本間一夫と日本盲人図書館 本間一夫生誕百年記念出版 本間記念室委員会 編集 社会福祉法人 日本点字図書館 この図書は、著作権法第37条第3項に基づいて製作しています。又貸し、複製等による第三者への提供はできません。 [#2ページ] ご挨拶 日本点字図書館 理事長 田中徹二 視力の回復が望めないので、私が眼科病棟を退院したのは、1954年の暮れでした。本間一夫さんに初めて会ったのは、年が明けてすぐのころです。失明後の人生をどう生きていけばいいのかについて、何人かの視覚障害の先輩に相談を仰ぎました。本間さんはその一人でした。 それから36年、私が日本点字図書館(日点)の館長に迎えられるまで、本間さんには、公私ともどもたいへんお世話になりました。例えば、日本盲人福祉研究会(文月会)の例会や、その他の旅行でも何度もご一緒し、親しく接してもらいました。1991年から本間さんが亡くなるまでの12年間は、それこそ日点で、毎日、顔を合わせ一緒に仕事をしました。私にとって、本間さんとの48年間の思い出は、とても一言では語り尽せないものがあります。 その長い付き合いの中で、私は、本間さんから何度も、日点を創立したときの苦心談を聞かされました。しかし、本間さんが、太平洋戦争中に、多くの点訳書を抱えて、茨城県や北海道増毛の実家に疎開していたとき、日記や記録を点字でしたためていることは知りませんでした。図書館に残っていたものや、増毛の実家に置かれたままになっていたものを職員らが見付けたとき、大切な資料として復刻させたいと思ったのは、当然なことです。そこで、今年の本間一夫生誕百年記念として、本書を刊行することにしたのです。本間さんの業績を、創立当時の原点にもどって検証する作業です。戦時下における状況であることを読み取ってほしいと願い、あえて掲載した資料もございます。本間さんの図書館に対する思い入れの深さをお汲み取りいただければ幸甚に存じます。 本書の刊行にあたり、株式会社小学館の代表取締役社長相賀昌宏様のご理解やご支援をいただき、関係会社、団体のご協力を得ることができました。いくらお礼を申しあげても足りるものではありません。 また、本書の刊行に際し、推進いただいた河幹夫理事、そして玉稿をたまわった実践女子大学短期大学部の西脇智子、静岡県立大学短期大学部の立花明彦の両先生に、衷心からの感謝を申しあげます。 2015年 晩夏 [#3ページ] 発刊にあたって 日本点字図書館 理事 河幹夫 「歴史に学び、歴史と向かい合う」ということを改めて考える。今年─2015年─は、日本点字図書館創設者・本間一夫の生誕100年(1915年10月7日生まれ)であり、日本盲人図書館が1940年11月10日に創設されてから、75年になる。今年は戦後70年ということでもあり、「歴史を語り、歴史を伝承する」ということが喧伝されるが、歴史は「語り伝えられる」ためのものなのであろうか。 昨年から、本書の出版の企画が進められ、ここに結実をみたことを共に喜びたい。 これは決して「歴史を後生に伝える」ための書ではない。むしろ一人の視覚障害者が困難な状況の中で、一歩一歩、「歴史を創ってきた」証しであり、その本間一夫を生み、育み、導き、助け、共に社会に挑戦し続けた人々の思いの表現の書である。それは「明日の日本点字図書館の道」を切り開くための大事な基盤になることを信じている。 偶然の不思議であるが、この5年間に、二つの重要な資料が発見された。第一は、本間一夫が学生時代から図書館開館に至る頃までに記述した「大学ノート28冊」〔本間ノート〕(第2章)であり、日本点字図書館の中で「発見」された。第二は、日本盲人図書館の再疎開先、本間一夫の生家、北海道増毛の國稀酒造にあった図書館の活動記録など(第3章)であり、2012年に点字図書館に帰館した。 これらの資料は、突然、私たちの眼前に(再)登場したわけであるが、実に新鮮で瑞々しい。当然のことであるが、この記録を付けていた時、本間一夫は学びや仕事に直面し一所懸命であったと思う。後生のための記録を残そうとしていたわけではなく、必死に目の前のことに没頭していたことと思う。私たちはそんな本間一夫の姿に教えられるのである。 私自身、ほぼ半世紀前の学生時代、「本間一夫と日本点字図書館」に出会い、社会人としての歩みの多くが定められた方に思う。クリスチャンの言葉を用いさせていただければ「召命」が与えられたように思う。今、本間一夫に深く感謝するものである。 本書が出版されるため、何よりも、先の二つの記録を読取り、他の資料と比較検討した研究者の方々のご尽力に心から感謝したい。そして本書が私達の「明日の勇気」の基盤になることを期待したい。歴史は「伝承する」のが目的なのではなく、今日を顧み、明日を創るためのものなのである。 目次 ご挨拶  2ページ 発刊にあたって  3ページ 第1章 写真で見る本間一夫と図書館活動  7ページ  1.鉄路の終点・増毛~本間一夫を育んだ町  8ページ  2.学生時代  11ページ  3.日本盲人図書館開館  14ページ  4.疎開、戦後の復興  16ページ  5.「日本点字図書館」に改称してからの本間一夫  18ページ 第2章 日本盲人図書館の創設  19ページ  1.はじめに~本間ノートの発見とその研究的意義  20ページ  2.図書館開設準備~関西学院大学時代、齋藤百合へ宛てた手紙  23ページ  3.図書館開館準備と開館記念式典  26ページ 第3章 日本盲人図書館の貸出活動  33ページ  1.はじめに~帰館した貸出活動の証  34ページ  2.貸出カードに見る蔵書状況  36ページ  3.点訳書の構成と本間直筆の「感謝のことば」  38ページ  4.点字への熱い思い〜表記検討とその普及  50ページ 第4章 蔵書を守って事業を継続~疎開と戦後の再建  53ページ  1.点字図書の疎開と貸出し  54ページ  2.荒谷キクさんインタビュー~増毛に生まれた唯一の点訳者  57ページ  3.帰館した点字本を含む諸資料  62ページ 第5章 日本盲人図書館の先行研究  65ページ  「日本盲人図書館」を読む  66ページ 巻末資料  71ページ  1.日本盲人図書館の活動を示すもの  72ページ   1 『図書館ニュース創刊号』  72ページ   2 『日本盲人図書館開設一周年』  74ページ   3 『点訳通信』第1報~第3報  80ページ   4 「〈日本盲人図書館〉に就いて」  82ページ  2.本間一夫の点字図書館論を示すもの~インタビュー:「日本点字図書館」──三七年の歩み  85ページ  3.本間一夫の日本盲人図書館構想に影響を与えた論文~齋藤百合:我が国の点字図書館事業  91ページ  4.貸出カード書名一覧  98ページ  5.帰館した日本盲人図書館の蔵書  103ページ   1 点訳寄贈書及び点写寄贈書一覧  103ページ   2 点字出版書一覧  106ページ あとがき  109ページ  引用・参考文献一覧  110ページ 本書を刊行するにあたって ・墨訳については、原文のままとしました。ただし、書名には二重鉤括弧をつけました。 ・本書は、本間一夫が「日本盲人図書館」を創設した昭和15年から、昭和23年(「日本点字図書館」と改称されるまで)の活動に焦点をあてて紹介しています。そのため、資料や転載記事など、日本点字図書館改称以降の内容については一部割愛して掲載しました。 ・転載の文は、原則として原文のままとしましたが、一部、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めました。また、難解な漢字には振り仮名を付け、明らかな誤記は訂正しました。 [#7ページ] 第1章 写真で見る本間一夫と図書館活動 [#8ページ] 1.鉄路の終点・増毛~本間一夫を育んだ町 地図 〔地図、終わり〕 大正4年(1915年) 10月7日、北海道増毛町の豪商、丸一本間家創業者・本間泰蔵の長女千代、内山述作の長男として生まれる。 写真:生家 現在は増毛町に寄付され「旧商家 丸一本間家」(重要文化財)として公開中 写真 丸一本間家は現在酒造業のみ営む。本間酒造を経て國くに稀まれ酒造と改称している 写真:増毛の海 写真:増毛の夕日 写真:暑寒別岳と暑寒別川 写真:留萌本線終点増毛駅(現在) 〔写真、終わり〕 大正5年(1916年) 1歳 12月19日、母千代、肺結核により他界。父述作は離縁。伯父本間泰輔・キミ(旧姓下国)の子として養育される。 写真 家族と丸一本間家の従業員。中央が祖父本間泰蔵一夫の後ろが養母キミ、右が養父泰輔 写真 大正7年11月5日 泰蔵古希の賀筵において 〔写真、終わり〕 大正9年(1920年) 5歳 12月12日、激しい頭痛と発熱に襲われ、髄膜炎により徐々に視力を失う。その後小樽の鎌倉病院で「高熱による視神経麻痺」と診断される。 大正10年(1921年) 6歳 4月12日、上京。2、3か月は日本橋の旅館「いか屋」から、麴町富士見町の東京帝国大学初代眼科教授、河本重次郎の河本眼科病院に通院する。のちに豊多摩郡野方町下沼袋1184の仮寓に移り、そこより通院。 写真 沼袋の仮寓時代。左から二人目、ばあや 写真 沼袋の仮寓時代(右から二人目) 〔写真、終わり〕 大正12年(1923年) 8歳 4月、回復せず増毛に帰る。 写真 記憶に残る「地獄絵」のある竜淵寺 写真 大正14年8月15日 親戚とともに(中央) 〔写真、終わり〕 昭和2年(1927年) 12歳 祖父本間泰蔵他界。 写真 たびたび参拝に行った薬師さま、願王寺 写真 たびたび参拝に行った弁天さま、厳島神社 〔写真、終わり〕 昭和3年(1928年) 13歳 養父本間泰輔他界。 写真 入学できなかった旧増毛小学校 写真 幼少のころによく読んでもらった立川文庫 〔写真、終わり〕 [#11ページ] 2.学生時代 地図 〔地図、終わり〕 昭和4年(1929年) 14歳 本間家が函館に建てた、養母の親戚の家に同居する。 5月15日、函館盲啞院に3年生として入学。初めて点字を知る。 9月、2学期から5年生に編入。 写真 親戚とともに。後列左から四人目 写真 函館盲啞院時代の住居。現在は茶房「無垢里」 写真 函館盲啞院跡の碑 〔写真、終わり〕 昭和6年(1931年) 16歳 4月、中等部に進学。 写真 盲唖院跡から函館湾を見下ろす 写真 後列右から三人目。佐藤在寛先生(前列右から二人目) 〔写真、終わり〕 昭和7年(1932年) 17歳 北海道盲学生雄弁大会で2位、演題は「明日の希望に生きよ」。 昭和8年(1933年)18歳 3月、岩橋武夫の講演を組合教会で聴く。演題は「光は闇より」。 東北北海道盲学生雄弁大会で1位、演題は「聞け黎明に高鳴る響きよ」。 昭和9年(1934年) 19歳 熊谷鉄太郎の講演をメソジスト教会で聴き、握手をする。 写真 メソジスト教会は現在函館教会となっている 〔写真、終わり〕 昭和10年(1935年) 20歳 3月、中等部卒業。 4月、1年間研究科に在籍、大学受験に備える。 昭和11年(1936年) 21歳 3月、関西学院大学に合格。学校近くの借家に転居。 4月、関西学院大学専門部文学部英文科に入学。 写真 関西学院の仲間と(右から二人目) 写真 関西学院時代に使用していた英文タイプライター 〔写真、終わり〕 昭和12年(1937年) 22歳 4月、ヘレン・ケラーの講演を日本ライトハウスで聴く。 