ふれる博物館
第9回企画展 「そうだ 奈良・京都をさわろう」

共催:手と目でみる教材ライブラリー
特別協力:視覚障がい者のための手でみる博物館
協力:株式会社昭和書体

会期 2021年11月10日(水曜日)から2022年3月12日(土曜日)まで
(水曜日・金曜日・土曜日のみ開館)
会場:ふれる博物館
開館時間:10時~16時  ●事前予約制です
入場無料


 ※会期中の祝日は休館となります。

晩秋から早春、指で古都に触れてみよう。

開催にあたって

日本人にとってなじみの観光地である古都、奈良・京都。有名なお寺や仏像が多く、いろいろな場面で話題になります。大内進先生の「手と目でみる教材ライブラリー」が所有する奈良、京都の建築模型群と仏像をお借りしコンパクトに展示します。またスタッフ手製の実物大模型は、今回は奈良の大仏の手のひらと頭の螺髪(らはつ)。その大きさを体感してください。
この機会に建築物、仏像の模型などに触れていただき、奈良、平安時代に想いを馳せるのはいかがでしょう。

法隆寺

古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は推古15年(607年)とされる。
金堂、五重塔を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。西院の金堂と五重塔(ともに国宝)は、世界最古の木造建築物である。
金堂は、中央部が丸く膨らんだエンタシスの柱などの飛鳥様式(柱のふくらみを 「胴張り」といい、下から約3分の1部分が特に太くなっている。 屋根を支える組み物部分に「雲斗(くもと)」や「雲肘木(くもひじき)」を使用)で、釈迦三尊像(国宝)、薬師如来坐像(国宝)、日本最古の四天王立像(国宝)が安置されている。
 境内の広さは約18万7千㎡。
 模型は実際の150分の1
(ウィキペディアより)

法隆寺
法隆寺

法隆寺五重塔

国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。7世紀後半~8世紀初頭の建築。
初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。
初重(しょじゅう)内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。
東面は『維摩経(ゆいまきょう)』に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃(ねはん)、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。
五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重要文化財)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。
心礎(しんそ)(心柱の礎石)は、地下3mにあり、心礎内からは1926年(大正15年)にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。
塔の高さは34m。
模型は実際の100分の1。
(ウィキペディアより)

法隆寺五重塔
法隆寺五重塔

百済観音像

法隆寺が所蔵する飛鳥時代作の仏像。日本の国宝に指定されている。作者は不明。
通常の仏像に比べて著しく痩身で頭部が小さく、8頭身に近い。右腕は肘でほぼ直角に曲げ、前膊(ぜんはく)(下腕)を観者の方へ向けて水平に突き出し、掌を上へ向ける(持物はない)。左手は垂下し、肘を前方に軽くに曲げて手の甲を観者の方へ向け、水瓶(すいびょう)を持つ。
上半身には僧祇支(そうぎし)、下半身には裳(巻きスカート状の衣服)を着け、天衣(てんね)(仏像や天人像が身につけている薄く細長い布のこと)をまとう。天衣は大腿部正面でX字状に交差し、両腕にかかり、両体側に垂下している。
頭髪は髻(もとどり)を結い、両肩に長く垂れ下がっている。宝冠、首飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)などの装身具を付け、これらは銅製透かし彫りの別製とする。光背は宝珠形の頭光(ずこう)で、中央部に八葉蓮華を表し、その周囲には同心円状の文様帯があり、その外側の周縁部には火焔文様を表す。光背支柱は竹を模した木製で、光背基部には山岳形の装飾がある。台座は五角形の反花座(かえりばなざ)(ハスの花を伏せたような形の台座)の下に2段の框(かまち)がある。
像の高さは210.9㎝。

百済観音像
百済観音像

龍燈鬼像

興福寺西金堂(さいこんどう)に安置されていたもので、現在は同寺国宝館に展示されている。
龍燈鬼像の胎内納入の紙片の記載から、この像が建保3年(1215年)、康弁(こうべん)により制作されたことが判明する。
天燈鬼像と龍燈鬼像は1対で阿吽(あうん)形を示し、その出来栄えも共に非常に優れていることから、天燈鬼像も康弁の作品と見るのが通説である。
龍燈鬼は両足をやや開いた直立姿勢で、竜を体に巻き付け、頭上に灯篭を乗せる。上目遣いの目、大きな団子鼻をした顔が面白い。口は一文字に閉じ、吽形(うんぎょう)を表す。
像の高さは77.8㎝。
(ウィキペディアより)

龍燈鬼像
龍燈鬼像

阿修羅像

法相宗(ほっそうしゅう)大本山の大寺院、興福寺が所蔵。奈良時代に製作。
仏教の守護神である八部衆の1人。名前は梵語のasura(アスラ)を音訳したもの。「天平の美少年」とよばれる。6本の腕と3つの顔がバランスよく配置され、悟りにいたるまでの境地を表している。

三面六臂

阿修羅像
阿修羅像

東大寺

東大寺は正式には金光明(きんこうみょう)四天王(してんのう)護国之寺(ごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。奈良大仏として知られる盧舎那仏を本尊としている。
奈良時代には中心堂宇(どうう)の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70m以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。
東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
幅約57m、奥行約50m、高さは約48m。
(ウィキペディアより)

