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第48回 随筆随想コンクール 優秀作品

おかげにて

埼玉県 日根野谷 博(ひねのや ひろし)

 「アッ」と小さく叫んで、私はタイルの床に転げ落ちた。慣れているはずの地下トイレへの階段を踏み外したのだ。コペンハーゲンで定宿にしている都心にあるホテルでの出来事であった。これが私の〈見え難い〉最初の記憶である。幸いにも軽い捻挫だけで、残り一週間をスケジュール通りこなして、パリのアパルトマンに戻った。
 当時私は、今から三十年程前になるが、ある大手百貨店のパリ駐在員として、北極圏のフィヨルドに沿った家具メーカーから、エーゲ海の小島にある陶器工場まで、ヨーロッパ中を飛び回っていた。パリ生まれの次女を得、気力も体力も充実した三十過ぎの働き盛りであった。今でこそ海外生活も珍しく無くなったし、帰国子女も溢れているが、当時海外駐在は貴重な体験であった。〈日本のために世界で働く〉という幼い頃からの夢を実現していたのだ。が、パリにいるのは年のうち半分もなかった。ある時、数週間ぶりで家に帰ると、五歳の長女の様子が一寸おかしい。とても脆くなっているのだ。妻は追い詰められて、苛立っていた。無理もない。慣れない言語や生活習慣の中で独りきりで二人の幼子を抱えているのだもの。だが、そんな不安も、いつしか仕事の刺激に掻き消されていった。

 数年後、東京に帰任した私は、見え難いものを感じ、念のためにと眼科で定評のある大学病院を受診した。
 「現在の医学では……」「失明する可能性は?」「残念ながら……」といった会話が、高名な眼科医と私の間にかわされた。愕然として診察室を出た私の目に涙が溢れた。待合室の衆目の中にも拘わらず、止め処もなく涙が流れた。
 「なぜだ。神はどこにあるのだ。仏は?」と心が怒鳴っていた。私は人生を恨んだ。墜ちるのか。一家の希望の星は、こんなにも頑張ってきたのに。遥か昔、夜半を過ぎても勉強する私に「もう寝たら」と声をかけてくれた亡き母、大学へいけなかった兄と姉、将来を期待してくれた恩師、受験の邪魔と恋慕の情を懸命に振り払ったことなどが次々と想起された。
 病院を出た私は、近くのホテルのバーから親しい友に電話をかけた。尋常ならざるものを感じたのか、勤務時間中にもかかわらず、彼は一時間もたたないうちに来てくれた。彼に私の不幸をぶちまけた。人生の不公平を愚痴った。彼は愉快でない話を何時間も忍耐強く聞いてくれた。飲んだ。そして泣いた。飲んで飲んで、泣いた。薔薇色の将来を想い描いている妻にはとてもいえない。いずれ分かるにしても。
 日毎に見え難くなるのを会社に気づかれてはならない厳しい勤務が始まった。上司や同僚を欺くのは辛い。が、責任も段々と重くなり、仕事に今まで感じたことのない手応えがあった。面白い様に仕事ができ、社内の要人たちの信頼も勝ち取りつつあるのが実感できた。だが、書類の文字が滲んで涙の中に溶解し、光に向かうとレース越しに見ているようになった。残業帰りでは路傍のどぶ川へ片足を突っ込み、駅のホームから転落したのを必死で同僚に口止めしたこともあった。すれ違う役員や上司に挨拶ができなくなってきた。まずい。これは、極めてまずい。
 そんな充実感と絶望のカオスの中で、残業していた私に部長が声をかけてきた。「軽く行かないか?」遂にきたと直感した。酒に強くない彼は、二人では滅多に誘わないのだ。近くの蕎麦屋で「ちょっと見え難いようだが?」と切り出された。予感が的中した。帰任後、何回目かの欧州出張の直後、パリの所長が「今後の海外出張は危険では」と言ってきたらしい。セーヌ川を見下ろすレストランで私がフォアグラを取り損ねたのを、彼は見逃さなかったのだ。
 あと一年で幹部社員への進級資格が取れたのに。迷いに迷った末、私は見え難くとも勤務が続けられそうな閑職の名を、次の人事異動申告書に記入した。無念だ。
 予想はしていたが、会社では多くの人達が何事もなかったように私から遠ざかっていった。そして私の挨拶が上司に〈聞こえない〉朝が増えていった。

 慢心と絶望、そして屈辱と忍耐で紡がれた私のサラリーマン生活が、昨年終わった。どうにか定年まで持ち堪えることができたのは、逆境に墜ちた私に手を差し伸べてくれた人達のおかげである。皆が去っていったときに、何人かの親しい友が私の元に残ってくれた。しかも以前よりもっと近くに。失明を宣告された夜に付き合ってくれたあの友の他にも、なぜか、その時々の窮地を脱するのに最も適格だと思える人が必ず傍にいてくれた。人生の重大な岐路に的確な指針を与えてくれた人達もいた。
 だが誰よりも感謝すべきは、容易ならざる家庭を維持し、立派に子育てをしてくれた、そして会社での不首尾や社会での不自由に苛立つ私を支え、怒鳴り合いながらもどうにか今日まで耐え抜いてくれた妻であろう。
 今私は、視覚障害者の合唱団の仲間と和音に感動し、やはり視覚障害者のボランタリーサークルの仲間に英会話を教えるのを楽しんでいる。
 こんな豊かで素晴らしい人生を送れるのは、そんな皆さんのおかげである。

本文 おわり

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