5月16日、関西学院長ベーツの司式により受洗する。 写真 後列右から二人目。前列右から二人目、岩橋武夫 〔写真、終わり〕 昭和14年(1939年) 24歳 3月、関西学院大学文学部専門部英文科を卒業。 写真 在学当時の関西学院 堀口泰彦作「学院風景」 写真 現在の関西学院大学 〔写真、終わり〕 [#14ページ] 3.日本盲人図書館開館 地図 〔地図、終わり〕 昭和14年(1939年) 24歳 5月、豊島区雑司ヶ谷2丁目426番地に転居、陽光会に『点字倶楽部』編集主幹として勤める。 昭和15年(1940年) 25歳 10月13日、雨宮信義の紹介で後藤静せい香こうに会う。 11月3日、後藤静香による点訳講習会始まる。 11月10日、自宅において「日本盲人図書館」を創立。(表紙写真) 写真 日本盲人図書館跡 写真 日本盲人図書館の2階執務室 〔写真、終わり〕 昭和16年(1941年) 26歳 2月15日、初の点訳奉仕書、稲枝京子点訳 森田たま著『随筆歳時記』完成。 3月7日、淀橋区諏訪町212(現在の新宿区高田馬場1-23-4)に移転。 4月4日、職員第一号、斎藤千代勤務開始。 5月、陽光会を退職。 写真 創立1周年の式典で配った熊の状差 〔写真、終わり〕 昭和17年(1942年) 27歳 東京府から社会事業として認可される。 昭和18年(1943年) 28歳 6月12日、日常の世話をしていた「ばあや」、近藤たみ他界。 6月21日、藤林喜代子と結婚。 7月18日、点字(盲人)図書館落成。 写真 結婚 写真 念願の点字(盲人)図書館建設 写真 職員、関係者と 〔写真、終わり〕 [#16ページ] 4.疎開、戦後の復興 地図 〔地図、終わり〕 昭和19年(1944年)29歳 3月、茨城県結城郡総上村に疎開。宗道郵便局から貸出す。 写真 疎開先の住居から宗道郵便局への道(現在) 写真 世話になった地元の有力者・望月勝馬氏 〔写真、終わり〕 昭和20年(1945年) 30歳 4月、郷里増毛町に再疎開。 5月25日、空襲により高田馬場の図書館は全焼。 写真 昭和20年ごろの執務室。左から今里リイ、荒谷キク、本間、本間令子、奉公人よしお君 写真 疎開時代も使用していた貸出カードとカードボックス 〔写真、終わり〕 写真 故郷、増毛の実家(模型)。右手前の建物の2階部分で貸出作業を行った。現在、右手前の建物のほとんどは復元工事の際に撤去して無い 写真 現在の増毛郵便局。場所は変わっていない 〔写真、終わり〕 昭和21年(1946年) 31歳 5月、長男一明誕生。 昭和23年(1948年) 33歳 1月、上京。東京盲人会館の一室に住む。 2月~3月、東京盲人会館から点字本の貸出を行う。 3月、高田馬場に住宅を再建、「日本点字図書館」と改称し再出発をする。 写真 〔写真、終わり〕 [#18ページ] 5.「日本点字図書館」に改称してからの本間一夫 昭和25年(1950年) 35歳 1月 次男一泰誕生 昭和28年(1953年) 38歳 1月3日 朝日社会奉仕賞 5月3日 東京都知事表彰・社会教育事業功労 8月5日 東京都社会福祉協議会会長賞・盲人福祉功労 昭和31年(1956年) 41歳 4月27日 厚生大臣表彰・身体障害者更生援護功労 昭和38年(1963年) 48歳 3月26日 財団法人青鳥会表彰・ヘレン・ケラー賞 昭和39年(1964年) 49歳 7月25日 第3回世界盲人福祉会議(ニューヨーク)出席のため渡米、欧米を視察し9月12日帰国 昭和42年(1967年) 52歳 5月23日 毎日新聞社表彰・点字毎日文化賞 昭和43年(1968年) 53歳 4月6日 養母キミ他界 昭和46年(1971年) 56歳 11月3日 藍綬褒章 昭和49年(1974年) 59歳 8月10日 妻喜代子他界 昭和52年(1977年) 62歳 4月11日 第11回吉川英治文化賞 昭和53年(1978年) 63歳 11月16日 特殊教育百年記念功労賞(文部省) 昭和57年(1982年) 67歳 9月28日 財団法人毎日新聞社会事業団・毎日社会福祉顯彰 昭和60年(1985年) 70歳 11月3日 勲四等旭日小綬章 平成2年(1990年) 75歳 7月1日 北海道増毛町長表彰 平成3年(1991年) 76歳 11月13日 第40回東京都社会福祉大会・表彰状 平成4年(1992年) 77歳 6月12日 社会福祉法人日本盲人社会福祉施設協議会・感謝状 平成10年(1998年) 83歳 3月18日 関西学院大学 Distinguished Achievement Award(優れた功績に対して贈る賞) 平成12年(2000年) 85歳 9月11日 第18回鳥居賞 平成15年(2003年) 87歳 1月28日 第10回井上靖文化賞受賞 8月1日 13時30分、心不全のため永眠。従五位に叙せられる 写真 現在の「日本点字図書館」 〔写真、終わり〕 [#19ページ] 第2章 日本盲人図書館の創設 [#20ページ] 1. はじめに~本間ノートの発見とその研究的意義 2010年2月の休館日、日本点字図書館内で一つのダンボール箱が発見された。見つけたのは当時の総務部長・小野俊己である。箱を開けると中には表紙に「KWANSEI GAKUIN University」と印刷された28冊の大学ノートがあった。全てのノートは、ページを捲ると6行30字の携帯用点字器で書いたと思われる点字が書かれているのみで墨字はない。記載内容をも含めて考えると、それらは本間一夫が関西学院大学在学中の1936年~1939年に購入し、講義内容等で用いていたものであると判断された。現に、本間は『指と耳で読む』の「関西学院英文科へ」の項で学生時代を振り返っており、そこで授業の様子について次のように記している。 「私は点字が早く書ける方でしたから、先生の講義を書きとるのに遅れることはまずありませんでしたし、点字の英語には便利な略字がありますので、英語は友人の誰よりも早く書きとれました。ただ点字を書くコツコツという音が、静かな教室ではかなりひびきますので、皆のじゃまにならないように、紙のうすい大学ノートを、机の上ではなく膝の上にのせて書くという程度の気は使いました。」(『指と耳で読む』39頁) 発見された大学ノートは、ここに述べたものの一部であることは疑いない。この点において、本間の直筆による学生時代のノートが現存することは貴重であり、遺品としての価値を見ることができる。しかし、これらのノートはその価値だけに留まるものではない。ノートには、表紙や1ページ目に点字で「教授学」「言語学」「聖書」「文学概論」などと記されたものがあり、いかにも講義を書き取ったり、授業で用いるテキスト、あるいは参考資料を写し取ったと推測されるものがある。実際、表紙に点字で「筆記帳」と記したノートには本間久雄の「文学概論」が15ページにわたり、また三好豊太郎の「社会事業大綱」が5ページ記録されている。「雑筆帳」と題したノートには、学院教会で行なわれた礼拝での説教や訓盲点字外来音の表現を記録したページがあったり、新年の名句(昭和13年1月3日)、愛国行進曲(the song of camping)、「I love to tell the story」と題して4~5ページの英文を含めた書き取りがあったりする。また自身が齋藤百合に宛てた手紙が『点字倶楽部』に転載され、これを点写してもいる。これらからは、当時の本間の関心事が見えてくると同時に、授業の内容や学びの様子が伺えて興味深い。加えて、図書館創設を意識し、その準備のために必要と思われる「盲人と社会生活」(齋藤百合講演録)や同じく齋藤百合による論文で1934年10月発行の『中央盲人福祉協会会誌』創刊号に掲載された「我が国の点字図書館事業」(巻末資料参照)を読んでもらい書き取ったものもあり、本間が図書館創設の初心を貫こうとして少なからぬ準備をしていたことが読み取れる。さらに特筆されるのは、使い切らなかったノートは大学を卒業し、上京した後、図書館開設準備の記録や開館後の業務日誌としても用いたようで、そうしたものも7冊含まれていることである。 「図書貸出事業準備記録」と題したノートは昭和15年9月1日から始まる開館に向けて準備した内容が記録された日報である。外出した場所や訪ねた人、購入したものやその価格、蔵書として発注した図書、および納品された図書名等が記されている。時折、本間のコメントも添えられていて、そのときの本間の心の動きや人柄が見えてくる。記入は開館日の11月10日が過ぎても続き、この年の12月31日で終わる。よって、開館日以降は業務日誌としての性格をもつようになる。 写真 〔写真、終わり〕 図書館創設のための準備として用いられたノートには「図書館準備用記録」と題したものもある。これには、① 全国点字図書館計画(3p)、② 点字図書出版調査(4p)、③ 点訳書の名称とその所有者(2p)、④ 発行所別書籍数および9月1日~総定価(3p)が記載されている。①は1ページあたりの点訳料と1時間あたりの点訳ページ数、点訳者の動員数を組み合わせを換え計算したもので、蔵書を増やすために点訳者を導入した場合の予算をはじき出したものと推察される。②と④は、点字出版所から蔵書となる図書を購入するために書き取ったものであり、③は、文学書をはじめとする出版されていない点字図書の所有者を記しており、蔵書として1冊でも多くの点字書を確保するため、出版されていない個人所有の点訳書については、これを点写して蔵書にしようとしたのではないかと考えられる。開館後の業務日誌には、①「日本盲人図書館日誌」、②「図書館日誌」、③「図書館日誌」の3冊がある。①は1941(昭和16)年1月1日水曜日から同年4月30日水曜日が、②には同年5月1日木曜日から9月30日火曜日が、③には10月1日水曜日から12月30日火曜日までの内容が書き込まれているが、必ずしも開館した全日ではなく、欠落した日も見受けられる。このほかのノートの1冊には昭和22年度読者寄付、教養図書点訳会読会費、図書館建築寄付募集記録が、また別の1冊には、図書館建築寄付者が6ページにわたって記録されている。一連のノートに目を通していくと、そこに記されている事柄は、当時を語っている本間の『指と耳で読む』や古澤敏雄の『本間一夫この人、その時代』と食い違う点や組み込まれていない点が少なからずあることに気づかされる。例えば、開館当日の記念式典の開始時刻について、本間の著書は「午後2時」とあるのに対し、大学ノートの「図書貸出事業準備記録」11月10日の項には「午後2時半」とある。次に、この式典の参加者として本間と古澤の著書は齋藤百合を挙げているが、ノートでは、齋藤は式終了後の来訪者7人の一人に記されていて、出席はしていない。つまり、日本点字図書館創立70周年を記念して発行された『点字とあゆんだ70年-日本点字図書館点訳奉仕活動の記録-』を除き、これまでに著されている日本点字図書館の歴史を物語る資料には、その編集過程でこれらのノートが参考資料として活用されなかったと推察される。図書館の創設準備から開館間もないころまでを記したこれらのノートは、館が移転や新築、疎開や再建、増築・改築を繰り広げていった70年余りの間、誰の手にも触れられることなく、ダンボール箱の中でひっそりと眠っていたことになる。