ふれる博物館
プレオープン企画 日本の城 協力:手と目でみる教材ライブラリー

平成29年11月10日(金曜日)から平成30年3月31日(土曜日)
協力:手と目でみる教材ライブラリー

1. 会津若松城(鶴ヶ城)

会津若松城 天守
会津若松城 天守

戊辰戦争を戦い抜いた奥州屈指の堅城

概要

 会津若松城は、地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれているが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。
 室町時代からあった葦名氏(あしなし)の黒川城を蒲生氏郷(がもううじさと)が文禄元年(1592年)から改修し、名称を黒川から若松に改めた。その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変える、地震で壊れた七重の天守を五重にするなどの大規模な改修が行われ、東北地方屈指の名城となった。
 幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、会津藩は新政府軍と戦い、1か月も籠城に耐え城の堅牢ぶりを見せつけた。多用された石垣には野面積をはじめとするいろいろな技法のものがある。戊辰戦争でダメージを受け天守はじめ、走長屋・南走長屋と干飯櫓等の建物はいずれも明治年間に取り壊されてしまったが、五重五階の天守と走長屋(はしりながや)は昭和40年(1965年)に、南走長屋と干飯櫓(ほしいいやぐら)は平成13年に再建された。

主な遺構

 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸、石垣、堀。

見どころ

 天守は、三重目に設けられた千鳥破風(ちどりはふ)付きの張出が特徴的である。
 天守から走長屋、南走長屋、干飯櫓と長く連なって再建された建物群の眺めは壮観である。20メートルにおよぶ本丸東側の高石垣は、打込接の美しいもので、いちばん高い石垣で高さ20メートル、長さ120メートルに及ぶ。

別名
鶴ヶ城(つるがじょう)
所在地
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1
城地種類
平山城
築城年代
至徳(元中)元年(1384年)、文禄元年(1592年)、寛永16年(1639年)
築城者
葦名直盛、蒲生氏郷、加藤明成
主要城主
葦名氏、蒲生氏、加藤氏、保科氏、松平(保科)氏
文化財史跡区分
国指定史跡
近年の主な復元・整備
平成13年に干飯櫓・南走長屋を復元。平成23年に赤瓦に葺き替え
天守の現況・形態
層塔型 五重五階 鉄筋コンクリート造(再建)
交通
JR磐越西線「会津若松」駅から、まちなか周遊バスで約20分「鶴ヶ城入口」下車、徒歩約3分


2. 江戸城

江戸城 天守台
江戸城 天守台

将軍家とともに歴史を刻んだ日本最大の城郭

概要

 江戸城は、長禄元年(1457年)、扇谷上杉(おうぎがやつ・うえすぎ)氏の家臣 太田道灌(どうかん)によって築かれた。豊臣秀吉の関東平定後、江戸に入府した徳川家康は慶長8年(1603年)、征夷大将軍になると江戸城を本格的近世城郭にすべく改築に着手した。さらに秀忠・家光と3代にわたり全国の諸大名を動員した天下普請(てんかふしん)によって、城の中枢部から総構(そうかまえ)まで築城工事は続けられ、江戸城は徳川将軍家の居城にふさわしい壮大な城となった。
 天守は3回建てられたが、明暦(めいれき)3年(1657年)の大火によって天守が焼失してからは再建されなかった。明暦の大火以降は、富士見櫓が天守代用とされた。富士見櫓は、三重櫓で均整のとれた美しい外観を見せている。関東大震災で倒壊したが、再建された。

主な遺構

 櫓(伏見櫓・桜田巽櫓など)、城門(外桜田門・清水門・田安門など)、番所、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸、石垣、堀。

見どころ

 富士見櫓をはじめ、桜田巽櫓や伏見櫓、大手門や外桜田門など、江戸城の櫓と門はいずれも他の城の櫓や門と比べて、桁違いに大きく立派である。
 伏見櫓は二重櫓で現存している。伏見櫓の近くにある石橋は、西の丸の大手橋を明治に架け替えたものである。かつての二重橋は、昭和になり鉄橋に替えられた。現在は石橋と鉄橋を総称して二重橋と呼んでいる。
 桜田巽櫓(さくらだたつみやぐら)は二重櫓として全国的に最大級の規模を誇る。江戸時代には桜田二重櫓と呼ばれていた。現存する。

