたします。  点訳奉仕運動の躍進ぶりは、謄写刷りにも書きましたように、めざましいの一語につきます。1日、点訳書2.5冊以上といえば、活字書にして毎日、優に1冊は点字に直されているわけです。なんと素晴らしいことではありませんか。点訳書選定委員会の出発も十二分の意味を持ちます。  さて、この日を迎え、私は初めて一つの試案を呈しご相談をいたします。点訳すべき本の種類を大別して、第1教養・専門書、第2少年少女読み物、第3文学作品としますならば、あなたは主にどの部門を受け持っていただけるでしょうか。無論、あなたをその一つの枠にだけ閉じ込めて考えようというのではありません。一人の方が臨機応変、いろいろなものを手がけていただいて結構なのですが、こういった皆様の傾向を記録しておくということにも、今後点訳書をご相談する場合にも、非常に効果があると思うのです。どうか「図書館の仰せのまま」などとはおっしゃらないでください。皆様、それぞれの好みを点訳の中に生かしていって、大勢の方なのですから、ちょうど平均されたものができるように思います。教養専門書のなかには、種類からいえば、多くのものが含まれます。キリスト教書、哲学、歴史、伝記、音楽、また盲大学生のための参考書、少年少女ものには童話物語、または、科学書など、知的なものがあります。文学作品には、古典、外国もの、日本もの、詩歌などがありましょう。そういうふうに細かくおっしゃっていただけば、なおなお幸いです。私はもうそのため一人1枚のカードを用意しました。無論、おついでで結構ですが、御返事あり次第早速書き入れることにします。これがまとまりましたら、点訳書選定委員会の一つの参考資料ともなりましょうし、また、そのグループ分けを発表し、皆様お互いが通信で連絡しあい、励まし合っていくことができたらどんなに愉快だろうと思います。  次に、もうひと息のご練習で本式の点訳にかかれるところまで来ていながら、ここしばらくお便りの絶えているたくさんの方を私は知っています。実に惜しいことです。あなたのゴールはもうすぐそこです。この暑さのうちはともかく、涼風の立ち染めるころにはまたぜひ練習を始められ、立派な奉仕者の列に加わられるよう、心からお願いし期待をかける次第です。67ページマス空けもかな遣いも繰り返し繰り返しする、ご練習の前には必ず屈服する時が来ます。  大阪の毎日新聞が週刊で発行している「点字毎日」は、日本でたった一つの点字新聞として大きな役割を持っていますが、その「点字毎日」は、毎年春全国盲学生の弁論大会をも主催しています。その演説内容にここ両3年、点訳奉仕運動への感謝が盛んに取り上げられ、それがまた大変高成績をあげています。去年優勝した京都の代表は、私の書いた文藝春秋の記事をその内容の骨子としておりました。また、今年優勝した大阪代表の「ブライユに答えん」も、この運動に触れ、2位の石川代表は、「500の使徒」と題して、本館をめぐる皆様を終始扱っておりました。こういうふうに盲学生の間にも皆様への感謝は漸次広まって、この運動が始まる前までは、学窓を巣立てば、ほとんど読書する機会を与えられなかった彼らに明るい大きな希望を与えております。盲学生の利用者が、今だんだん増えていることも当然でありましょう。今年1月の婦人の時間の放送も、前もってこちらから連絡してあったため、ほとんど各校とも全生徒に聞かしてくれたようであります。なお、今年の4月現在、文部省の調査によると、日本の盲学校の数は72で、内訳は国立1、公立68、私立3、またそこに学ぶ生徒数は、総計6,155で、そのうち男子は3,895、女子は2,260となっています。  ではまた秋風のころ(7の29) 69ページ あとがき  日本点字図書館本部長 伊藤 宣真  日本点字図書館創立80周年の今年は、新型コロナウイルス感染拡大の年でした。  3月には、今夏東京開催予定のオリンピック・パラリンピックが来年に延期される決定がありました。4月には、緊急事態宣言が7都府県に発出され、その後全国に拡大、日本全体が自粛の社会となりました。最終的な全面解除宣言が5月に発出されたものの、感染は収まらず、人が多く集まるイベント、集会の中止が相次ぎました。当館も創立記念日の11月10日に全社協・灘尾ホールにて大々的に創立80周年記念式典を挙行する計画でしたが、残念ながら中止といたしました。  その式典で配布する予定で編集されたのが本書です。西脇智子、立花明彦両先生の研究をまとめ2015(平成27)年に出版した『本間一夫と日本盲人図書館』から後の研究成果です。