であるが故に、これらは日本点字図書館の草創期の歴史において、まだ詳らかにされていなかった事柄を明らかにすると同時に、既に館の歩みとして通説になっている史実を改めるものであり、資料的に貴重なものであると言える。よって、一連のノートは熟読し、既に世に出ている他の資料とすり合わせるなどして、日本点字図書館の歴史を多方面から検証する必要がある。 本章では、これらのノートのうち、学生時代の様子を記した『点字倶楽部』転載の齋藤百合宛て手紙を次節で、図書貸出事業準備記録を3節で墨字訳して紹介する。 なお、一連の大学ノートは、本間の直筆であることを踏まえ、筆者ら本間記念室委員会では「本間ノート」と総称している。そこで、本書でもこの名を用いた。 写真 発見された「本間ノート」の一部 〔写真、終わり〕 [#23ページ] 2.図書館開設準備~関西学院大学時代、齋藤百合へ宛てた手紙 好本督(1878~1973)の著書によってライフワークへの扉に手を触れることになる本間は、図書館創設に向けた準備として、海外における盲人図書館事情を把握するため英語を学ぶべく、1936年春、関西学院大学専門部英文科に入学する。学生時代の生活の様子や図書館創設に向けた準備として注目される資料のいくつかが本間ノートに記されている。陽光会ホーム主宰者・齋藤百合(1891~1947)へ1937年11月に宛てた手紙もその一つである。陽光会では、地方の盲人のために宿泊も受け入れていて、本間は大学の長期休業で北海道へ帰省のとき利用している。実際、この年の夏も2週間世話になっており、手紙はそのお礼と近況を認めたものである。それは私信であったが、編集者の意向により匿名で全文同会発行の月刊誌『点字倶楽部』(1934年創刊、1945年3月終刊)の11月号通信欄に掲載された。発行後の同誌を手にした本間は、この部分を大学ノートに点写している。几帳面な本間は、本文の後に書き取った日と感想めいた一文を記していて、掲載されたことを光栄に思っているように受け取れる。以下は、それを墨字にしたものである。 手紙は、本間が2年次のときに書いている。当時、学内には瀬尾真澄、下沢仁、高尾正徳と本間を含め4人の盲人が就学していた。また教壇では日本ライトハウスの創始者でもある岩橋武夫(1898~1954)が英文学者として教鞭を執っており、その存在は4人の盲人学生にとって大きな心の支えであった。本間ら盲人学生は、折を見ては岩橋を囲む会を催し、岩橋から有形無形の刺激と叱咤激励を受けた。この席で本間は盲人のための図書館創設を強く意識して岩橋に意見を求めている。それは盲人事業でありながら従来とは異なり、専ら図書の貸出事業のみを扱う施設の構想であることが伺える。これについて岩橋は一定の理解を示しているが、図書館ならば図書の貸出に専念することは当然である。しかし当時の盲人のための施設は、全般的な福祉の貧困のために複数の事業を展開するのが一般的であった。実際、岩橋が1935年、大阪市の阿倍野に設立した世界で13番目の「ライトハウス」は、各種の研修会・講習会の開催、盲人家庭の援助や身の上相談、盲婦人の指導、職業指導、点字図書の出版と無料貸出、失明傷痍軍人の更生訓練等、多岐にわたる事業を行なった。齋藤百合の陽光会ホーム(1935年創設)も月刊誌『点字倶楽部』を発行すると同時に、盲人用具の取り次ぎをしたり、鍼按外来治療室・点字教室・編物教室・点字出版・失明者相談室等を設けたりして、盲女子の保護・訓練を行なった。これらに対して、本間はあくまでも図書の貸出一事業に強くこだわっていることが読み取れる。 世は戦時の色合いが強まり、刻々と暗黒の時代に傾斜していくが、その影響が盲人福祉事業にも及び始めていることが手紙から見て取れる。本間自身は、時代に同調しながらも不透明な先行きに不安を示している。なお、手紙を本節に掲載するに当っての墨字訳では、時代背景を考慮し、基本的に数字は漢字を用いた。また形式名詞をはじめ、全体的に漢字を多用している。 〔以下、手紙〕 拝啓 点字倶楽部をいただく度に是非書かねばと思いつつ、つい今日までその機会を得ませんでした。申し訳ございません。先日、関根さんからお便りをいただき、日々に伸び行く陽光会を思い浮かべて、会の前途に幸多かれと祈りました。あのお世話になった夏の二週間がいつに忘れられず、ことあるごとに思い出しては懐かしんでおります。久美子さんはじめ、美知子さん、武彦君、美和子さん皆様お元気のこととお察しいたします。関根さんのご親切、大長さん、金井さんの才媛ぶりも思い出され、ずいぶん暴れたものだなど微笑・苦笑を禁じえません。 点字倶楽部倍加運動の経過はいかがですか。そう案ずる僕は、自身何事もなし得ず、申し訳ない次第です。倶楽部のような内容に広い分野をもつ雑誌が月五百部の盛況を見ることはお世辞ならぬ気持ちから然したる難事ではないと考えます。振るわない我が出版界の為、その日の一日も早からんことを願って止みません。 さて、僕は休暇後こちらへ参りましてからも相変わらずご承知の調子でやっています。ただ、去る十月初めの学期試験には、一年の折、なまじいに首席を汚しておりました為、一種の責任を感じたりし、すっかり疲労困憊いたしました。しかし今は、もう当分試験地獄の恐れもなく、しかも近頃は運動会だの、記念祭だの、野外教練だのと幸か不幸か休みに恵まれ、まさに意気軒昂たるものがあります。 ここ学院の所在地は、六甲の連峰を後ろに控え、松山あり、小川あり快適の健康地帯であるだけに、一入秋も楽しめる訳です。土曜あるいは日曜ごとに我々四人(注:盲学生の諸君のこと)集まって夜の更けるのも忘れて語り合います。盲界の諸問題はもちろん、宗教論、戦争論、恋愛論、果てはトランプに笑い興ずることもあり、友情味満点、将来の結束を誓い合っております。 先週の火曜、盲人グループが主催し、岩橋先生を中心に学院食堂で座談会を催しました。いろいろ盲界の問題も取り上げて検討し、先生の持論なども伺えて大変有益でした。席上、僕が点字図書館云々と持ち出しますと、「君の受け持ちとして点字書籍だけを扱ってもらっても大きな仕事だ。よく準備工作を練ってね」と激励せられ、聊か意を強うしました。 なおライトハウスでは、盲婦人の仕事として機織りを盛んに教えており、大変好成績だとのことです。先月の十九日、大阪市立運動場で開催された盲学校競技大会に行ってきましたが、競技それ自体はともあれ、肝心のアナウンサーが頗る要領を得ず、すっかり悲観して帰りました。多少の金はかかっても、観衆に盲人が多いのですから、やっぱり専門のアナウンサーでも頼むべきですね。 日支事変の長引くに連れ、召集も益々しきりのようですが、既に学院生徒の中からもぼつぼつ出征する者があり、友人の内からも文科から一人、神学部から一人行きました。知る人、知らぬ人皆一同に駅頭に集うての万歳、万歳、これでこそ日本の兵隊は強いのだと却って僕が感激になさせられました。四師団管轄でも近頃は、こいとぶちい[原文ママ]の奮戦目覚しく、毎日、新聞紙上には十名内外の戦死者遺族訪問記が載っています。この事変、いつ果つることかは知りませんが、明治の初年以来、粒粒辛苦築き上げてきた各種文化事業も、このところ破壊はされぬまでも進歩に支障を来たすべく、少なくも我が盲界には嘆かわしい次第です。とはいえ御国のため、やむを得ないことではありましょうが……。 さすがに長かった関西の秋も、もう終わり近く、朝夕はめっきり冷え冷えとして参りました。昨日、北海道の友人から届いた手紙にはこまごまと彼の地の秋が描かれて、最後に「枯れ枝に烏の止まりけり秋の暮れ」の句が引いてありました。懐かしさ言わん形無しといった気持ちです。 さて、以上は一時間に余る殴り書きです。夜も大部更けました。書きたいことは尚も尽きないのですが、三枚にかかっては聊か冗長。今日はこの辺で失礼させていただきます。 (以上は陽光会会主に寄せられたる私信。一文一句、一人読むには余りに惜しく、特に筆者のお許しを請い、公開させていただいた) 〔手紙、終わり〕 (補記) これは昭和十二年十一月十五日発行の点字倶楽部三十九号中の通信欄に掲げられたもので、去る四日、齋藤百合女史に宛て、出した僕の手紙である。そして、その部分はさすがに抜いて倶楽部に載せているが、倶楽部には出さないようと書き添えておいたところ、長女久美子さんから是非掲載させてほしい旨の依頼状あり。やむを得ず承諾したのである。しかし、こうして公にせられて見れば、さすがに一種の誇りを感じ、嬉しい気がする。さればこそ、今月は特に倶楽部が待たれたのでもあろう。 (昭和12年11月23日) [#26ページ] 3.図書館開館準備と開館記念式典 関西学院大学卒業後について、本間は当初、盲人福祉事業を学ぶべく岩橋のライトハウスで働くことを考えていたが、1938年の12月、思いがけず齋藤百合から熱烈な上京の勧誘を受け、卒業と同時に東京へ出ることを決意する。こうして1939年5月、待望の東京へ進出している。上京後は、図書館を開館するまでの約1年半、斎藤が主宰する陽光会を手伝い、『点字倶楽部』の編集に当たりながら開設準備を進めた。この間に記録された「本間ノート」には、『図書館準備用記録』と『図書貸出事業準備記録』がある。このうち『図書貸出事業準備記録』は9月1日の日付から始まっており、6日の項には「故郷より東京へ帰り、積極的準備の気構えに入る」と記されている。これらのことを合わせて考えると、上京してから開館日を迎えるまでには18か月の期間があるものの、具体的な開館の準備は2か月余りでしかなく、短かったことがわかる。 図書館開設の準備について、本節では本間ノートのうち、『図書貸出事業準備記録』から開館記念式を挙行した11月10日までを墨訳し掲載する。本間の著書には、開館準備について詳細な記述はないだけに、「本間ノート」に目を通していると、この2か月余りの間、本間は実に忙しく行動したことがわかる。蔵書は「当時購入できた約700冊」が定説であるが、その具体的な内容も見えてくるし、盲人から個人所有の点字書の寄贈を少なからず受けている。さらには、岩橋武夫のライトハウスの図書貸出事業の視察はともかく、図書を管理するうえで整理法を参考にすべく、日比谷図書館に出かけ、種々書き写し、図書館員から印刷物、カード等を譲り受けているのも興味深い。 紙数の関係から、開館後の日誌の掲載は控えたが、1週間後の11月17日には、陽光会へ製版・印刷を依頼していた『図書館ニュース』第1巻第1号が出来上がり、本間らで製本、帯封かけ等の発送作業をし、528部送り出している。さらには増し刷りを依頼し、各盲学校その他残余の名簿により154部を19日に発送する。その後、郵送での図書貸出に当たり、蔵書目録の発行を目指し、その前段階として書名カードの作成に着手している。 広報活動としての『図書館ニュース』の発送から1週間が経過すると、利用者となる盲人の反応が現れ始め、手紙が日に10通以上届くようになる。11月27日には、早くも借り出し券50号に達しており、図書館に対する反響がうかがえる。この日の記録には「手紙は今なお日に10数通を参し、その整理のみで忙しきこと限りなし。」とあるが、業務に追われながらも、事業への本間の確かな手ごたえと喜びも感じられる。 〔以下、『図書貸出事業準備記録』より〕 【9月】 1日 創設費1千円、経営費毎月50円と決定。創設費内訳は図書購入費500円、設備費200円、予備費300円。 