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第47回 随筆随想コンクール 優秀作品

鉄(くろがね)の風鈴

茨城県 小森 薫(こもり かおる)

 すずらんの咲く頃、私は北海道のふるさとで鍼灸マッサージの治療所を開いた。しかし、社会は厳しくて、しばらく父の援助を受けながら暮らした。
 ある日、「開業の記念に鉄の風鈴を買ってきたよ」と、父が手にくれた。それは五角の屋根付き立方体の中心に、小さい釣鐘の風鈴がついていた。その語(短冊)に、石川啄木の短歌が書いてあった。

    やわらかに柳青める北上の
       岸辺目に見ゆ泣けと如くに

 父はその風鈴を玄関の軒につるした。初夏の風に吹かれ風鈴が鳴り響いた。チリンチリリン……涼やかな音色(ねいろ)だった。
 私は白杖をつき出治療をしたので、この風鈴の音(おと)が道しるべとなり、迷わずに帰宅できありがたかった。
 思えば、私は北海道の大学二年の秋、下校の途中、突然車にはねられた。すぐ入院して治療を受けたが網膜硝子体出血で両眼(りょうがん)とも失明した。私は暗闇の中で悩み前途を悲観し、天国の母のそばへ行こうと思った。でも、見えない私にやさしく尽くしてくれる父を思えば、死ぬこともままならず悶々とした日々を送った。
 寒い冬も去り、父の支援を受けて、私は強く生きていこうと決心した。
 一九五八年の早春、私は父に手をひかれ郷里の釧路から上京し国立東京光明(こうみょう)寮に入った。そこで、親切な先生方やよい友達に恵まれ、私は真剣に点字の勉強や、白い杖による歩行訓練を続けた。さらに、理療科で専門の医学理論を学び、鍼灸マッサージの実技を習った。
 やがて、私は理療科三年を首席で卒業して、東京都の検定試験に合格し免許を取得した。それから帰郷して開業したのだった……。
 その後、私は知人たちの口コミのおかげで仕事もだんだん増え、ようやく経済的に自立できほっとした。
 毎年(まいとし)秋の敬老週間に、私は父に勧められ町の老人ホームへ行き、マッサージの奉仕を続けた。
 開業して四年目の晩春、突然父が倒れ脳出血で急死した。私は愕然とした。母はすでに、私が失明した二年前に病死した。だから、父が一人で私を支え守ってくれたのだ。いつも快く世話をしてくれた父に、好きだったワインを手向けて合掌した。
 父の死後も、治療師会の仲間たちと、老人ホームの奉仕活動を続け、私は十八年させていただいた。
 一九八一年の夏、北海道にきた観光客に、私はマッサージをした。
 あるホテルで初めて施術した建築会社の社長に「無料で家を建ててあげますから茨城にきてくれませんか」と、言われてびっくりした。私は不思議な出会いを直感し、父のように暖かい白井社長の善意に感謝した。
 その翌年(よくねん)青葉のにおう頃、私は妻と釧路から筑波山のふもとの町にきた。そして、親切な白井社長と奥様のお世話になり、新築して下さった家で開業した。私は父からもらった鉄(くろがね)の風鈴を、玄関の軒につるした。夏に涼しさを呼ぶ風鈴が鳴り響いた。チリンチリリン……
 ある壮年の患者さんが肩こりでこられた。「借金で回らなかった首が、鍼で回るようになってよかったよ。ハッハッハー……」と、喜ぶ患者さんに力づけられて、今日まで、誠実に治療を続けてきた。
 うららかな春の日、地区の部長がこられた。「去年のじゃんけん体操は、みな楽しそうにやっていましたね。来月、また何かお願いしますよ」と、頼まれた。前回は「肩こりや腰痛の解消と予防」だった。そして、次回は「すこやかな体と心は宝」に決まった。これまで町の会館五ヶ所で、私は地域の人に話をしてきた。時代とともに福祉は充実してきたが、その恩恵を受けるだけでなく、私のやれることで、地域の人につくしていきたい。
 振り返ってみると、失明して約半世紀、私は与えられた天職を生かし、懸命に働いてきた。この長い道程には、うれしいこともたくさんあった。だが、冬の白杖歩行で雪道に迷ったり、駅のホームから落ちて怪我をしたり、脊髄疾患で手足が麻痺したりなど、いくつもの困難に遭遇した。そのたびに、くじけそうになる気力を奮い立たせ苦境を乗り越えてきた。全盲の私は、親切な人々の協力のおかげで、生かされ生き抜いてきた。私を支えてくれた妻と、多くの人に心から感謝したい。
 今日も、青葉の風に吹かれ鉄の風鈴が鳴り響いている。チリンチリリン……この涼やかな音色を聞いていると、在りし日の父と母の笑顔が、まなうらに浮かんできた。

本文 おわり

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