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第48回 随筆随想コンクール 優秀作品

初めての沖縄旅行

岡山県 竹内 昌彦(たけうち まさひこ)

 一九八八年の春、岡山市の郊外に二千メートルの滑走路を備えた本格的な飛行場が完成した。そして東京はもちろん札幌や那覇など国内の主要な都市へ飛ぶ定期便もでき、県庁からは「遠距離の旅行や出張などは、出来るだけ飛行機を利用するように」という文書が流された。この時、当時岡山盲学校の理療科に務めていた私の胸に、ある考えが浮かんできた。それまでは修学旅行といえば、列車を使って東京か九州に行くことしか考えられなかったが、この機会に思い切って飛行機で沖縄に行ってみてはどうだろう。旅をするチャンスの少ない生徒たちに飛行機を体験させてやりたい、そして岡山では見られない沖縄の自然に触れ、先の戦争で恐ろしい地上戦に巻き込まれた沖縄の地で、平和の尊さを学んで欲しい、これが私の願いであった。この思いを日頃から親しくしている旅行会社のMさんに話したところ、彼はすぐに修学旅行の乏しい予算の中でおさまる三泊四日の沖縄旅行を企画してくれた。
 この計画を生徒と校長先生に話したところ、生徒たちはもちろん大賛成、校長先生からも「初めてのことですけど、いいプランだと思いますから進めてください」という暖かい言葉が返ってきた。
 ところが生徒の一人から異論が出た。昔、田舎の小学校で、授業開始の鐘を「カランカラン」と鳴らして回る仕事をしていたという五十歳代のSさんが「わしゃあ、ジェットきゃ、こう、恐ろしゅうて、よう乗らんで。船で行くわけにゃあ、いかんのかなあ」と言う。 最初はかなり深刻な声の訴えで、どうしたものかと思ったが、やがて周りの生徒たちの説得で、彼の心配も和らいでいったように見えた。
 ところが出発の日のことである。Sさんはジェット機の私の座席の真後ろに座った。そしてジェット機がエンジン音をとどろかせて滑走路を走り出したとき、彼はいきなり私の座席の背もたれにしがみつき揺さぶりながら震え声で叫びだした。
「先生、もうおえん! もうおしめえじゃ! 心臓が止まりそうじゃ! こねえなものに乗らにゃあ良かった!」
 もう、ここまで来たらどうすることも出来ない。ジェット機はさらにエンジン音を上げて空中へと急角度で舞い上がり、彼のパニックは最高潮に達した。
 ところがである。やがてジェット機は瀬戸内の穏やかな天空に達して静かな水平飛行に移り、エンジン音は静かになった。とたんにSさんは「なんなら、こねえなもんなら少しも怖えーことはねえ。びくびくせにゃあ良かった」と俄然元気を取り戻し、乗務員の若い女性に手を引かれてトイレに行ったり、あげくの果ては彼女とツーショットの写真をねだるという具合で、今度は別の意味で私をはらはらさせた。
 旅は思わぬスコールに見舞われるというハプニングはあったが、生徒たちはデイゴやガジュマルなど南国特有の植物に触れ、沖縄料理に舌鼓をうち、集団自決が行われたというチビチリガマに潜ったり、ひめゆりの塔に手を合わせるなどたくさんの思い出を残して無事終えることが出来た。
 卒業後もSさんからはしばしば我が家に電話がかかってきた。
「先生、毎朝腰が痛とうなるという患者が来たけど、どこが悪いんじゃろか」
「膝が痛えゆう太ったおばさんが来るんじゃけど、なかなか治らんなあ」
 そんな真面目な話の後、決まって彼の口から出るのは
「それでもなあ先生、わしの家の周りにはジェット機で沖縄に行ったもんや、こー、一人もおらんで。わしが沖縄の話をしたらみんなびっくりしとる」
 という自慢話であった。
「それでもジェット機をものすごー怖がった生徒もおったで」
 と私が言うと
「それは言わない、それは言わない」
 という笑い声で電話が切れるのが常だった。
 Sさんの訃報が届いたのは、彼が卒業して数年後のことだった。一人暮らしの彼は、体の不調を誰かに訴えたかったのか、電話の受話器を握ったままの死であったという。彼が住んでいた田舎町に向かって静かに手を合わせた。中途失明という運命にもめげず、正直に真面目に生きてきた彼、華やかさも恵まれることも多くは無かったであろう彼の人生、でもその中にあの沖縄旅行の思い出は明るい一ページとして刻まれたのではなかったろうか。ここまで思いを繋いだとき、寂しさの中にもわずかな安堵と温もりを覚えた。彼のことだから極楽に行っても沖縄旅行の自慢話をしているかもしれない。

本文 おわり

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