6日 故郷より東京へ帰り、積極的準備の気構えに入る。10日すでに出来上がっているとゆう本棚2個の代金100円、佐藤氏を通し支払う。なお、看板の代金8円はすでにカミカワ氏に支払い済み。 夜、ライトハウス図書事業の実際を視察のため夜行で西下。 11日 朝、梅田着。午前はトーエイにて岩橋先生に会って話し、午後はライトハウスにて土井、木村、明田諸氏と事業の実際について語り、土井氏よりは特に丁寧に図書の整理法を聞かさる。夜は瀬尾、下沢、高尾、3君に計画を話して賛成を得、援助を請い、さらにイノ氏をも加え、実に愉快に談笑す。ために歓喜と感謝にあふれ興奮して夜明けの5時まで眠り得ず。心からの祈りを捧ぐること幾たびか。 12日 午前、なお土井氏以下を通しハウスの事業を充分に視察。午後は点字毎日に中村先生を訪ね、約2時間図書館事業を中心に種々会談、協力援助を懇請。夜行にて帰京の途に着く。わずか2日半なるもきわめて有効なる旅行にて大いに自信と勇気を与えられた。 なおライトハウスにては、『宮本武蔵』1・2・3巻、『不惜身命』、『日本の前進』、『波』の下、計380銭を注文す。 16日 本棚2個建具屋から運ばれ組み立てて、6畳に備えつく。 18日 信仰会からの寄贈書69冊とともにオオムラ氏よりの委託洋書(今まで信仰会に保管)69冊運送屋に運ばす。運賃80銭。 19日 神戸盲啞院へ21部32冊、44円20銭、弘誓社へ17部17冊、10円20銭、京盲同窓会へ12部20冊、26円85銭也を振替と為替にて送る。 〈注文書の書名〉神戸盲啞院:『現代語辞典』、『空の彼方へ』(3)、『我輩は猫である』(2)、『若きエルテルの悲しみ』(2)、『文学概論』、『文学辞解』(2)、『文学評論集』、『短歌入門』、『俳諧大要』、『椿姫』(2)、『鼻』、『チエホフ短編集』、『紫』、『光は闇から』(4)、『俊寛』、『肉弾』、『科学新話』、『新ドイツ語講座』、『ニュークラウンリーダー自習詳解』(3)、『新西洋史』、『新東洋史』 弘誓社:『文化と宗教と社会』、『大乗佛教の原理』、『シンノカイテン』、『人間道』、『道徳の現実性』、『親鸞聖人の宗教』、『解脱の宗教』、『仏教概論』、『仏典物語』、『仏教の精髄』、『光を浴願する生活』、『処世要道』、『親鸞聖人御法語』、『蓮如聖人御法語』 京盲同窓会:『小さき者へ』、『訓盲楽譜』、『エスペラント講習読本』、『点字エスペラント』(2)、『実業読本』、『経済読本』、『普選の話』(3)、『修養の模範』、『公民教科書』(2)、『新東洋史』、『ドイツ文法教科書』(3)、『灸法の学理』(3) 以上、注文書価格合計81円25銭。その他送金手数料など56銭。 22日 京盲へ注文した書12部18冊全部到着。 23日 ニイツさんを訪ね桜雲会へ鍼按医学書12部59冊、普通学書23部40冊、計35部99冊を注文す。なお金額は最近改正のため不明。 〈書名〉『最新マッサージ術教科書』、『近世経穴学』、『実用解剖学』(6)、『小衛生学』(2)、『ネーゲリー氏手法概説』、『電気診断および治療学』(2)、『水治療法及びその他の物理的療法』(3)、『家庭治療読本』(2)、『婦人科診断と治療』(3)、『セイマチスの診断および治療法』(2)、『日常ポケット診断学』(3) 『新日本口語法』、『新日本文法』、『ニューエージリーダーズ』(3)、『新式実用幾何学』(3)、『新選物理学』(2)、『エスペラント語』、『緑の朝』、『法制学教科書』(2)、『経済学教科書』、『一家経済法』(2)、『民法読本』(2)、『中学作文の要領と文例』(2)、『国民小訓』、『塙保己一伝』、『東西相い触れて』(3)、『藤村詩集抄』(2)、『坊っちゃん』(2)、『古今和歌集』(2)、『盲人関係法規集』、『同音語』、『中学国文法』、『新選公民教科書』、『唱歌法と発声法』(3)、『点字楽譜の書き方』 午後、久美子さんと日比谷図書館に出かけ種々書き写してもらって後、さらに事務のホソヤ氏に会い一覧表その他の印刷物、カード等を貰う。はなはだ有益なり。 24日 肥後喜一氏あてに175円を振替にて送り、日本点字社、帝国盲人会、大貫善治堂および日本鍼按協会等の書籍を買ってもらうよう依頼した。また直接には帝国盲人会へ4部8冊830銭、伊達活字へ2部2冊680銭および弘誓社へ割増請求1円2銭を振替にて送る。 〈書名〉帝国盲人会:『帝国憲法略解』、『ドイツ語独習』、『講義付論語』(5)、『心の闇』伊達活字:『鍼灸療点学』、『ホッファマッサージ術記』 赤沢長秋氏より『盲作家集』1冊寄贈せらる。 25日 弘誓社へ注文の書籍14部14冊到着。 次の書籍を為替にて注文す。 大阪府盲:『現代家事教科書』(4)、『交際の常識』、『病理学総論』(2)以上3部7冊705銭。 大阪市盲:『倫理書』、『真正論理学』、『最近自然科学十講』(4)、『総譜解説』、『新編音楽理論』以上5部8冊1,010銭。 岐阜盲:『新約物語』(2)、『ケルロッグ氏マッサージ学』以上2部6冊3円。 神戸点字社:『フィフテー フェーマス ストーリーズ』、『経穴考』以上2部2冊270銭。 大貫善治堂:『草枕』(2)、1部2冊350銭。 以上合計26円35銭。他に手数料その他90銭。 29日 伊達、大貫より模造紙等の返信あり。こちらから送ってはどうかと問い合わせの手紙発送。大阪府立からは「時節柄外部には売らぬ」とて為替返金さるも横田氏に依頼状を送る。 30日 夜、ニイツ氏と会い、桜雲会購入図書契約を次のごとく決定。 冊数99、その総価格163.1円。公益事業なるを認められ会員ならぬ僕の名をもって1割減の146.8円。それに地券紙に対する模造紙の割増1冊平均20銭、計19.8円と糸綴じにする製本の割増1冊10銭の9.9円を加え、結局177円50銭を近日納入のこととなる。 佐藤勇氏より『常用漢語辞典上・下』寄贈せらる。 点毎へ5部6冊『二宮翁夜話』、『支那事変忠勇美談集』、『軍歌集』、『ヘレンケラー詳伝』、『海と兵隊』(上・下)計333銭および日本点字社へ2部3冊(『大和民族と天然(上・下)』、『昭和名文集』)6円を注文す。両者の手数料9銭を要し、この出金9円42銭である。 【10月】 3日 市盲から4部7冊到着し、追加40銭を送る。日本点字社より2部3冊早くも到着、ライトハウスへ5円送り模造紙を注文す。手数料14銭。 4日 点毎より6冊、徳島盲人同士会より2冊到着。 5日 桜雲会に176円50銭を支払う。光の家から書籍18冊だけ到着。6日神戸盲啞院より20部31冊全部到着。なお『文学評論集』のみは絶版。代金は一時向こうへ預く。 8日 本棚7段のもの2個(各50円)、6段のもの1個(53円)計3個出来て来、うち2個は組み立ててもらう。家の狭さを痛感する。資材不足のため、外部へは売らぬと為替を送り返された府盲出版部へ横田氏を通し交渉した結果、今日『交際の常識』および『家事教科書』3冊、計4冊到着。 9日 雨池信義氏より次の書籍寄贈さる。『鍼治新書増補 2版上』、『同じく 下』、『同じく 手術編』、『あんまマッサージの神経病に対する治療的価値』、『鍼灸開業法』 10日 寄贈受付簿2冊720銭、閲覧カード1,000枚12円、カード製作のためのケント紙15枚360銭、交通費64銭。 11日 6段本棚1個53円、7段本棚2個100円計153円支払う。 雨池信義氏より『ヘレンケラー全集』全10巻寄贈さる。 雨池氏と午後4時大久保の後藤静香氏を訪ね会談、約1時間、得るところきわめて多し。すなわち11月号「キョウヨウ」に写本士募集発表のことと、第1日曜および第2土曜日の家庭集会前、点字講習会を開くことをすすんで許可された。 神戸点字社より2円60銭の為替券返金さる。理由は不明。 16日 肥後さんのところから日本点字社川越等の書籍54冊届けさる。 17日 記名カード1,140枚の裁断賃120銭をイナバヤへ払う。 18日 桜雲会へ「仏眼」および「点字倶楽部」の合本製本を6冊依頼す。 ライトハウスより過日送った5円に対し亜鉛板10枚と模造紙7帖到着。 19日 佐藤さんと午後、芝のボールズ氏を訪問。写本士の件につき依頼し「岩橋先生の上京を待って懇談会を開こう」との親切な答えを得、感謝に堪えず。交通費80銭。 20日 久美子さんと伊東屋へ行き、次の品を求む。ホチッキス780銭、その針2,000本170銭、パット1個75銭、ナンバリング2個65銭、リング55個195銭、そろばん195銭、交通費その他150銭、計16.3円。 24日 東盲普通師の真船氏、今日から来てくれる。午後3時から2時間ないし2時間半の予定。今日は概論を話し合い、明日から盲人のカード製作にかかるはず。 25日 午前は佐藤さんと山下長一氏を訪問し、譲ってもらうはずの中学講義録を見せてもらう。伊達より2部3冊、大阪府盲より3部7冊、全部到着す。 インクおよびノート40銭。 27日 午前、村松キミ子さん来られ写本につき種々語る。申し分なき名写本士とうなづかれ早速『田園交響楽』を依頼してやった。さるにてもすばらしき写本士を発見せるものかな。 正午、雨池さんのところのテント屋が来、袋50個届く。1個2円10銭、計105円を支払う。 函館の院長から早くも原稿到着。内容もまずよし。 28日 神保町へばあやと出かけ、文房堂よりカードをつくるためのケント紙、中版70枚16円80銭。 肥後さんのところから点字社の本3冊、日本鍼按協会のもの12冊届けらる。 30日 本郷のイトウ商店より閲覧用カード1,000枚12円および図書原簿1冊5円届けらる。寄贈簿3.6円を返したので支払った現金は13円40銭。 午後、真船さんと日比谷図書館へ行き閲覧カード、書籍の書き込み事項を調べ、さらにホソヤ氏に会い、原簿のつけ方につき、種々教えを請うた。交通費60銭。 31日 真船氏へお礼5円。 【11月】 2日 岩橋先生より原稿到着。 大貫より『草枕』(上・下)届く。 3日 午後「心の家」の集会に雨池さんとともに出席。点字について話をし、一覧表を配る。話も準備不十分のわりには、よく出来たし、後藤先生自ら立っての点字講義には特に感謝させられた。ただ用意の一覧表が80名の出席者中、20名にしかあげられなかったことは、はなはだ残念だった。 岐阜盲から2部3冊到着す。 この日交通費20銭。 4日 「日本盲人図書館本間一夫」の名で振替貯金に加入したが、番号が分からないのははなはだイクモウキン[原文ママ]11円50銭。 ヤスオさんが日大前の文房具屋からハトロン紙150枚、8.5円を買った。 5日 久美子さんと出かけコウブン堂へケント紙を持っていって印刷、すなわち書名カード、人名カード、ニュース発送カードを頼み、近所の文房具屋から借り出し券にするカード100枚を1円5銭に買ってコウブン堂へ頼み、更に図書の背に貼るレッテル2種92銭を買ってきた。帰途、辻町の道具屋にて古テーブル1個27円(届け賃19銭)を買った。交通費38銭。 桜雲会より56冊出来てくる。運送賃50銭。 今日までに返金されてきたのは、岐阜盲から1円、川越から120銭。 7日 陽光会から32マス点字盤3個。 8日 ヤスオさんに謄写版1個37円およびインク180銭を買わせた。 9日 夜、心の家を訪ね、雨池さんとともに点字講習をやる。交通費60銭。後藤先生に点字盤1個差し上げた。 3日越し製版にかかっていた図書館ニュース創刊号13枚は、今夜10時に至り校正を終わった。満足。いよいよ明日は開館式。