別名
千代田城
所在地
〒100-0001 東京都千代田区千代田
城地種類
平城
築城年代
長禄元年(1457年)、慶長11年(1606年)、元和8年(1622年)、寛永14年(1637年)
築城者
太田道濯、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光
主要城主
太田氏、小田原北条氏、徳川氏
文化財史跡区分
国指定特別史跡、国指定史跡、重要文化財6件、都指定重要文化財多数
近年の主な復元・整備
平成17年に本丸北東部(潮見坂から梅林坂周辺)石垣を修復
天守の現況・形態
天守台のみ残る
交通
JR「東京」駅から徒歩約15分。地下鉄千代田線「大手町」駅から徒歩約5分


3. 松本城

松本城 天守
松本城 天守

石川氏が完成させた信濃一の大城郭

概要

 永正元年(1504年)に小笠原氏一族の島立貞永(しまだち・さだなが)が築いた深志城が松本城の前身とされている。松本城に改称したのは天正10年(1582年)のことである。徳川家康の関東移封により、小笠原氏に代わって石川数正が松本城に入り、近世城郭の普請と城下町づくりを始めた。しかし、数正の代には完成せず、子の康長に改修工事は受け継がれ、今日に残る国宝指定の天守・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)などが完成した。
 松本城の天守は姫路城とともに2基しか現存していない五重天守として非常に貴重である。漆黒の国宝天守群が北アルプスの銀嶺に映える。

主な遺構

 天守、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓、本丸、二の丸、堀。

見どころ

 黒い下見板と白壁が美しい。調和した天守を中心とした天守群の複雑さと組み合わせの妙は全国一である。複雑な天守群は、乾小天守、天守、辰巳付櫓、月見櫓、連結式と複合式が組み合わされて形成されている。本丸内からの姿も城外水堀越しに見た姿もそれぞれに素晴らしい。
 太鼓門枡形は、高麗門(こうらいもん)と櫓門からなり、平成11年に復元された。

別名
深志城(ふかしじょう)
所在地
〒390-0873 長野県松本市丸の内4-1
城地種類
平城
築城年代
文禄2年から3年(1593年から1594年)
築城者
石川数正、康長
主要城主
石川氏、小笠原氏、戸田(松平)氏、松平(越前)氏、堀田氏、水野氏
文化財史跡区分
天守、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓(以上国宝)、国指定史跡
近年の主な復元・整備
平成11年に太鼓門を復元
天守の現況・形態
層塔型 五重六階 木造(現存)
交通
JR篠ノ井線「松本」駅からバス(タウンスニーカー北コース)で約8分「松本城・市役所前」下車、徒歩約3分


4. 名古屋城

名古屋城 天守
名古屋城 天守

徳川氏が西をにらんで築いた東海の巨城

概要

 名古屋城が築かれた地は、元々「那古野(なごや)」と呼ばれており、今川氏の支城があった。ここに徳川家康が慶長15年(1610年)、西国の外様大名らに大々的な天下普請を命じた。名古屋城の築城は大坂城の豊臣秀頼を牽制する意図があった。 広大な縄張に、天守・小天守を中心に多くの多聞櫓と櫓を建て並べた最大級の要塞である。五重の天守には金の鯱(しゃち)が載って評判となり、「尾張名古屋は城でもつ」と謳われるまでになった。明治になって取り壊されそうになったが、ドイツ公使の働きかけなどにより保存されることになった。しかし、惜しくも第2次世界大戦で大天守・小天守、本丸御殿とも焼失してしまった。天守は昭和34年(1959年)鉄筋コンクリート造で再建され、現在は本丸御殿の復元工事が進行中である。

主な遺構

 本丸東南隅櫓、本丸西南隅櫓、御深井丸西北隅櫓、本丸表二の門、二の丸西鉄門二の門・東鉄門二の門、本丸、二の丸、御深井丸、西の丸、二の丸庭園、石垣、堀。
 シンプルながら鉄壁の守りの縄張が残っている。

