ふれる博物館
第7回企画展 創立80周年記念企画 日本点字図書館の歴史にふれる

共催:手と目でみる教材ライブラリー

本企画展は、2021年4月17日(土曜日)に終了いたしました。
多数のご来場に感謝いたします。

会期1 2020年11月11日(水曜日)から11月25日(水曜日)まで
会場:日本点字図書館本館


会期2 2020年12月2日(水曜日)から2021年3月13日(土曜日)まで
(4月17日(土曜日)まで会期を延長します)
会場:ふれる博物館

※会期により、会場が異なりますのでご注意ください。

 ※12月26日(土曜日)から1月2日(土曜日)は年末年始休館となります。

会期により展示品に若干の違いががあります。
また、破損等により展示品を変更する場合もありますので、あらかじめご了承ください。

開催にあたって

日本点字図書館は、1940(昭和15)年11月10日、25歳の盲目の青年本間一夫によって創立されました。それから80周年を迎えた本年、今まで保存してきた、開館準備をつづった本間のノートや戦前戦中の点字図書、また、点字器、点字タイプライター、テープ図書再生機等、当館事業にかかわる品々や、朝日賞(朝日社会福祉賞)、点字毎日文化賞の楯等、記念の品々を公開し、80年の時間を体験していただきます。

創立者 本間一夫の胸像の写真
創立者 本間一夫の胸像

1. 歴史のひとこま

1-1 本間ノート

本間ノートの写真
165×205×5mm 150g

本間一夫は、学生時代から日本盲人図書館(現日本点字図書館)を開設した以降までの講義録や日記、論文の書き写し等を記録した大学ノート、28冊を残している。
今回はその中から「図書貸出事業準備記録」と題した、1940(昭和15)年9月1日から11月10日の開館に至るまでの記録ノートを公開する。貴重な、本間一夫自筆の点字である。




1-2 受賞楯

3種の受賞楯(朝日賞・点字毎日文化賞・井上靖文化賞)の写真
左上 朝日賞受賞楯
右上 点字毎日文化賞受賞楯
下 井上靖文化賞受賞楯

1953(昭和28)年に、本間一夫は朝日賞(朝日社会福祉賞)を受賞し、当館の存在が社会に知られるようになった。その後、点字毎日文化賞、吉川英治文化賞、北海道増毛町長表彰、鳥居賞、井上靖文化賞など多くの賞を受賞した。
また、藍綬褒章、勲四等旭日小綬章を受章。逝去に際しては、従五位に叙せられた。




1-3 創設時から使用している本棚 (会期1のみ)

創設時から使用している本棚の写真
大 1,645×2,200×245mm
小 1,620×1,825×295mm

創設時より80年間使用している木製本棚。釘を1本も使わず、分解・組み立てができるため疎開先でも使用し、昭和20年5月25日の図書館が全焼したときも戦火を逃れた。



図書館の事業所は階下玄関脇の六畳間で、そこにはその頃購入できた約七百冊の点字図書をそろえました。価格は一冊一円から一円十銭ぐらいだったと記憶します。書棚には、幅一間ほどの六段式のものを一本五十七円で近くの指物屋にたのみ、四本ならべました。それに図書を郵便で送るための厚手の布袋を、これまた一円余りで百枚ほど用意しました。他に閲覧用机一つと椅子二つ、カード類若干を取り揃えましたが、これだけが図書館創設当時のすべてであったのです。この小規模のものに、私は大胆にも「日本盲人図書館」と名付けました。

『指と耳で読む』岩波新書(1980年)より




1-4 著作権許諾依頼の返信はがき・封書

著作権許諾依頼の返信はがき・封書の写真

点訳書、録音図書製作にあたり著作権者に許諾を求めた時代の、返信はがき・封書を保存している。
点訳書に関するもの293通(内 封書6通)。録音図書1,562通(内 封書19通)。どちらか不明のもの102通(内 封書1通)。合計1,957通である。
時代としては、1955(昭和30)年から1978(昭和53)年のものである。現在は著作権法が改正施行され、点字図書館は、点訳書、録音図書を著作権者の許諾なく作成することができる。
※展示品のハガキを立体コピーでさわれるようにしています。著名な作家の直筆をさわって感じていただけます。