カード4種、および名刺の印刷代コウブン堂へ11円払う。 (9日、中村先生より原稿到着。8日、佐藤勇氏のもの完成。7日朝、振替貯金局より書類到着し、番号は東京100288と分かる。8日、桜雲会より亜鉛板5枚150銭を買う。) 10日 皇紀2600年の奉祝式典が宮城外苑において行なわれるこの日、我が図書館もいよいよ開館の日を迎えた。朝から久美子さんが来てくれ、僕は午前、話の原稿を整理した。午後2時半、佐藤勇氏の司会で開会す。出席者は好本督、篠崎徳三、雨池信義、肥後喜一、ムラカミヨシタダ、佐藤勇、山本篁、真船龍男、山下長一、後藤巌之助、それに心の家から高田、井上、原の3氏。また好本先生と一緒に鈴木、池田、ハタケヤマの3婦人、その他斎藤久美子、それに品川のおやじとおばさん計20名。僕の挨拶の後、篠崎、雨池、山下、好本諸先輩の祝辞あり、終わって茶菓、自己紹介等誠に予期以上の盛会であり、後藤静香氏から祝文のはがき、秋元先生からは電報が届いた。 この日、その後の来館者はライトハウスの木村数市氏以下、齋藤百合、赤沢長秋、高野タダハル、吉田ヒロノブ、山田太郎、カミカワヤスジの7氏で、借り出し券も佐藤、雨池、高野、吉田とすでに第4号まで出た。 この日いただいたお祝い品は、久美子さんから花・鯛、品川から花・お菓子、陽光会からホーム生の名で花、雨池さんから発送用袋1個と国文教科書等6冊、後藤さんより上等の模造紙3帖などであった。 また、肥後さんは書籍4冊を届けられ、それにより全部到着。手に入らなかった本および割引により175円中34円70銭返金さる。久美子さんに椅子2個を買ってもらい計13円を払う。 〔『図書貸出事業準備記録』からの引用、終わり〕 日本盲人図書館の開館は11月10日で、その日の午後には式典が催された。なぜこの日を記念となる日に定めたのか興味深いところであるが、本間ノートにはその糸口を見出す記録は特にない。点字への一方ならぬ思い入れがあり、事業の性格からすれば、日本点字の制定記念日である11月1日とするのが妥当であり、納得もできる。しかし、それは今日を生きる者にとっての「納得」であり、時代背景を理解していない今日的な見方であるとも言える。すなわち1940年11月10日は、国を挙げての皇紀2600年の記念式典が盛大に執り行なわれた日であり、本間はこれを強く意識したと推察される。実際、この日の日誌の冒頭は「皇紀2600年の奉祝式典が宮城外苑において行なわれるこの日、我が図書館もいよいよ開館の日を迎えた」との書き出しで始まる。また『指と耳で読む』の「点字図書館の創立」の項の冒頭は「昭和十五年十一月十日の日本は、津々浦々に、国をあげて紀元二千六百年を祝う万歳で湧きかえっていました。わが日本点字図書館も、この日、豊島区雑司ヶ谷二丁目四二六番地の二階建ての小さな借家で、呱々の声をあげたのです」と記す。そこには、国の繁栄同様に盲人への図書館事業が、しかも従来の盲人福祉事業の方法では例のない単独での事業展開が幾久しく発展するようあやかろうとしたのではないかとも考えられる。 列席者は20名とあるが、会場の広さからすれば十分であり、その顔ぶれは、本間の良き理解者であり、支援者であることがわかる。その一人、雨池は、それまでの準備記録からも読み取れるように、本間の事業に対して点字図書を寄贈したり、本間を後藤静香に引き合わせるなどして、この間、表に立って応援している。陽光会や心の家関係者がいるのも事業と強い関係にある団体であり理解できる。また本間を図書館事業に導くことになった好本督がいるのは大変興味深い。 なお、式典に当たって本間自身は挨拶の原稿をこの日の午前に練ったとあるだけで、これ以外には事前にどのような準備をしたのか、案内状を発送したのかどうか等、本間ノートには何ら記録はない。日々、出かけた先や買い物の品とその価格、交通費等丁寧に記録する本間であるのに、開館の式典について、準備の記録がないのは少なからず疑問も残る。全体的には、厳かな出発の式であったように想像され、それ故に記録に残さなかったのかもしれない。 [#33ページ] 第3章 日本盲人図書館の貸出活動 [#34ページ] 1. はじめに~帰館した貸出活動の証 本間没後の2007年、北海道増毛町の本間家から「蔵に小説、理療科などの教科書、世相を反映した戦記物など様々な図書が保管されている」との情報が寄せられた。生前、そもそも「あれはごみだから」と、蔵書の引き上げを取り合わなかった本間の意志を前館長の小野俊己は記録していた。紆余曲折の末、2012年9月21日、日本盲人図書館の証は、時空を超えて本間記念室に帰館したのである。 1940年11月10日に開館した「日本盲人図書館」は、本間の想いを具現した点字図書の貸出事業を展開し、読者の手元に点字本を送り続けてきた。帰館した「貸出カード」と「点字本」は、戦時下、疎開先で続けられた貸出事業の証であり、日本盲人図書館の活動の証となる本間と点訳者と読者の三位一体を現すものであり、「日本盲人図書館」を開設するに至った本間の意志を現す「遺産」でもある。 これまで日本盲人図書館の貸出活動は、日本点字図書館の本間記念室を見学する際に紹介される本棚や、本間が意図的に残した聖書などのわずか数冊の点字図書と、奥村文庫が所蔵する昭和16年12月に発行した冊子『日本盲人図書館開設一週年』(巻末資料参照)や昭和19年度発行の『点訳通信』(巻末資料参照)を閲覧するか、書籍や雑誌記事、新聞記事、日本点字図書館50年史編集委員会が編集した『日本点字図書館50年史』を読み解いて、その実態を把握しようと試みてきた。 日本盲人図書館の蔵書冊数や貸出数の記録は『日本点字図書館50年史』に掲載されている。茨城疎開時代の昭和19年度、北海道疎開時代の昭和20年度と昭和21年度の記載不明時期を除いた蔵書冊数は、昭和15年度700冊、昭和16年度1,300冊、昭和17年度1,700冊、昭和18年度2,300冊、昭和22年度3,027冊、また点字図書の貸出数は、昭和15年度の創設時を除いて毎年度明らかにされている。終戦前後の北海道疎開時代、昭和20年度~22年度の貸出数は落ち込んでいるものの、貸出活動の実績が残されていた。昭和16年9,846冊、昭和17年12,145冊、昭和18年10,505冊、昭和19年11,865冊、昭和20年2,534冊、昭和21年2,937冊、昭和22年4,821冊である(『日本点字図書館50年史』303頁)。 本間記念室に帰館したのは、貸出カード2,261枚と点字図書210冊である。点字図書には、点訳書70冊(点訳寄贈書44冊、点写寄贈書26冊)と、点字出版書140冊(明治・大正時代発行書26冊、昭和時代の発行書83冊、発行年等の記載が不足する図書31冊)が含まれていた。 これらの資料は間違いなく日本盲人図書館の貸出活動の実態を裏付ける決定的な証であることに疑いの余地はない。 貸出カードには、手書きの墨字で書名や本を借りた利用者の氏名と在住地などの情報が記録されていた。しかし、肝心の貸出年月日の「年」の記載はなく、貸出日と返却日の枠にゴム印または手書きで月日が記されるにとどまっていたため、貸出カードの分析は、どのような書名が書かれているのかを確認することを優先して、2,261枚のカードを整理することになった。このカードに書かれた書名を五十音順に整理して、帰館した点訳書の書名を本書巻末に列記した。 また本年になってから、点字製作課作製資料「点訳奉仕者リスト」が日本点字図書館地下の書架に保管されていることが判った。そこで膨大な点訳奉仕者リストと日本盲人図書館の時代に寄贈した点訳書の記録をすり合わせ、点訳奉仕者の氏名、寄贈書受付年月日、書名、著者名等のデータを収集整理した。その結果をもって、さらに貸出カードと照合することができた。本間は、疎開時代を振り返って以下のように記している。「この茨城から増毛の疎開時代には、さまざまな思い出があります。私自身、直接貸出しにあたり、図書を書棚に返したり、郵送袋のヒモをほどいたり結んだり、読書カードまで工夫して点字で克明に書き入れていましたから、この仕事の手ごたえを真正面から感じ取っていました。そういう意味では、その後の長い間もふくめて、この時代にまさる時期はなかったかも知れません。その頃の利用者については、氏名、住所だけでなく、読書傾向まで一人一人かなり細かく記憶していました。」(『指と耳で読む』82頁)今般、帰館した諸資料の中には、利用者の読書傾向が点字で克明に書き入れた「読書カード」は発見できなかった。もし、このカードが発見できれば、貸出カードに照合して利用者の動向を把握することが可能になろう。本間記念室委員会は「本間一夫没後10年」の節目の年から本格的に日本盲人図書館蔵書調査を開始した。次節に、この間に確認できた諸資料を紹介する。 写真 日本点字図書館本間記念室に帰館した日本盲人図書館の蔵書と当時の本棚 〔写真、終わり〕 [#36ページ] 2.貸出カードに見る蔵書状況 本節では、帰館した貸出カードを元に当時の蔵書状況を示す。 昭和22年度の蔵書数は3,027冊と報告されている。通常、蔵書1冊にあたり、1枚の貸出カードが作られるため、今般、帰館した2,261枚の貸出カードは蔵書の一部であることが推察される。 貸出カードは、印刷されたカードと地図の裏側を活用したカードに大別される。印刷された貸出カードの表面には、①書名、②著者名、③登録番号、④分類番号、⑤貸出先(利用者の氏名および地名)、⑥貸出日、⑦返却日を記入する枠が印刷してある。カードの裏面には、表面と同様の⑤貸出先(利用者の氏名及び地名)、⑥貸出日、⑦返却日を記載できる枠が印刷してある。裏面の一番上の枠には、書名の点字表記があるカードを多く発見した。 また、数少ないが、地図の裏側を活用した貸出カードが発見された。この地図の裏紙を活用した貸出カードは、昭和21年当時、点字用紙の調達に困った状況を記した内容、すなわち、「戦争が終わって使えなくなった大東亜共栄圏地図、その紙がわりあい上質だったので、地図の印刷されたままのものまで使用しました。」(『指と耳で読む』80~81頁)と一致する証であることがわかった。 増毛の蔵で発見された時点の貸出カードは、紐で縛られた縦長の束であったというが、筆者は、カード整理用木製引き出しに収まった状態から観察を始めた。貸出カードは、この引き出しの中で厚紙を再利用した手作りの見出しカードに仕切られて整理されていた。見出しカードは、蔵書十種(一類「盲人文献」、二類「宗教、哲学」、三類「文学、語学」、四類「地歴伝記」、五類「音楽」、六類「社会科学」、七類「自然科学」、八類「鍼按医学」、九類「児童書類」、十類「総記」)の分類と一致していた。 貸出カードにみる蔵書の貸出先は、地元の東京が断然多いものの、兵庫、愛知、福岡、京都など本土はもとより、沖縄、樺太、朝鮮に至っており、盲人図書館の郵送による貸出事業のメリットを読者が享受していたことがわかった。 貸出カードの記載に照らして当時の蔵書状況を把握することは難儀なことであった。帰館した蔵書や点訳者リストの記録と照合しながら根気強く確認作業を重ねる必要性のあることが明らかとなった。ただし、この作業成果によっては、貸出カードの使用時期とともに、蔵書の貸出時期を浮かび上がらせることが今後期待できる。 蔵書状況は、帰館した蔵書を指で読んで把握した書誌情報と点訳奉仕者リストに照合した結果に基づいて次に述べる。 