見どころ

 再建された天守や大手門も含めて、櫓などの建築物の大きさと均衡のとれた美しさは、さすが御三家の城というべきである。加藤清正が築いた天守台の石垣も見事。名古屋城天守は、現存天守で最大の姫路城天守の3倍以上の容積をもつ。御深井丸西北隅櫓は、現存する三重三隋の櫓で、高知城・丸岡城・宇和島城天守を凌ぐ大きさをもつ。清洲城天守を移築したと伝承されていたが、昭和37年から行われた修理でそうではないことが判明。本丸東南隅櫓は、外観二重、内部三階の大型隅櫓で二階部分には出窓がつけられ、屋根は軒唐破風(のきからはふ)で飾られている。

別名
蓬左城、楊柳域、柳が城、亀尾城、鶴が城、金城、金鱗城、金鯱城
所在地
〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1-1
城地種類
平城
築城年代
慶長15年(1610年)
築城者
徳川家康
主要城主
徳川氏
文化財史跡区分
国指定特別史跡、国指定名勝、重要文化財4件ほか本丸御殿障壁画
近年の主な復元・整備
平成21年1月、本丸御殿の復元工事着工
天守の現況・形態
層塔型 五重七階 地下一階 鉄筋コンクリート造(再建)
交通
市営地下鉄名城線「市役所」駅7番出口徒歩5分(東門)、観光ルートバス「メーグル」で「名古屋城正門」下車すぐ(正門)


5. 彦根城

彦根城 天守
彦根城 天守

琵琶湖に臨む井伊家14代の堅城

概要

 彦根城は、徳川四天王の一人、井伊直政が琵琶湖湖畔の佐和山(さわやま)の地に城を築こうとしたことに始まる。直政の死により築城は計画のみに終わったが、その遺志を継いで子の直継は彦根山(金亀山)を城地と定めて、慶長12年(1607年)に天守など主要部を完成させた。築城は徳川家康の支援を受けて天下普請で行われ、また佐和山城や大津城など周辺の廃城から用材や石材などを調達、急ピッチで進められた。しかし城下町まで含む城の完成には20年あまりの年月を要した。三重三階、華麗な装飾を施された天守は明治維新の廃城令も戦災もまぬがれ、旧国宝保存法による城郭国宝の第1号に指定された。

主な遺構

 天守、天秤櫓、太鼓門櫓、西の丸三重櫓、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋、本丸、西の丸、山崎曲輪、太鼓丸、鐘の丸。

見どころ

 入母屋破風・切妻破風・唐破風と多彩な様式を組み合わせた国宝天守は美しく調和が取れている。現存の天守や櫓だけでなく、復元された表御殿、玄宮園(げんきゅうえん)や楽々園など見どころは多彩である。玄宮園は、延宝6年(1678年)に下屋敷に付随して造園、池水を中心とした回遊式庭園である。庭園から望んだ彦根城天守は彦根城の代表的な景観のひとつ。
 天守は、現存天守の中で最も多くの破風に飾られている。種類も入母屋破風、唐破風、切妻破風と多様である。
 天秤櫓は、太鼓丸入口に構えられた櫓で、多聞櫓(たもんやぐら)の中央を開けて門を設けている。櫓の左右に二重櫓を配した形から、天秤櫓と称された。

別名
金亀城(こんきじょう)
所在地
〒522-0061 滋賀県彦根市金亀町1-1
城地種類
平山城
築城年代
慶長9年(1604年)
築城者
井伊直継・直孝
主要城主
井伊氏
文化財史跡区分
国指定特別史跡、国指定名勝、国宝1件(天守)、重要文化財5件
近年の主な復元・整備
平成5年から8年に天守および西の丸三重櫓の屋根等の保存修理、平成14年から16年に表門橋改修、平成17年より楽々園保存修理、平成21年より玄宮園護岸保存整備、平成26年から27年に馬屋保存修理
天守の現況・形態
望楼型 三重三階 木造(現存)
交通
JR東海道本線「彦根」駅から徒歩約10分