東大寺
東大寺

廬舎那仏座像

聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願(ほつがん)された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされる。建造費は現在の価格にすると約4,657億円と算出されている。
作り方は、木や竹の骨組みに土を塗った原型から鋳型を造る。その鋳型の周りに盛土をして、原型と鋳型の間に銅を流し込み、像の下から同じように作業を繰り返し、最後に盛土と鋳型を取り除いて造った。
右手は人々の恐れを取り除き安心させる施無畏印(せむいいん)、左手は人々の願いを聞き入れる与願印(よがんいん)。頭は螺髪(らはつ)という仏の特長の一つで智慧の象徴。一個が直径22㎝、重さが1.2㎏ある。額にあるのは、実は「毛」で、正式には「白亳(びゃくごう)」という。眉間に一本の白い毛が右回りに渦巻いていて、伸ばすと約4.5mの長さになるといわれている。
像の高さは約14.7m。

廬舎那仏座像
廬舎那仏座像

金閣寺

正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)金閣といい、金閣寺は通称。足利三代将軍義満が造営した山荘 北山殿(きたやまどの)が母胎となっている。1397年に工事が始められ、金閣は舎利殿としてその翌年にできた。
第二次世界大戦後に全焼し現在の建物は着工から3年後の1955年に竣工。創建当時の姿を復元している。
第一層は寝殿造(しんでんづくり)、第二層は武家造(ぶけづくり)、最上階の第三層は中国風の禅宗仏殿造(ぶつでんづくり)となっている。三つの様式を調和させた庭園建築であり、遊興・社交の場であったとも考えられている。
第二層と三層は、漆の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を重ねた?葺(こけらぶき)。屋根の上には中国から伝わった想像上の鳥 鳳凰が羽をひろげてとまっている。
建物の高さは12.5m。第一層と第二層は正面幅約10m、側面約7.5m。第三層は両面ともに約5.5m。
(金閣寺HP、『図説 日本建築の歴史』玉井哲雄著 河出書房新社より)

金閣寺
金閣寺

銀閣寺

正式名称は慈照寺(じしょうじ)銀閣といい、銀閣寺は通称。足利8代将軍義政が造営した山荘、東山殿(ひがしやまどの)が母胎となり、1482年に工事が始められた。1489年に銀閣ができたが、翌年義政は没し、東山殿はその後寺院となった。
金閣に対して銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代からと伝えられている。なお、壁に黒漆を塗った形跡を確認されてはいるが、銀箔を貼った跡はない。 第一層の南半部(正面から見て左側)は、手前を4畳大の吹き放しの広縁でその奥が8畳大の仏間となっている。室内は板敷。
第二層は正面 東面と西面の同形式で、花頭窓(かとうまど)である。南・北面はやや異なり、南面は中央を桟唐戸(さんからど)、両脇を花頭窓とする。北面は中央が桟唐戸、両脇は窓がなく板壁である。 建物の高さは約10m。第一層の正面は幅約8m、側面は約7m。広縁が設けられている側が正面。屋根は?葺(こけらぶき)き。
(銀閣寺HP、『図説 日本建築の歴史』玉井哲雄著 河出書房新社より)

銀閣寺
銀閣寺

東寺(とうじ)五重塔

嵯峨天皇より下賜された場所に真言宗の僧 空海が826年に創建したと伝えられるが、五重塔の実際の創建は空海没後の9世紀末といわれる。
内部の壁や柱には両界曼荼羅(りょうかいまんだら)や真言八祖像を描き、須弥(しゅみ)壇には心柱(しんばしら)を中心にして金剛界 四仏像と八大 菩薩像を安置する。真言密教の曼陀羅では大日如来を中心に描かれるが、立体の曼荼羅となっている東寺五重塔内部では心柱をそれに見立てている。
雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、1644年、徳川家光の寄進で建てられたものである。
塔の高さは54.8m。木造塔としては日本一。
(ウィキペディア、東京国立博物館HPより)

東寺(とうじ)五重塔
東寺(とうじ)五重塔

清水寺(きよみずでら)

776年 奈良の僧侶 賢心(けんしん)により起こされ、その2年後 武人 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)により建立された。ご本尊は十一面千手観世音菩薩。
本堂の屋根は桧皮葺(ひわだぶき)の寄棟造り。本堂から東側に張り出した舞台は懸(かけ)造りと呼ばれる工法で、度重なる火災を経て1633年の再建から現存している。4階建てのビルの高さを支える懸造りとは、崖面の立地にも耐えうる日本古来の伝統工法。舞台床下は、18本の巨大な桧の柱を軸に木材を格子状に組んだ「継ぎ手」とよばれる構造で、釘は1本も使われていない。
清水寺の舞台とは本来高い場所からの景色をめでるためではなく、本堂 内々陣にあるご本尊に舞などの芸能を奉納するための場所としてつくられたもの。
高さ約13m、床面積約190㎡。
(清水寺HP、ウィキペディアより)

清水寺(きよみずでら)
清水寺(きよみずでら)

弥勒菩薩像

秦(はたの) 河勝(かわかつ)が建立した寺のご本尊。推古天皇11年(603年)に聖徳太子から賜ったとされる。広隆寺には「宝冠(ほうかん)弥勒(みろく)」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏(はんか)像があり、ともに国宝に指定されている。2体あるうちの「宝冠弥勒」と通称される像。
右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつくかたちは仏像の一形式。右手の指先を軽く右?にふれて思索する思惟(しゅい)姿。アカマツ材の一木造で、右手の人差し指・小指・両足先および顔には補正あとを確認されている。
あまりの美しさから「東洋のモナリザ」と呼ばれている。
「宝髻弥勒」は「宝冠弥勒」と同じポースの像だが、悲しげな表情で泣いているように見えることから「泣きの弥勒」との呼び名もある。
像の高さは123.3㎝。
(ウィキペディア、東京国立博物館HPより)

弥勒菩薩像
弥勒菩薩像

企画展リーフレット

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