1-5 エゾヤマザクラ

エゾヤマザクラの写真
約300(直径)×18(高)mm 6.1㎏

養母キミは、図書館建設にあたり自身が好きなエゾヤマザクラを本間一夫に贈った。南西の角地に植えられ、ソメイヨシノが散った後の時期に咲いていたが、現在の本館を建設するにあたり伐採し、記念に幹の一部を花台に加工した。2台製作し1台は本間家にある。加工したのは、当館オリジナル木製点筆を手がけた、小田原の木工細工職人、長谷川福二氏。




1-6 明治天皇御遺品のオルゴール

明治天皇御遺品のオルゴールの写真
510×320×310mm 16.1㎏

このオルゴールは明治天皇御愛用の遺品で、天皇の御息女であられる東久邇聡子(ひがしくに としこ)夫人から日本点字図書館へ賜ったものである。昭和33年11月に開かれた本館の点訳奉仕の集いにご出席くださった夫人から「盲人の方々をお慰さめするため、お使い下さい」との言葉と共にいただいた。6曲中には、日本の春雨、数え歌、さくらさくらも入っている。




1-7 日本点字図書館の建物模型 (会期1のみ)

日本点字図書館の建物模型の写真
設計:鈴木エドワード建築設計事務所

 わが国最大の点字図書館。国の委託事業である点字図書・録音図書の製作貸出、盲人用具の販売斡旋その他関連事業をするために整備された国有財産。内部には点字図書2万1千タイトル、録音図書1万8千タイトルを所蔵する他、それらを製作する設備を有し、本館1階には盲人用具を販売する「わくわく用具ショップ」、また別館には相談・訓練を行う自立支援室を設置している。

■本館
長さ
南北 43.6m、東西 16.6m
高さ
19.65m
建築面積
678㎡、延べ面積は2,723㎡
構造
鉄骨鉄筋コンクリート(地上5階建)
建設費
799,146,100円
施工会社
大末建設株式会社
竣工
1996(平成8)年

■別館
長さ
南北 16.1m、東西 15.55m
高さ
14.6m
深さ
8.8m
建築面積
250㎡、延べ面積は1,723㎡
構造
鉄筋コンクリート(地下2階、地上3階建)
建設費
350,385,000円
施工会社
株式会社今西組
竣工
1998(平成10)年



1-8 熊の状差し (会期2のみ)

熊の状差しの写真
118×279×50(畳んだ時 8)mm 118g

1943(昭和18)年に竣工した点字図書館落成式の席で参加者に配った状差し。



郷里の母もこの竣工を喜んで、アイヌ細工の熊の形の「状差し」を二百個ほど記念品として贈ってくれました。この日に出席した古い読者や点訳者の方の中には、未だにそれを大切にお持ちの方があり、嬉しさと懐かしさを感じます。

『指と耳で読む』岩波新書(1980年)より




2. 日本点字図書館を支えた人々

2-1 後藤静香 ごとう せいこう (社会教育家・「心の家」主催者)

後藤清香 肖像写真
点訳奉仕運動 この人に始まる

氏は大分県出身。明治39年東京高等師範学校を卒業し、長崎・香川両県で13年間女子教育に携わったのち社会教育家を志し、大正7年上京して6月に希望社を創設。修養誌「希望」を発刊し、広範な分野にわたる社会事業活動に入られた。特に女性の地位向上に力を尽し、また盲人やハンセン病患者など、社会的弱者の救済を世に訴えられた。
そのさまざまな仕事のひとつに、盲人のためのホームティーチャー活動というのがあり、本間一夫は、日本初のホームティーチャーであった全盲の雨池信義氏(のちの長野県上田点字図書館長)に伴われて、昭和15年10月中旬初めて後藤静香氏を訪ねたのである。このとき氏は、点字図書館を創立したいという若き本間の計画を聞き、この事業遂行の基礎である点字図書の入手の目途をただしながら、点訳奉仕者の養成こそ点字図書館事業成功のカギであると説いて、点訳奉仕運動を行うことを強く勧められた。そして、当館設立前の15年11月3日、自ら第1回の点訳者育成講習会を開いて率先その指導にあたり、氏自身も自著数冊を点訳されたのである。この点訳者育成講習会はその後も度々開かれ、17年4月、氏は「大日本点訳奉仕団」を結成してその長となり、事務所を当館内に置いた。
その時本間は常任幹事となり、図書館はこの奉仕団員の努力の結晶であった点訳書を貴重な蔵書として、順調に発展することができたのである。
以来、この点訳奉仕運動は途絶えることなく続いて、脈々と流れる地下水脈のように各地に広がり、戦中戦後の苦しい時期にもそれは涸れることがなかった。ある時は防空壕の中で、また病院のベッドの上で、点訳は静かにたゆまず続けられていたのである。今や点字図書館は各所に存在し、この運動は全国的な規模で広がり、各地で点訳奉仕者の養成講座が開かれ、点訳者の数は1万人を超えるといわれるが、当初誰がこの運動の今日の隆盛を予想したであろうか。現在では、「点訳」という言葉は国語辞典にも収録されるようになったが、これは氏が創始されたものである。
氏は、戦後当館に対しては点訳ばかりでなく、寄付金の呼びかけなどその時々の当館の必要に応じて、力強い支援をされたのであった。氏の精神的遺産である「心の家」(「希望社」の後身)では、会員諸氏が今もなお、当館に対する募金活動に大きな協力をされている。
42年7月、日本盲人社会福祉施設協議会は、その創立15周年記念大会に際して、わが国の点訳奉仕運動最初の提唱者として、多くの点訳者を育成し、盲人文化向上の基礎を確立した氏の偉大な業績に対して、感謝状と記念品を贈っている。
山あいを発した一筋の流れは、いくつもの小さな川を合わせ、やがて日本の盲人福祉を潤す大きな河となって、今日に至ったのである。
昭和44年5月15日逝去。享年84歳。