6. 安土城

安土城 天守跡
安土城 天守跡

近世城郭の先駆となった信長の幻の城

概要

 安土城は、織田信長が「天下統一」の拠点の城として琵琶湖湖畔の標高約198メートルの安土山に天正4年(1576年)から約3年の歳月をかけて築城した。金、朱、黒などに彩られた五重七階の豪壮な天主や総石垣の普請、麓に計画的に設けられた城下町などは、以後の城づくりにはかり知れない影響を与えた。本能寺の変後、天主を中心とした山上の建物群は焼失し、現在は天主台や主要な曲輪(くるわ)の石垣を残すのみである。しかし近年の発掘調査と整備によって、大手道や伝家臣団屋敷跡、虎口(こぐち)跡など「幻の城」の姿が明らかにされつつある。

主な遺構

 天主台、石垣。

見どころ

 復元整備された大手道や伝家臣団屋敷跡を経て、天主台へと安土山中をたどれば、いやが上にも「幻の城」への思いは強くなる。石垣の積み方が場所によってさまざまに異なることも見ておきたい。
 大手道は、幅約6メートルの石段が約180メートル一直線に延び、山腹で左(西)に折れている。両側には家臣団の屋敷があったとされる。
 安土山は、かつては琵琶湖に突き出していたが、干拓や水田整備によって現在は琵琶湖湖岸が西に数キロメートル離れてしまった。

所在地
〒521-1341 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
城地種類
山城
築城年代
天正4年(1576年)
築城者
織田信長
主要城主
織田氏
文化財史跡区分
国指定特別史跡
近年の主な復元・整備
平成元年から20年度「特別史跡安土城跡調査整備事業」が滋賀県主体により実施
天守の現況・形態
天主台の遺構が現存
交通
JR東海道本線「安土」駅から徒歩約25分で登城口、登城ロから天主台まで徒歩約25分


7. 大阪城

大阪城 天守
大阪城 天守

豊臣と徳川が築いた天下人の大城郭

概要

 大阪城は、水運の利に恵まれた上町(うえまち)台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とするべく、天正11年(1583年)に築城を開始した。これが豊臣大坂城である。天正13年(1585年)、五重八階、黒漆塗(くろうるしぬり)の下見板(したみいた)と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼(ぼうろう)型天守を完成させ、これによって秀吉は天下人の権威を欲しいままに示した。しかし慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上してしまった。その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大坂城の上に盛土をし、石垣を新たに積み直して城を築いた。そして秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の徳川大坂城天守が寛永3年(1626年)に完成した。しかしこの天守も寛文5年(1665年)に焼失。以来昭和6年(1931年)に復興されるまで天守は存在しなかった。
 なお、この3代目天守は豊臣大坂城天守を摸して、徳川大坂城の天守台上に建てられている。日本初の鉄骨鉄筋コンクリート造の天守で、国指定登録文化財となっている。

主な遺構

 千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、焔梢蔵、本丸、二の丸、石垣、堀。

見どころ

 本丸や二の丸を巡る長大な石垣と水堀はいかにも将軍家の城にふさわしい眺めである。特に二の丸南側に屈曲しながら長く続く石垣は圧巻の一言。大手門・桜門・京橋門跡の巨石も見事である。
 いくつもの屈曲をそなえた石垣と2重に囲まれた広大な水堀が往時の姿をよく残している。城跡は史跡公園・大阪城公園となって人々に親しまれている。

別名
錦城、金城
所在地
〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
城地種類
平山城
築城年代
天正11年(1583年)、元和6年(1620年)
築城者
豊臣秀吉、徳川幕府
主要城主
豊臣氏、松平氏、徳川氏
文化財史跡区分
国指定特別史跡、重要文化財13件、登録有形文化財1件
近年の主な復元・整備
平成7年から9年に天守閣改修
天守の現況・形態
望楼型 五重八階 鉄骨鉄筋コンクリート造
交通
JR大阪環状線「森ノ宮」駅・「大阪城公園」駅から徒歩15分。地下鉄谷町線・地下鉄中央線「谷町四丁目」駅から徒歩約15分