今般、帰館した蔵書を指で読んで把握できたのは、点訳書70冊分(内訳:点訳寄贈書44冊、点写寄贈書26冊)、点字出版書140冊分(内訳:明治・大正時代発行書26冊、昭和時代の発行書83冊、発行年等に関する情報が不足している不明扱い31冊)、合計210冊分の書誌情報である。この書誌情報を点訳奉仕者リストに照らした結果、当時の蔵書状況を示唆する三本の糸口がようやく見えてきた。 一本目の糸口は、昭和20年8月15日の終戦を境とする「戦前戦後」という社会情勢が及ぼした蔵書状況の変化である。すなわち、リストに記録された書名は、点訳奉仕者が点訳をするために本を選ぶという選本行為に及ぼした影響を物語っているといえよう。 そもそも、帰館した蔵書は、本間が疎開先に置いてきた本である。前館長の小野は、増毛で発見された蔵書を図書館に引き上げるか否か尋ねたところ、「あれはごみだから」と取り合わなかった本間のことばを記録している。本間は、戦前の蔵書状況を示す戦記ものを意図的に置いてきたと推察できる。 二本目の糸口は、蔵書カードと照合できない書名が判明したことである。これらの書名は、寄贈書受付年に共通した傾向を顕著に示した。すなわち、戦後昭和20年~昭和23年にかけて寄贈された書名である。これらは、昭和23年4月に日本点字図書館として図書館事業を再開した際の蔵書として、貸出カードとともに東京に移送されたのではないかと推察された。 三本目の糸口は、点字出版書140冊(明治・大正時代発行書26冊、昭和時代の発行書83冊、発行年等に関する情報が不足している不明扱い31冊)の書誌情報である。これらの情報から当時の点字出版情勢を読み取ることができるため、点字出版に関連する文献に照らして、さらに分析を進める可能性が浮かび上がってきたのである。 写真 日本盲人図書館の貸出カード 〔写真、終わり〕 写真 大東亜共栄圏地図を活用した疎開中の貸出カード(裏面) 〔写真、終わり〕 [#38ページ] 3.点訳書の構成と本間直筆の「感謝のことば」 点訳書の構成 今般、帰館した日本盲人図書館の蔵書は、①点訳奉仕者による「点訳寄贈書」、②点写奉仕者による「点写寄贈書」、③寄贈または購入した「印刷出版本」の3つに大別できた。 日本盲人図書館の蔵書であるオリジナルの点訳寄贈書や印刷出版本には、蔵書印が押してあった。この蔵書印は、立花が分析考察を担当している「本間ノート」の昭和16年10月2日に〈早稲田の判屋から「日本盲人図書館蔵書」の印ができてき、〉と記されていることと一致することがわかる。蔵書印はスタンプ台を使っていたのか、黒色の単色で鮮明な蔵書印が押されている本もあれば、インクの黒色と赤色、黒色と青色が混ざったもの、横向きにおされた形跡もあった。蔵書印の押し方に決まりはなかったようである。 疎開先に置いてきた点訳書には壊れた本の背を何度も補修した形跡が残っていた。蔵書の本の背には、物資に不足する時代を映すように点字用紙や着物の布を用いて補修した跡や、壊れた本の内側に伝票を貼って補修した跡もあった。この本の破損状態は、本間が蔵書を疎開先に置いてくる理由の一つになり得たといえよう。 点訳書の構成をみると、初めと終わりには、白紙の厚紙と薄紙が挟んである本が多かった。点字出版本では、印刷時にローラーを通してプレスする際に亜鉛版を保護することや、版の痛みを少なくするために、点字の全面保護紙を用いる。点訳寄贈書の中には、点字を保護するために、ページの下の余白ができたところに点字の波線を入れて、閉じたときの本の厚さを均一にする工夫が認められた。 本の扉の枠の中には、書名が記されていた。この扉の枠の飾り線の描き方には、多様な工夫がほどこしてあった。凝った飾り線や点図の複写は、奉仕者がその点写をあきらめざるを得なかった。 オリジナルの点訳寄贈書や点写寄贈書の一部には、扉の裏、または扉の次の頁に本間直筆の「感謝の言葉」が記されていた。この「感謝のことば」の次のページから順に「序」「もくじ」「本文」と続き、本文の終わりには「本文終り」と記してあった。その他、いきなり「本文」に入る本や、本文の最後をもって点訳が終わる本もあった。 本間は、昭和19年10月30日発行『点訳通信』第2報に、〈今後は点訳書の終ひに「活字書奥付より」として活字原本の奥付全部、若しくは主なるもの(印刷及発行年月日、発行所名、定価その他)をお書き頂きたく、又書名著者名等は墨字でもお知らせください。〉と、点訳のルールについて述べる。帰館した点訳書の中には、この指示後に寄贈した書籍が含まれていた。点訳奉公会の内田すみ子が昭和20年4月に点訳した『尖兵 中隊』には、「原本奥付より」として、奥付の情報が克明に記されていたことがわかった。本間の意志は『点訳通信』を通して、確実に点訳奉仕者に届いていたことを示す。奇しくも、終戦の年の点訳奉仕の実態を表す証となった。厳しい社会情勢の中にあって、蔵書を創る過程を協働する本間と点訳奉仕者の強いきずなを感じることができた。 写真 点字を保護するための「点字の波線」(写真の一番下の行) 〔写真、終わり〕 写真 着物の生地による修理 〔写真、終わり〕 本間の直筆「感謝のことば」 平成11年10月7日に発行された『忘れ残りの通信集』の第14信には、昭和28年当時の点訳奉仕者に対する本間の思いが綴られている。この記述から、日本盲人図書館草創期から貫かれた本間の信念を読み取ることができる。若干長い引用となるが以下に紹介する。 〔引用〕 〈皆様からお送りいただく点訳書は、その校正を終わり製本に回す前、扉のすぐ次に必ず「本書の点訳を感謝して」と題するその本の点訳者の紹介文を2ページ書いて添えております。読者は皆むろん、点訳の尊さを良く知り深く感謝しておりますが、ただ単に誰々点訳というだけではやはり感謝の対象に迷います。その点訳者が何県、何市の方であるか、若い方か、お年寄りか、また、病床にありながら自らの不幸を忘れてのご奉仕であるというようなことが、具体的にわかればわかるほど感謝がはっきりと沸いて非常に喜び、感謝状等も書くようです。したがって私はできるだけ点訳者皆様の個人的なご事情を知って、許される範囲でそれを紹介しております。また、お許しを得てお手紙をそのまま引用させていただくこともあります。しかし、時には点筆を握ったまま、まったく書くべき材料に窮することもあるのです。どうぞ、お差し支えない範囲での皆様のご経歴、お仕事、ご家庭の様子、また、点訳をお始めになった動機、実際になさっていての感想、その他何でも結構ですから、お暇の折ぜひお知らせいただきたく存じます。〉(『忘れ残りの通信集』24頁) 〔引用、終わり〕 本間は、日本盲人図書館の蔵書を郵便で貸し出すという図書館事業を展開してきた。点字図書を介して、「点字文化」を読者に届けてきたのである。 活字本を点訳する奉仕者との協働は、読者に「本を読む喜び」を伝えることを可能にした。世界に1冊しかない点訳寄贈書の中には、本間直筆の奉仕者への「感謝のことば」とともに、奉仕者が読者にむけたメッセージも綴じられていたことが判明した。 現在、本間記念室の本棚に並ぶ日本盲人図書館の蔵書は、本間が疎開先に置いてきた本である。この本の取り寄せに応じなかった遺志も記録されている。本間はなぜ、これらの点字本を取り寄せようとしなかったのか、その答えは推察するしかない。単に本の破損や点字の磨耗だけではない理由があったであろうことが書名やメッセージ文から読み取れる。戦時下の社会情勢は、昭和16年9月から昭和19年9月にかけて寄贈された点字本に如実に反映していることが伺える。 本間記念室委員会は、日本盲人図書館の時代背景を鑑み、指で読んだ文言をそのまま墨字に起こした原文を忠実に転記し、史実を伝える道を選ぶことにした。 〔メッセージ引用〕 昭和16年(1941)沓名芳江 点訳寄贈 斎藤瀏著『獄中記』前篇、後編、追憶篇寄贈、寄贈年月日、記載なし 本書の点訳について 愛生園の患者の歌集『楓陰集』と樋口一葉の傑作『にごりえ』を点訳された沓名芳江さんは第3冊目としてこの『獄中記』をご自分で選ばれました。本書は墨字をもってさえ昨年12月発行されたばかりの最近巻であり今なお新聞紙上などにしばしばその広告をみるものであります。 短歌愛好家の非常に多いわが盲界に本書がどんなに歓迎されるかは申すまでもありません。製本にも回さぬうちから「できあがったらぜひまっさきに」と言う約束を数名の人に迫られ筆者は幾度も当惑しました。点訳者沓名さんは名古屋の方そして6年間も病床生活を続けておられる方であります。もちろん目のいい方。またご親戚に盲人をお持ちになるのでもありません。すなわち、この点訳はご自分の苦しみを通して我々盲人の不自由を察し「少しでも皆様のお役に立つならば」と言う極めて謙虚な気持ちに発した愛の奉仕の結晶なのであります。そして沓名さんご自身が点訳することによって自分の生きがいを発見し、自らが救われたと言っておられます。今、この尊い点訳書を紐解こうとする敬愛する読者諸兄よ、何と感謝すべきこと、そして何と不思議な事実ではありませんか。私はこの沓名さん対我々盲人の関係を思うとき、人生における秘儀の一つに近々と触れる思いがいたします。襟を正さずにはおられないのであります。どうぞ皆様も沓名さんに対して厚い感謝を捧げるとともにこの沓名さんのお言葉から深い人生の泉をくみ取り味わっていただきたいのであります。 なお本書は、前篇・後篇・追憶篇の3篇に分かれ、その400余頁を沓名さんはほんの40日ほどで点訳されたことを最後に付け加え、この感謝の言葉を終わります。 昭和16年9月 日本盲人図書館長 本間一夫 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和16年(1941)11月 丸山光進 点訳寄贈 『赤穂義士傳 第6巻(義士銘名傳5)』『赤穂義士伝(第7巻)義士銘々伝6』『赤穂義士伝(第8巻)義士外伝1』『赤穂義士伝(第9巻)義士銘々伝6』(講談全集より点訳) (表紙の裏に、日本盲人図書館長による下記のような注意書あり=全9巻に同文の掲載あり) 本書全9巻の寄贈者丸山光進氏は滋賀県の読者である。先年、点訳し所有しておられたものを今回特に寄贈された。感謝に堪えない。本傳1冊、銘々傳6冊、外傳2冊、どの巻から読んでもいいのだろうが、それだけに読者は一度読んだ巻数をよく記憶し、同じものを重ねて申し込まれないよう、とくに注意されたい。 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和17年(1942)大日本雄弁会講談社 点写 沢田謙著『ヒットラー伝』 岩元正雄 点訳寄贈 本書の点訳について 日本盲人図書館長 本間一夫 本書の点訳者は、皆さまもご存じの岩元正雄さんであります。多くの方々のご奉仕により、本館はすでに数十冊の尊い点訳書を盲界に送りましたが、私の本書にかける期待と喜びと、特に大きいものであることを感じます。 大東亜戦争勃発して、早くも2カ月。わが国と盟邦ドイツとの提携はますます親密の度を加えております。このときに当たり、かの国の英傑ヒットラーの謦咳に親しく接し得ることは、何たる幸いでありましょう。これはなお、ドイツ帝国の、のるかそるかの運命を、一身に担って戦いつつある、生ける人物であるだけに、本書により与えられる感激は、特に大きいのであります。