『日本点字図書館五十年史』(1994年)より



2-2 小林勇 こばやし いさむ (株式会社岩波書店会長)

小林勇 肖像写真
図書館を支えた出版人の良心

昭和26年の末ごろ、当館の常勤理事加藤善徳(のち常務理事)は、岩波書店発行の月刊『図書』に、「点字本のなげき―点字本も図書である」と題して投稿したが、この原稿は残念ながら掲載されるところとならなかった。
しかし、翌27年の同誌2月号には、厚生省社会局更生課長松本征二氏執筆の「点字と点字図書館」が掲載され、そこでは当館の事業にもふれられていた。
当時、これらの原稿に注目したのは、岩波書店専務(当時)の小林勇氏であった。 氏はこれらの投稿原稿を携えて、秘書の浅見いく子氏とカメラマンの長野重一氏を伴い、同年の4月下旬に突然来館された。
図書館を見られた氏は、ほんとうに驚かれたようである。
応接テーブル兼事務机、兼、職員・本間一夫とその家族の食卓ともなっている掘りごたつ一つ。
畳敷きの粗末な部屋に所狭しと書架を置き、鴨居の上、玄関の下駄箱の上にまで棚を吊って、これらを埋めた点字本の間に押しつぶされるようにして、ただ黙々と仕事をする職員の姿……。
この日の取材の結果は、同誌9月号に「光を失った人々のために」と題した5ページにわたる写真と心温まる記事で大きく取り上げられ、広く世に紹介されたのである。
これが機縁となって氏は以後点訳のために同書店発行の図書は無条件で提供することを約束され、更に日本出版協会、全国出版協会を通して、他の出版社にも同じ協力を呼びかけられたのであった。
以後、岩波書店・文藝春秋・新潮社・講談社・中央公論社など、各社の協力が得られ、40年近くたった今も、点訳原本の提供が続けられている。
昭和33年9月に声のライブラリー(現在のテープライブラリー)が発足したが、これに対しても岩波書店は、希望する録音図書用原本の寄贈を続けられ、46年からは、毎月発行の「岩波新書」の録音図書製作費という形で、援助の手を差しのべられ、現在に至っている。
この他にも中途失明者用パンフレット『点字入門』作成等に協力を得ている。
また、毎年開催している「日本点字図書館感謝の集い」の講演者、随筆随想コンクールの審査委員長に高名な文学者を紹介されるなど、氏の好意と援助は、代々の経営陣のみならず、社員にも受け継がれており、会長秘書の浅見いく子氏とのご縁も今なお続き、何かとお力添えをいただいている。
昭和55年2月に、当館が4階の建物の落成披露式を行ったとき、小林氏はしばらくぶりに来館された。
式の挨拶で、初めて図書館を訪れた昭和27年当時のことと対比した氏は、30年を経た当館の発展に目をみはられ、その陰に払われた本間館長はじめ職員の人知れぬ努力に深い敬意を表された。
それは聞き入る満堂の人々の深い感動を呼んだのであった。
昭和28年1月に本間一夫が38歳の若さで、朝日社会奉仕賞を受賞し、これが図書館の事業への大きな励ましとなったのであるが、その推薦者が小林勇氏だったことを初めて知らされたのもこの日であった。
昭和56年11月20日逝去。享年78歳。