8. 姫路城

姫路城 左から乾小天守、西小天守、大天守
姫路城
左から乾小天守、西小天守、大天守

白鷺にたとえられる世界遺産の白亜の城

概要

 姫路城の創築は、南北朝時代の初めとされる。羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭としての体裁を整え姫路城と改称した。今日に残る城の形にしたのは徳川家康の娘婿池田輝政で、8年の歳月を費やして慶長14年(1609年)、五重六階地下一階の大天守に3基の小天守を結んだ天守群を中心に、多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。その後、本多忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張をもつ名城が完成した。明治時代に失われた部分もあるが、昭和の大修理が施され、平成5年に日本を代表する城として世界遺産に登録された。

主な遺構

 天守群、櫓・門多数、本丸、二の丸、西の丸、三の丸、石垣、堀。

見どころ

 姫路城の見どころは数多い。まずは天守群の美しさと縄張の複雑さをあげてよいだろう。
 大天守、西小天守、乾小天守。大天守の後ろに隠れて東小天守があり、これらを渡櫓で連結した天守群はすぐれた構成美を形成している。
 「は」の門へ至る坂道の下から天守を見上げた景観は、姫路城の数多い名景色のなかでも代表的なものである。
 菱の門は二の丸入口に位置する櫓門。竪格子窓(たてごうしまど)、華頭窓(かとうまど)、出格子窓(でごうしまど)を配し、黒漆の格子に金箔の装飾が施された華麗な意匠である。

別名
白鷺城(はくろじょう)
所在地
〒670-0012 兵庫県姫路市本町68
城地種類
平山城
築城年代
天正8年(1580年)、慶長6年(1601年)
築城者
羽柴(豊臣)秀吉、池田輝政
主要城主
豊臣氏、池田氏、本多氏、松平(奥平)氏、松平(結城)氏、榊原氏、酒井氏
文化財史跡区分
国指定特別史跡、国宝8件(大天守、東・西・乾小天守、イ・口・八・二の渡櫓)、重要文化財74件
近年の主な復元・整備
平成21年から27年まで約5年半かけて大天守保存修理を実施。平成27年3月27日よりグランドオープン
天守の現況・形態
望楼型 五重六階地下一階 木造(現存)
交通
JR山陽本線・山陽新幹線「姫路」駅、山陽電鉄本線「山陽姫路」駅から徒歩約20分


9. 和歌山城

和歌山城 天守
和歌山城 天守

西国支配の要となった紀伊徳川家の居城

概要

 和歌山城は、天正13年(1585年)、羽柴(豊臣)秀長が紀ノ川と和歌川にはさまれた標高49メートルの小山に城郭を築いたのに始まる。その後慶長5年(1600年)に関ケ原の戦いの功績により入った浅野幸長が大改築をおこなった。さらに元和5年(1619年)に入城した徳川家康の第10子頼宣(よりのぶ)が御三家にふさわしい城にするため大拡張をおこない、二の丸・砂の丸などの曲輪(くるわ)や庭園を造成、今見られる和歌山城の姿がほぼ完成した。
 虎伏山(とらふすやま)山頂に本丸をおいた広大な平山城で、三重三階の大天守と小天守・乾櫓(いぬいやぐら)・二の門などが多聞櫓で結ばれた連立式天守であった。多くの破風などで飾られた装飾性の高い天守である。嘉永3年(1850年)に再建された天守は第2次世界大戦で焼失したものの、昭和33年(1958年)コンクリートにより再建された。

主な遺構

 岡口門、岡口門続土塀、追廻門、西の丸庭園(紅葉渓庭園)、石垣、堀。

見どころ

 豊臣期・浅野期・徳川期の3期にわたって築かれた野面積・打込接・切込接などのさまざまな石垣が見られるのがまず見どころ。西の丸庭園(紅葉渓庭園)は城内に残る庭園遺構として貴重であり、また紅葉の名所としてもよく知られている。