1日も早い第二巻の完成を待ちつつ、ご熟読をお勧めいたします。 なお、岩元さんは、目下、ご郷里に近い高岡市にあって、日夜を分かたぬお仕事に就いておられますが、本書はお正月の休みを利用し書き上げられたとのこと。皆さまと共に、深く深く感謝したいと存じます。 また、本書の扉にある図は、皆さまのご承知の、ドイツのハーケンクロイツ(鉤十字)であります。 昭和17年2月上旬 記 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和17年(1942)1月 岩元正雄 点訳寄贈 奥野七郎著『要約 我が闘争』 本書の点訳を感謝する 日本盲人図館長 本間一夫 本書は、もう皆様も親しみの深い岩元正雄さんの点訳にかかるものです。岩元さんは、ついこの間まで郷里の富山県に帰っておられましたが、その間に訳されたものの1冊です。 ドイツ国民の聖書とまで言われる『我が闘争』は、日本人の間にもずいぶん愛読されています。私はそれをそのまま点字界にも送りたいと願っておりますが、ここに思いがけなくその権威ある要約書をご紹介できることは、本当に大きな喜びです。熟読玩味、指導者ヒットラーの謦咳の一端に触れ得ることを確信します。 岩元さんは、なお、沢田謙氏の『ヒットラー伝』の全訳を志され、目下、第二巻を、お忙しい寸暇を当てて訳しておられます。その愛盲のご熱意に筆者はいつも感謝の言葉を知りません。これをもって、感謝のごあいさつに代えます。 昭和17年4月6日 記 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和17年(1942)4月 岩元正雄 点訳寄贈 沢田謙著『ヒットラー伝 第2巻』 本書の点訳を感謝す 日本盲人図書館長 本間一夫 府下北多摩郡の某軍需工場に重大かつ多忙な任務をまっとうされつつある岩元正雄さんが、わが盲界に提供される貴重な贈り物であります。一巻といいこの二巻といい、現にヨーロッパの覇者たらんとしつつある生ける英雄の一挙手一投足から与えられる教訓は、ぐっと胸にくるものがあります。加えて、著者独特のすっきりとした気骨あふるる文体は、われら若き者の興味をひいてやみません。第三、四、五巻は、いよいよ総統ヒットラーの大活躍ぶりが展開されることでありましょう。皆様と共に、岩元さんのご熱意に期待し、心からの感謝を捧げる次第であります。 昭和17年4月15日 記 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和17年(1942)6月 よしのときはる 点写 沢田謙著『ヒットラー伝 第3巻』 岩元正雄 点訳寄贈 本書の点訳を感謝す 本間一夫 『ヒットラー伝』は第3巻を心からの感謝を込めて盲界に贈ります。点訳者岩元さんは、昨日、本書を持参され、茶をすすりながらこう語っておられました。「私はこれで8冊完成しますが、それほどの雑音の中で、点筆を動かしたことは初めてです。私たちは、今、12畳間に6人いますが、皆、点訳など見向きもしない連中ばかりです。耳元で流行歌を歌われたり、将棋を指されたり、それに自分も1日の労働で疲れておりますので、マスの空け方などには全然自信が持てないのです。」 岩元さんは、しばらく静養で郷里の富山県に帰っておられる間に徴用され、今は東京府北多摩郡の某軍需工場で働いておられるのです。そうした環境と戦いつつ、かかる地味な見栄えのしない愛のお仕事を継続しておられるのです。まったく我々盲人のためにです。いつもながら、胸に溢れる感謝の情を留め得ません。 本書第3巻において、ヒットラーはついに宰相の地位を得ました。4巻、5巻にこそ、彼の真面目が躍如して、発揚されることでしょう。さらに岩元さんのご奉仕に期待して、ご挨拶を終わります。 昭和17年6月10日記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和17年(1942)7月 いけやけいせん 点写 沢田謙著『ヒットラー伝 第4巻』 岩元正雄 点訳寄贈 本書の点訳を感謝す 本間一夫 焼けつくような日差しの午後、月にたった一度の公休を利用し、北多摩から市内に出られた岩元さんは、早速本館を訪ねて、本書をご寄贈くださいました。例によって、早速飛びついて、私は非常に多くを教えられる…、たった今、読み終わりました。 超将ヒトラー、いかに多くの人材を部下に持ったか、そして、彼らの力を最大限に活用したか、見事決するに、また、極めて俊敏なるヒトラー、読者諸兄も必ずや感銘深く読まれるでありましょう。 岩元さんは、今、徴用令で府中町の某工場で働いておられますが、この戦の中、いや、それよりも数名同居している騒々しい一室の片隅で、こつこつと点筆を振るわれる熱意は、徒や疎かでは考えてならないことであります。この素晴らしい日のごとき、愛盲精神もあってこそ、全五巻となるはずの本書も、ここに四巻を完成し、残り一巻となりました。 日本人が書いたヒトラーに関する書物のうち、沢田謙の『ヒットラー伝』と、黒田礼二の『総統ヒットラア』です。前書は伝記文学的であり、後書は人物表記的です。本巻には、沢田氏の序文を繰り返す代わりに、黒田氏のもののうち、本書に触れた部分を抜き書きしました。これは、岩元さんの言葉であり、目次の後の1枚がそれであります。 昭和17年7月20日記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和17年(1942)大日本雄弁会講談社 点写寄贈 『ヒットラー伝 第五巻』沢田謙著 テキスト増版 本書の点訳を感謝する 本間一夫 私は記憶もしておりませんでしたが、この第五巻とともに、岩元さんから寄せられたお便りによりますと、岩元さんが本書『ヒットラー伝』に着手されたのは、本年の1月1日であったそうであります。爾来、今日までの250日ほどの間に、全五巻として見事に成実されたのであります。しかも、徴用令で軍需工場に労働されるといった極めて心身を労する環境と戦いつつの壮挙であったのです。点訳者自身のお喜びもさこそし思われ、私は特別の喜びを感じます。しかも、岩元さんは息つく暇もなく、さらに次のものをスタートされました。何という、素晴らしい事実でありましょう。文字通り多士済々の点訳奉仕陣のうちでも、最も頭角を現す存在であると言わざるを得ません。 なお、本書の扉の上半分にある、線の集団は『ヒットラー伝』と書いたものであります。1、2、4、5の点を1つの点として読んでみてください。少しでも活字原本の感じを出そうとなすったもので、岩元さんならではできない、いわば芸当であります。触覚でちょっと分かりかねる場合もありましょうから、特に説明しておきます。 昭和17年9月13日記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)4月 荒木邦男 点訳寄贈 ナチスドイツ青年 詩集『我ら戦う』ラインホルト シュルツェ選、佐藤いちえい訳 東京 旺文社 発行 本書の点訳を感謝して 本間一夫 この書の点訳者荒木邦男氏は御国のため、その身を傷つけた白衣の勇士であります。ご負傷の箇所は、おみ足と伺っています。最近、広島から神奈川県の第3陸軍病院に転院されて来られたのですが、まだお会いする機会を得ません。すでに広島におられたよほど前から、点訳を続け、東京第1陸病へ数冊を寄贈しておられる他、本館にも先に童話『いきぬくちから』をお贈り下さいました。次に、この書とともに寄せられた氏の絵手紙を掲載し、そのご熱意をお汲みいただくよすがといたします。 拝啓 誠にしのぎ良い気候となりました。先生にはお変わりなくお過ごしでありますか。『我ら戦う』できあがりました。でも、ミスが多いように感じます。広島よりこちらに参りますいろいろなことで、私の精神に動揺がありました。それがそのままこの点訳に表れています。点訳は人のためでなく、実に私自身をつくってゆくためのものでありました。この後とも暇を求めては点訳を続けるつもりです。では、先生ならびにご家族の健康とご幸福を祈り、点筆を置かせていただきます。 敬具 氏のお心そのままが描かれていると存じます。これをもって感謝のご挨拶といたします。 昭和18年4月23日 記す なお、本書の点字の仮名遣い中、イ音、ヘ音の伸びに、長音符を用いてある誤りは改めませんでした。悪しからず。 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)4月 岡崎富輔 点訳寄贈 山岡荘八作『海底戦記 上巻』 本書の点訳を感謝して 本間一夫 潜水艦に関する書物が点訳されたのは、おそらく本書が最初でありましょう。本書は確か文部省の推薦を受けた大東亜戦下、もっとも広く熱読されたもののひとつであります。岡崎さんは、昨年の夏ごろから点訳を始められ、『烏 上下』『深海魚』『蒼茫』など4冊を訳され、さらに、舟橋聖一作の『女の手』をこの1月からはじめ400余頁を終わりかけた3月2日、その宿舎日本精工の工場の寮に火災あり、そっくり烏有に帰せしめてしまいました。岡崎さんとともに心から残念がったのですが、これに屈せず、直ちに本書を選ばれました。そして、ちょっとお国の宮崎県に帰っておられる間、実にわずか18日間に本書2冊を完成されたのでした。「これが私のレコードです」と、岡崎さんも心から満足のご様子、ここに心からの感謝を捧げてご挨拶を終わります。 昭和18年5月7日 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)5月 久田端葉 点訳寄贈 『爆雷の下に 潜水艦実践記 上巻』○○大尉手記 本書の点訳を感謝して 本間一夫 『ニューギニア決戦記』『南太平洋の底を行く』などを訳された久田さんは、ここにまた『爆雷の下に』を完成されました。病床にあって、しかも女性の久田さんが、なぜ、かくも戦記物のみを選ばれるか、それは1つの疑問です。しかし、私は考えます。久田さんは、猫の手も借りたい今の日本に、病床にある自分をどんなにか残念に思っておられるのでしょう。そして、どこに許されたただ1つの奉仕、点訳に、全精力を傾け尽くし、祖国への報恩を心くんでおられるのです。そうした久田さんの熱烈な、祖国への時局観と言ったようなものが、こうした突き詰めた戦記物を訳しておられるのだと信じます。以上、1つの感想をもって感謝のごあいさつといたします。なお、本書は上下です。 昭和18年7月初め記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)5月 点字奉公会 小倉富司子 点訳寄贈 岩田豊雄著 小説『海軍 第一巻』朝日新聞社刊(海軍記念日にあたりて) 本書の点訳を感謝して 本間一夫 まず(点訳者の言葉)をご覧ください。点字書『海軍』についての、すべてはそこに語り尽くされております。私は、ただ点訳者小倉さんにつき、一見すれば足りるでありましょう。小倉さんは、ご自分のお言葉にもありますように、真っ先に点字奉公会に馳せ参じた方で、同会が、また本館が誇り得る最も優秀な奉仕者のひとりであります。赤坂区氷川町のお宅から奉公会の事務所に、あるいは本館に始終お見えになり、事業のため、いろいろとご心配くださっておられます。教養高く、洗練されきった中年のご婦人小倉さんの点訳は(点訳者の言葉)により遺憾なく皆さまの前に紹介されております。