『日本点字図書館五十年史』(1994年)より



2-3 加藤善徳 かとう よしのり (日本点字図書館理事)

加藤善徳 肖像写真
本間館長のよき女房役として

氏は福島県二本松の出身。東洋大学を卒えると、心に期するところがあってか、華やかな社会の表舞台を避けて、どちらかといえば地味な社会教育畑に身を置きその活動を続けていた。氏と当館との最初のかかわりは、社会教育家でわが国点訳奉仕運動の生みの親、後藤静香氏の紹介によるものである。
昭和16年12月、当館は当時既に雑司ヶ谷から高田馬場に移っていたが、氏は事業創立1周年の第1回点訳奉仕者感謝会に後藤氏と共に参加され、この日会の席上で配られた「日本盲人図書館開設1周年」という記念冊子を見て、「この方面のことなら何かお手伝いしましょう」と協力を申し出られたが、これが当館との深い結びつきの始まりであった。
以来、氏は昭和28年までの12年間、日本生活協会で新生活運動に従事するかたわら、内部の者以上に、図書館のための仕事を続けられたのである。
戦時中、空襲の危険が迫って茨城に疎開し、更に北海道増毛の故郷に再疎開していた本間館長に昭和20年5月、「図書館全焼、一物も残さず」と、いち早く打電したのも氏であった。23年、事業は漸く東京に戻ったが、それからの数年間、日点史上で最も苦しい時期にも、氏は常に本間館長のよき相談相手となり、25年には請われて理事に就任。同年財団法人の申請と、27年社会福祉法人に組識変更の折の膨大な書類作成は、すべて氏の奉仕によるものであった。
その後、国の委託事業開始を控えて、28年4月、氏は報われることの極めて少ない当館の事業にいよいよ専念されることになったが、当時、行政当局との折衝、募金活動をはじめ事業全般にわたる業務に、ほとんど心休まる時のない毎日であった。
このようにして、余人をもっては替え難いような氏を大黒柱として得た当館は、その基礎が漸く固められ事業は次々と発展していった。この間、39年には欧米へ、44年インドへ、その他本間館長の海外出張にはいつも同行し、特に39年欧米を回った時には、費用を極度に切りつめて、多くの盲人用具を各国から買い求めてきたことが、その後用具部開設につながったのである。また、日本盲人社会福祉施設協議会の事務局長としても、8年間にわたりその職責を果した。
更に氏の活動は当館だけに止まらず、青年時代から壮年にかけて、心の家の後藤静香、日本生活協会の山下信義、新政社の田澤義鋪、新風土社の下村湖人という4人の社会教育家の側近にあった関係から、それらの方々の事績を世に遺すために、その資料の収集と整理を行い、「選集」「全集」といった形で世に出した。また晩年には、韓国のハンセン病患者や孤児の救済活動に力を尽くしたことは、アジアに対する福祉協力の緒《いとぐち》を開くものとして忘れられない。
昭和62年11月21日逝去。享年80歳。
この日は奇しくも、当館創立47周年を記念する「感謝の集い」の日の朝であった。

『日本点字図書館五十年史』(1994年)より



2-4 下澤仁 しもざわ まさし (元日本点字図書館理事)

下澤仁 肖像写真
創立者本間一夫の関学以来の盟友

3歳の時に流行性感冒で視神経を冒され、6歳のころには光覚だけの視力となり、やがて全盲となった。横浜訓盲院初等部・中等部を経て、1936年関西学院大学神学部に進学。
1941年、母校・横浜訓盲院中等部の教師として赴任。1951年カリエスを発病。休職して入院、闘病生活に入る。1958年に退院、自宅療養となる。訓盲院を退職した1959年、日本点字図書館の仕事を手伝うようになり点字部門を担当。1960年、開設した中途失明者のための「点字教室」の責任者となる。1973年、点字部長に就任。1978年、理事となり、1991年退職。1970~1990年には、日本点字委員会事務局を務めた。日本点字図書館発行の「続・失明の世界から」「点字随想」の編集をてがけている。平成11年7月31日逝去。享年81歳。