別名
竹垣城、虎伏城
所在地
〒640-8146 和歌山県和歌山市一番丁3
城地種類
平山城
築城年代
天正13年(1585年)、慶長5年(1600年)、元和5年(1619年)
築城者
羽柴(豊臣)秀長、浅野幸長、徳川頼宣
主要城主
羽柴(豊臣)氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏
文化財史跡区分
国指定史跡、国指定名勝
近年の主な復元・整備
平成18年に御橋廊下を復元、表坂入口付近・裏坂下東石垣修理など
天守の現況・形態
層塔型 三重三階 鉄筋コンクリート造(一部木造)
交通
JR紀勢本線「和歌山」駅・南海本線「和歌山市」駅から和歌山バスで約10分「公園前」下車、徒歩すぐ


10. 松山城

松山城 左から小天守、天守
松山城 左から小天守、天守

勝山山頂とその麓を占めた広大な平山城

概要

 松山城は、加藤嘉明(かとうよしあき)が関ケ原の戦いの戦功により伊予を与えられ、慶長7年(1602年)に築城を開始したことに始まる。標高132メートルの勝山(かつやま)山頂に本丸をおき、麓に二の丸と三の丸を設けた平山城である。本丸の天守曲輪を構成する建物の多くは数度にわたる火災により焼失。天守も一度は焼失したものの安政元年(1854年)に再建竣工され、この天守が現在も残る。天守と小天守や隅櫓(すみやぐら)が結ばれた天守群や櫓、門などが山頂の本丸に並び建っていた。加藤氏の時代には城は完成せず、蒲生氏を経て松平氏の時代に完成。この松平氏が明治まで続いた。本丸や櫓、門、二の丸御殿などの再建が進められている。

主な遺構

 天守群、櫓・門多数、本丸、二の丸、石垣、堀。

見どころ

 山上に広がる本丸では複雑な構成をした天守群はじめ、数多くの櫓や門を見ることができる。外側からは門の存在がわからない「隠門」や、最初から戸が設けられていない「戸無門」、現存する望楼型二重櫓として貴重な「野原櫓」など見どころは多い。
 天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓の4つの建物が天守曲輪の四隅に配され、多聞櫓と廊下などで結ばれた連立式天守となっている。天守の構えとしては最も厳重なもの。
 多聞櫓は、近年再建された。二の丸入口にあたる。内部は展示室となっている。

別名
金亀城、勝山城
所在地
〒790-0008 愛媛県松山市丸之内1
城地種類
平山城
築城年代
慶長7年(1602年)
築城者
加藤嘉明、蒲生忠知
主要城主
加藤氏、蒲生氏、松平(久松)氏
文化財史跡区分
国指定史跡、重要文化財21件
近年の主な復元・整備
平成10年から13年に一の門ほか7棟保存修理、平成16年から18年に天守ほか6棟保存修理
天守の現況・形態
層塔型 三重三階地下一階 木造(現存)
交通
JR予讃線「松山」駅から伊予鉄道「道後温泉行き」で約10分「大街道」下車、徒歩約5分、城山ロープウェイで約2分、山頂駅から天守まで徒歩約10分


11. 高知城

高知城 天守
高知城 天守

土佐の太守山内一豊が築き上げた四重天守の城

概要

 高知城が築かれた大高坂山(おおたかさかやま)は、南北朝時代には大高坂松王丸(おおだかさまつおうまる)の居城があったという。関ケ原の戦い後、山内一豊が掛川より入封(にゅうほう)、大高坂山に新たに近世城郭として高知城を築城し、四重六階の天守を建てた。二重目の大入母屋屋根の上に二重の望楼を載せた四重六階の望楼型天守で、大型の千鳥破風や最上階の廻縁や高欄など古式な美しさを見せる。
 山頂に本丸と二の丸、東側の一段下に三の丸が配され、二の丸には藩主の居住空間である御殿が設けられた。現存する天守は、享保12年(1727年)の大火でほかの建物とともに焼失後、寛延2年(1749年)に望楼型天守として再建されたものである。築城当時の古い様式となっているのは、掛川5万石から一躍土佐24万石の太守となった藩主山内一豊への想いからであるといわれている。天守に接続している本丸御殿(懐徳館)は全国でも数少ない現存する御殿遺構として貴重である。