設立準備から設立翌年の暮れまでの本間の自筆ノート、1941(昭和16)年2月以来1950(昭和25)年9月までの寄贈点字本の記録、戦後の再建時の蔵書目録、原本寄贈を出版社にお願いした記録文書、録音図書製作のための著作権許諾はがき等、古い資料から両先生が読み取られた当館の歴史を振り返る本書を、式典のお土産としてご来場の皆様にお渡ししたかったのですが、叶いませんでした。  このたび、当館の歴史を引き続きご研究いただいている両先生に感謝申し上げるとともに、本書でも紹介しました当館に関する古い貴重な資料をインターネットオークションで入手され寄贈してくださった、日本盲教育史研究会事務局長の岸博実先生に感謝申し上げます。また、製作費についてご助成いただきました一般財団法人日本児童教育振興財団理事長の相賀昌宏様に深く感謝の意を表します。 70ページ 引用・参考文献一覧 阿佐 博(2004)「本間一夫氏と点字」『日本の点字』(29)9-17 加藤善徳(1965)『目の不自由な人々の読書:点字と録音テープの図書館』(日点文庫No.4)日本点字図書館 記念誌製作委員会編(2011)『日本点字図書館創立70周年記念誌 新たな世紀、新たなサービス:電子図書館へのあゆみ』日本点字図書館 齋藤百合(1934)「我が国の点字図書館事業」『中央盲人福祉協会会誌』(1)29-41 立花明彦(2018)「日本盲人図書館開館直後の活動実態」『Journal of LISSASPAC JAPAN−アジア太平洋図書館情報学会日本支部誌』1(2)36-41 立花明彦、山田美雪(2018)「本間ノートを読み解く1:日本盲人図書館開館1年の活動実態」『図書館界』70(2)417-423 立花明彦、山田美雪(2019)「本間ノートを読み解く2:日本盲人図書館の構想とその創設」『図書館界』71(2)150-155 谷合 侑(1998)『盲人福祉事業の歴史』明石書店 直居 鉄(2004)「本間一夫先生の「点字の心」」『日本の点字』(29)17-19 永井壮吉(荷風)(1981)『断腸亭日乘』(7)岩波書店 永井永光(2005)『父荷風』白水社 西脇智子(2018)「日本盲人図書館における点訳奉仕活動の実態:「点訳奉仕者個別台帳」の閲覧結果より」『実践女子大学短期大学部紀要』(39)111-125 西脇智子(2019)「日本盲人図書館の点字出版本」『実践女子大学短期大学部紀要』(40)69-83 日本点字図書館(1948)『日本点字図書館蔵書目録(点字版)』(3)日本点字図書館 日本点字図書館50年史編集委員会(1994)『日本点字図書館50年史』日本点字図書館 本間一夫(1944)『日本盲人図書館概要』昭和19年版 日本盲人図書館 本間一夫(1944)『日本盲人図書館だより』(3)日本盲人図書館 本間一夫(1948)『日本点字図書館概要』昭和23年版 日本点字図書館 本間一夫(1949)『点訳通信』(謄写版)(4-6)日本点字図書館 本間一夫(1951)「点字の世界:盲人にも文化を与えよ?」『文藝春秋』29(2)187-193 本間一夫(1952)『点訳通信』(謄写版)(23)日本点字図書館 本間一夫(1953)『点訳通信』(謄写版)(26)日本点字図書館 本間一夫(1953)『点訳通信』(点字版)(17)日本点字図書館 本間一夫(1954)『点訳通信』(謄写版)(35)日本点字図書館 本間一夫(1980)『指と耳で読む:日本点字図書館と私』(岩波新書 黄版138)岩波書店 本間一夫(1997)『点字あればこそ:出会いと感謝と』善本社 本間一夫(1999)『忘れ残りの通信集:点訳ボランティアの方々へ』日本点字図書館 本間記念室委員会編(2015)『本間一夫と日本盲人図書館:本間一夫生誕百年記念出版』日本点字図書館 協力(順不同・敬称略) 岸 博実 立花 典子 山本 博子 永井 創 小野 俊己 森 登美江 菅澤美佐子 分担編集者および執筆者 伊藤宣真(日本点字図書館)…… 第1章、あとがき 川島早苗(日本点字図書館)…… 第6章3 立花明彦(静岡県立大学短期大学部教授)…… 第2章、第3章3、第6章1・2 田中徹二(日本点字図書館)…… 第5章 西脇智子(実践女子大学短期大学部准教授)…… 第3章1・2、第4章 濱田幸子(日本点字図書館)…… 第5章 ・ この冊子は、一般財団法人日本児童教育振興財団の助成により製作いたしました。 原本奥付 日本点字図書館のあけぼの ―創立80周年記念― 2020年11月10日 初版1刷発行 編集 「日本点字図書館のあけぼの」編集委員会 発行 社会福祉法人日本点字図書館 169-8586 東京都新宿区高田馬場一丁目23番4号 TEL 03-3209-0241(代表) URL https://www.nittento.or.jp/ 日本点字図書館のあけぼの 創立80周年記念 製作 日本点字図書館 製作完了 2020年12月