『視覚障害人名事典』名古屋ライトハウス 愛盲報恩会(2007年)より


3. 点字図書関係

3-1 仲村製32マス標準点字器

仲村製32マス標準点字器の写真
180×277×11mm 0.5㎏

視覚障害者のみならず、点訳ボランティアにも広く普及した標準点字盤のベストセラー。当館でも月間200面を販売していた時期もあった。創業は1901年。パソコン点訳の普及により製造を終了、2011年の入荷が最後となった。現在他社製のプラスチック製の点字盤があるが、視覚障害者からは木のぬくもりが良かったといわれている。



「この業の創始者は、初代仲村豊次郎である。豊次郎は、「車飾り」という職にあって、主に人力車の金物部品を作る仕事をしていた。明治34年の秋、もみ療治に来た盲人から点字器が極度に不足していることを訴えられた。それに心を痛めた豊次郎は、意を決して点字器の試作研究にのりだした。そして、出来上がった製品が絶賛されたことから、仲村家の天職としての基礎が確立されることになるのである。以来、二代目の謙次氏、三代目の茂男氏へとバトンが受け継がれて90年たった。」

「日点だより」第58号(1990年)より




3-2 弘誓社製点字タイプライター ライトブレーラー

弘誓社製点字タイプライター ライトブレーラーの写真
295×102×100mm 2.7㎏

パソコン点訳が普及する前に活躍した点字タイプライター。なるべく廉価にという経営者の方針で、2016年の生産終了時も2万円台の低価格であった。
六つのキーの形状とともに、右から左にキャリッジが移動する動きから、「カニタイプ」とも愛称された。
展示品は、昭和25年製造の製造番号35番の貴重なもの。




3-3 仲村製点字タイプライター ナカムライター

仲村製点字タイプライター ナカムライターの写真
330×440×120mm 7.5㎏

点字器製作におけるトップメーカー、仲村点字器製作所による点字タイプライター。当館のボランティアで319タイトル、2,113巻を点訳された吉田宣さんも、このタイプライターを使用していた。展示品は昭和20年代のもの。




優れた点質の点字がリアルなタッチで軽快に打てます。行換は独特なレバーで、早くて確実です。点字は上に出るので、展開してして行くキャリッヂ板上で、すぐ読めます。針による用紙裏、表の掛替は確実で、左側に綴代が出来る事も標準点字器と同様です。製品は一台一台熱意と責任をもって製作し、特に六点最終工程および総合調整等は所長の手を経て完成されます。
反面、頑丈なために重くて持ち運びが不便、手造りで時間がかかるため価格も高くなりすぐに間に合わない等の欠点もありますが、これらを補って余りある価値ある製品です。

「盲人用具総合目録」日本盲人社会福祉施設協議会(1982年)より




3-4 足踏み式製版機 (会期2のみ)

足踏み式製版機の写真
880×620×905mm

二つ折りにした亜鉛板に点字を打ち、手で間に紙をはさんでゴムローラーに送りプレス印刷する点字印刷。日本では明治時代から行われていますが、製版までが自動化されただけで、今でも方式は変わりません。
展示品は昭和初期のもの。当館は1954年から厚生省(当時)からの委託を受け、点字出版事業を開始しました。




4. 録音図書関係

4-1 盲人用4トラックテープレコーダー RQ8115

盲人用4トラックテープレコーダー RQ8115の写真
283×245×126mm 4㎏

当館の録音図書再生機として1966(昭和41)年に開発。1988(昭和63)年3月にオープンテープによる貸出サービスが終了するまで活躍した。




松下電器産業の特別な協力を得てつくられたもので、4トラック、2スピード(4.75㎝/秒と9.5㎝/秒)方式をとっており、5型テープで4時間の録音再生ができる高性能のテープレコーダーです。各操作ボタンは点字でわかりやすく表示され、モニターも可能ですので、声の図書をはじめ、さまざまな録音をとる時にも便利な製品です。
万一故障の場合は、当館または全国のナショナルサービスにご相談ください。
なお、このテープレコーダーは盲人用として非課税の特典を生かした、わが国初めてのものです。

「盲人用具総合目録」日本盲人社会福祉施設協議会(1982年)より




4-2 盲人用2スピードカセットテープレコーダー RQ8145

盲人用2スピードカセットテープレコーダー RQ8145の写真
283×245×126mm 4㎏

当館のカセットテープ録音図書再生機として1976(昭和51)年に開発。盲人専用という位置づけで世界基準の再生スピードを半減速にする、特別な許諾を得た画期的な機種。