主な遺構

 天守、本丸御殿、通学門、黒鉄門、詰門、廊下門、多聞櫓、本丸、二の丸、三の丸、石垣。

見どころ

 現存の追手門から現存天守を見上げることができるのはここ高知城だけである。また二の丸と本丸を結ぶ詰門は二階が通路、一階を城門として、本丸大手の廊下門と丁字形に接続する独特の構造をもつ。
 追手門(おうてもん)は、寛文4年(1664年)に再建され、下見板張(したみいたばり)の重厚な外観である。

別名
鷹城
所在地
〒780-0850 高知県高知市丸の内1-2-1
城地種類
平山城
築城年代
慶長6年(1601年)
築城者
山内一豊
主要城主
山内氏
文化財史跡区分
国指定史跡、重要文化財15件
近年の主な復元・整備
なし
天守の現況・形態
望楼型 四重六階 木造(現存)
交通
とさでん交通「高知城前」駅から徒歩約5分


12. 熊本城

熊本城 大天守(左)と宇土櫓
熊本城 大天守(左)と宇土櫓

加藤清正が築いた鉄壁の守りを誇った大城郭

概要

 慶長6年(1601年)、室町時代に築かれた千葉城や隈本城のあった茶臼山(ちゃうすやま)一帯に、加藤清正が築城、慶長12年(1607年)に完成した。最高所にある本丸には大天守や小天守を建て、各曲輪(くるわ)には宇土櫓(うとやぐら)をはじめ、三重天守に匹敵する五階櫓を5基も建て並べた。加藤氏改易後は細川氏が入り、明治維新を迎えた。明治10年(1877年)の西南戦争では城内に籠もった新政府軍を西郷軍が攻めたが落城せず、城の強固さは証明されたが、本丸の大部分が焼失。しかしなお宇土櫓はじめ12基の櫓が現存、清正流(きよまさりゅう)と称される高石垣もほぼ完全な姿で今に残る。大天守と小天守は昭和35年(1960年)に再建され、西出丸の櫓や門が復元した。平成20年、本丸御殿の復元も完成した。
 しかし、平成28年熊本地震が発生、櫓や門など重要文化財に指定されている13の建築物全てで深刻な被害が出た。全長242メートルの長塀は、約100メートルが倒壊。東十八間櫓は石垣ごと崩落。往事の姿を残す5階建ての宇土櫓も一部損壊した。
 1960年再建の大天守は屋根瓦が剥がれ、鯱も落下。2005年再建の飯田丸五階櫓は石垣の崩壊が続き、櫓が落下寸前の状態となった。被害総額は 約634億円といわれている。

主な遺構

 宇土櫓・北十八間櫓・東十八間櫓など櫓多数、不開門、長塀、石垣、堀。

見どころ

 大天守と小天守、長塀、宇土櫓など、現存建物、再建建物、石垣を問わず、見どころには事欠かなかった。直線的な破風が特徴的な宇土櫓と、その櫓台石垣の反り立つ姿は壮観の一語であったが、地震のため、見る影もなくなってしまった。修復作業が開始されている。

別名
銀杏城(ぎんなんじょう)
所在地
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1-1
城地種類
平山城
築城年代
慶長12年(1607年)
築城者
加藤清正
主要城主
加藤氏、細川氏
文化財史跡区分
重要文化財13件
近年の主な復元・整備
平成11年から南大手門、戌亥櫓、西大手門、元太鼓櫓、末申櫓、飯田丸五階櫓を復元、平成15年から本丸御殿大広間の復元。平成28年熊本地震で大きな被害を受けた。
天守の現況・形態
望楼型 三重六階地下一階 鉄筋コンクリート造(再建)
交通
JR鹿児島本線「熊本」駅から熊本市電で約10分「熊本城前」下車徒歩約10分


企画展パンフレット

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参考資料
『歴史群像シリーズ 日本100名城公式ガイドブック』 公益財団法人 日本城郭協会
協力(敬称略)
大内 進
手と目でみる教材ライブラリー