本機は標準のスピード(4.8㎝/秒)を半減速(2.4㎝/秒)にして使用するため、C-60で片道1時間の録音が可能になり、盲人用の声の図書には最適です。
この半減速は、フィリップス社(オランダ)から松下電器と日本点字図書館に対し、特に盲人用テープレコーダーのために与えられました特別の許可により生まれたもので、数多いカセットテープレコーダーの中で、本機のみが持つ大きな特徴です。従って販売権はすべて日本点字図書館、使用対象は盲人の方に限られております。
また半減速の他に、標準スピードにも切り換えられ、すでに使用されている声の図書館を聞くことができるほか、盲人の日常生活を考慮して、市販品との互換性を持たせました。

発売時のリーフレットより




4-3 盲人用2スピード小型カセットテープレコーダー RQ8146

盲人用2スピード小型カセットテープレコーダー RQ8146の写真
119×198×29mm 0.6㎏

当館創立40周年記念製品。従来のRQ8145より小型・軽量化し、早聞き機能も搭載した。




本機は標準のスピード(4.8㎝/秒)を半減速(2.4㎝/秒)にして使用するため、C-60で片道1時間の録音が可能になり、しかも30%の早聞きができるので盲人用声の図書には最適です。
この半減速は、フィリップス社(オランダ)から松下電器と日本点字図書館に対し、特に盲人用テープレコーダーのために与えられました特別の許可により生まれたもので、数多いカセットテープレコーダーの中で、本機のみが持つ大きな特徴です。したがって販売権はすべて日本点字図書館、使用対象は盲人の方に限られております。
また半減速の他に、標準スピードにも切り換えられ、すでに使用されている声の図書を聞くことができるほか、盲人の日常生活に考慮して、市販品との互換性を持たせました。

発売時のリーフレットより




4-4 盲人用2スピード小型カセットテープレコーダー RQ8147

盲人用2スピード小型カセットテープレコーダー RQ8147の写真
130×30×82mm 0.3㎏

当館創立45周年記念製品。持ち運びが便利な携帯型で、ボタンの形状なども視覚障害者に扱いやすく工夫されている。




4-5 盲人用2スピードカセットテープレコーダー RQ8150

盲人用2スピードカセットテープレコーダー RQ8150の写真
213×242×89mm 1.6㎏

再生速度を2倍速まで可能にし、早聞き時の音質を変えられるVSC機能を搭載。読書時間の短縮に威力を発揮した。




本機は、テープの速度を標準の4.8㎝/秒だけでなく、半減速(2.4㎝/秒)で使用可能な、盲人の方のための「声の図書」に最適です。
この半減速は、フィリップス社(オランダ)から松下電器と日本点字図書館に対して特別に許可された規格。数多いカセットテープレコーダーの中で、盲人用のみが持つ大きな特徴です。
さらに本機では、これまでの盲人用テープレコーダーの数々の特徴を一層使いやすくしたうえ、形も手にやさしいラウンドフォルムを採用しました。

発売時のリーフレットより




4-6 日本点字図書館録音機第1号 アカイ900

日本点字図書館録音機第1号 アカイ900の写真
380×340×210mm 11.6㎏

録音図書製作貸出事業開始の2年前、1956年に、元軍需大臣であった豊田貞次郎氏の夫人、満子様から寄贈された、当館録音機第1号。
他にも満子様はTBSに働きかけをしてくださり、更生テープ50巻の寄贈を得られた。




4-7 シンクロリーダー

シンクロリーダーの写真
340×535×100mm 18.2㎏

録音図書製作にあたり、録音テープのほかに検討した方式。テープではなくシート片面に磁性粉末を塗布した媒体(シンクロシート)に録音し、再生する。




星野愷は磁気テープの開発を終了すると、視聴覚情報の伝達に磁気記録を利用する研究を始めた。印刷物の裏面を磁気記録媒体とし、表に書かれた内容を声で説明する装置(視聴覚教育用「磁気録音読書機」シートレコーダー)の開発を1954年(昭和29年)から始め、1957年(昭和32年)に完成した。これはシンクロリーダーと名付けられ商品化された。1958年(昭和33年)ブリュッセルで開催された万国博覧会の日本館で展示されプレス報道部門の金賞を獲得した。

フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」星野愷の項より(2020年確認)




企画展リーフレット

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