ことに扉にある日本海軍の象徴(桜といかりの図)を写されるには、特別なご苦心を払われたようであります(複本は図略)。そしていつかの点訳者親睦会の席上、語られたその苦心談は非常に反響を呼び、以後、さまざまな図が多くの点訳者により工夫されるという大変喜ばしい結果を生みました。なお、全5巻、初秋のころ、既に完成されていたのですが、点字書製本難のため、貸し出しが今回に遅れましたことを、小倉さんに対して、読者の皆さまに対し、深くお詫び申し上げます。 昭和18年12月末、記す 点訳者の言葉 今年の4月9日、朝日新聞紙上に盲人図書館の記事が掲載され、私は初めて点訳ということを知りました。そして、そのとき「もしも自分の捧げる労力によって、いささかでも盲人文化を潤すことができるのなら、これこそどんなに有意義であろう」と思いました。それから、旬日にして、またもふとした機会に井上外語学校で点字講習会が開催されるという毎日新聞記事が目に入りました。あたかも神さまが私に点訳せよとお命じになるごとくに、そして姉とともにその講習会に馳せ参じました。2回の講習と練習会の結果、ようやく点訳ができるようになりましたときの喜びは、どんなに大きなものでしたでしょう。 さて、何を点訳したらよいかと数限りない著書のうちから、どれを選び出すべきか、そのあたかも山本五十六元帥の壮烈なる戦死、南太平洋方面における決戦、また決戦の報道にて、国を守る無敵の海軍魂、日本本土の安泰なるは、ひとえにオオモイズ[原文ママ]のもと、忠勇義烈の日本海軍あればこそと。そうだ、この日本を守る海軍魂を書いた『小説 海軍』こそ、銃後の一員たるものの感謝感激の一端として、まず第一に点訳するにふさわしい著書ではないであろうか。初戦において真珠湾にたもとくだけし、軍人の精神を伝えるこの小説『海軍』は、小説とはいいながらも、まざまざと浮かぶわが無敵海軍の面目、在船の英霊に合掌しつつ、本書を盲人文化の一遍として捧げる次第でございます。また、主人公、谷真人の郷土鹿児島は、わが祖先の旧薩摩藩としてのゆかりあるも、この書を選ばせた1つの原因でもございます。世はすべて日本出版文化協会推薦の辞に述べ尽くされております。点訳に対し、地名などを薩摩の人に問い合わせ、その他、細かく注意はいたしましたが、初めての試みとして不慣れの点多く、マス空けのこと、書き誤り、規則に外れた個所などあることをお詫び申しあげます。言葉のうちに薩摩なまり多く、判字にくい言い回しにて、例えば「男の子」を「男ん子」と言い、「家」を「えん」と言い、「やっぱり」を「やっぱい」と言うなど、また「てにをは」も標準語と異なり、「わしは」を「わしあ」と言い、「どこへ」を「どこい」と言うなど、枚挙に暇なしでございます。第三巻「真人の日記」の章は、海軍用語多く、判読しにくいこととお察しいたします。念のため、一言(いちごん)申し添えておきます。5月27日の海軍記念日に点訳にかかり三月(みつき)、いまやようやく完成を見んとしております。その間に朝日賞受賞作品たる本書は、脚色劇化され、目下、歌舞伎座、明治座で共演中のよし、また映画にも制作されつつあり、大衆文芸の寵児として認められつつあるとき、この書を皆さま方に捧げることのできるのを誠にうれしく存じます。去る8月7日、松竹本社および海軍協会の講演にて、陸海白衣の勇姿、海軍省海軍経理・通信両学校生徒、海軍軍楽隊員の海軍観賞の一日が歌舞伎座で催され、場内、白一色にてうずめ尽くされる壮観を呈しましたよし、誠に本書を紐解けば、そぞろにその壮観をも思い浮かべることができます。日々の猛暑と戦いつつ、戦場の生死の労苦をしのび、流汗淋漓(りゅうかんりんり)として点訳の完成を急いでおります。代わりにのぞみ、本書点訳にあたりご親切なるご指導を賜りたる本間先生、佐藤先生に厚く御礼申し上げます。また、影ながら助力されし、わが姉にも感謝いたします。 昭和18年8月27日記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)6月 粟村チエ子 点訳寄贈 丹羽文雄著『海戦 上巻』 本書の点訳を感謝して 本間一夫 一次ソロモン海戦といえば、なお、わたくしども日本国民の記憶には極めて新たなるものがあります。その壮絶極まりなき夜の大海戦に進んで参加し、将兵と辛酸をともにした新進作家、丹羽文雄氏の生々しい手記が本書なのであります。点字ではこれを分かって上下二冊といたしました。扱われている事実がいまだ真新しいだけに読み進むわたくしどもの胸にヒシヒシと迫るものがあります。 点訳寄贈者、粟村チエ子さんは、先に武藤健著の『恩寵無限』を訳された方。渋谷区に住まわれ、品川区の日本セイコーにお勤めの大変お忙しい方。また奉仕団員のうちでも最も意識的な人であります。数年前、失明傷痍軍人寮のために夜を日に継ぐ熱心さで点訳を続けために、肋膜を害され、以来、お母様などからは、すっかり点字を禁止されたほどでありました。その後、昨年の春ころから、またボツボツと点訳をはじめ本書は会社のお昼休みのみを利用して、ほんの1か月ほどの間に完成しお家の方には黙って、去る2月21日の点訳奉仕者感謝会の際、お持ち下すったのであります。私は粟村さんのこの深い愛のお気持ちには、特に強く打たれるものがあります。読者諸兄とともに、心からの感謝を捧げ、ご挨拶といたします。 昭和18年3月1日記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)6月 久田端葉 点訳寄贈 山岡荘八著『南太平洋の底をゆく』他二編 本書の点訳を感謝して 本間一夫 久田端葉さんは、既にいく冊かの点訳書を本館に寄贈しておられる方で、例の名古屋の沓名さんのご紹介くださった方であります。遠く長崎県平戸の方で、長らく病魔に侵され、ずっと病床にあられる方と伺います。にもかかわらず、久田さんの烈々たる点訳奉仕のご熱意は、文字どおり病苦をしのいで痛ましいまでに続いておるのであります。あるときのごとき心臓の鼓動まで鈍り、人事不省に陥ったと申します。おそらく、おうちの方などは、お体を思うのあまり、点訳などには反対しておられるのではないかと思われます。 あるときの手紙の一節に「私は笑われても、そしられても、ただ、もう点訳を続けることのみに生きがいを見いだしています。否、これをすることなしには、一日も生活することはできません」とありました。私は、そのあまりに猛烈な熱意に何か、圧せられるものを感じ、そして、しばし襟正さずにはおられなかったのであります。どうか、本書に限らず、久田さんの点訳に接しられる読者諸兄におかれては、その一点一点が血と肉もていない[原文ママ]命をかけた点の連続であることをご承知あって、深い感謝を捧げていただきたいのであります。しかも、久田さんの点訳は、なおも盛んに続けられております。 昭和18年6月28日記す (点訳者のことば) おわりに 生か死かの際にも思い続けた点訳、絶ちがたい厳しい点字への愛着、失明の方への友情。 点訳のためになら喜んで命捧げようと固く決心し、つたない点訳を今日までいたして参りましたが・・・肉体的苦痛にともすると怯むこころにいつまで続くかと心もとなく思います。 誠が足りないのかと思いつつ、痛さのため、動かない肩を、歯を食いしばって点訳を進め、めんそれをとくし[原文ママ]、なんとかして続けたいとがんばっています。 からだと相談し、さわらぬ程度にするといいのですが、気分が気分でやり出すとわが身をはめるので、常に物議の種となって困っています。 肩だけ痛いのでしたら心強く思われますが、そこかしこ・・・それに神経衰弱は頭を持ち上げようとしますし、からだの弱いのが悲しく思います。 時局柄、貴重な用紙を無駄にせず、お忙しい本間先生を煩わせ致さないのは良いことだとは思いますが、点訳できないと思うと心もとなく思います。 間違いの多い不完全な点訳に良心が責めますが、できる間、点訳は続けさせていただきたいと思います。 どうか、読者の皆様、おからだ大切にご清福のほど、お気づきの点、厳しくご叱咤ください。 さぞお読みにくいことを申し訳なく思います。 (昭和)18年6月11日 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)7月 点字奉公会 鴛淵佐智子 点訳寄贈 大木惇夫著 大東亜戦争詩集第一集『海原にありて歌える』 本書の点訳を感謝して 本間一夫 去る6月、有楽町の井上外国語学校に事務所を置き、井上当蔵先生夫妻の提唱により誕生した点字奉公会、月一度の講習会、週一度の研究会等、本館職員の指導もよろしきを得、続々と優秀な点訳者が現れました。 鴛淵佐智子さんもその1人で、仏英和女学校ご出身の方であり、7月に本書を、その翌月には早くも丹羽文雄の『報道班員の手記』を訳されました。若さにあふれ、奉仕に燃えてのご点訳は、深い感謝であります。 この夏からずっと、本館は甚だしい製本難に陥り、ために、本書を盲界に贈ることが非常に遅れ、24日、点字奉公会が開いた点訳書ドウセイの会において、初めて正式に寄贈を受けたのであります。 『海原にありて歌える』は、ただに作者の傑作たるに留まらず、近代詩集界の最傑作として、文部省の推薦を受けたものであります。私は先に点字読売誌上に一文を送って、1か月1冊の出版書の実現を強調したことですが、本書のごとき内容からいっても、大きさからいっても、このために最もふさわしいものの1つだと思いました。鴛淵さんは、特に点訳者の言葉を寄せられましたが、その中でも言っておられるように、本書の感想なり、あるいは感謝なりをぜひお寄せくださるよう、私からもお願いいたします。 昭和18年12月30日記す 点訳者の言葉 点字の世界、触覚の世界、想像さえしなかったこの世界に、ふとした機会から踏み入って、今、生まれて初めて自分で1冊の本を点訳でき、ただうれしさでいっぱいです。この歌集の大木惇夫氏について、跋文、後書等に出ておりますので、改めて説明はいたしません。ただ、点訳者として、一言申し上げたいのは、この歌集には、ときどきマライ語が出てきて読みづらいと思われるのですが、どうか繰り返し読んでいただきたい。 なお、この点訳書は、紙を非常にぜいたくに使っておりますが、これも原本の味を少しでも削ぐまいとしたためである。今から解説も詩の終わったあとに、そのまま付け加えておきました。原本の表紙は、4分の3ばかり上がったところに水平線があり、小さく軍艦の影が描かれており、その上文、つまり表紙の上文に、横に本の題字、そして、文部省推薦図書の帯がつけてあります。この歌集をお読みくださったら、点訳について、また歌集について、ご批判をいただきたい。楽しみにいたしております。 昭和18年7月 点訳者 鴛淵佐智子 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和18年(1943)7月 松本功 点訳寄贈 情報局次長 奥村きわを著『尊王攘夷の血戦』 本書の点訳を感謝して 本間一夫 点訳者松本功さんについては、巻末のご自身のおことばがなによりもよく語っています。口腔を負傷され、陸軍軍医学校の病棟に療養されつつある勇士の方と申し添えるに止めます。また、まつもとさんが初めて点字を習ったという戦盲勇士は今、兵庫県豊中におられる橋口たつみ氏で、氏は高岡工商卒業後、出征、負傷されたもっともインテリな失明勇士であります。去る7月18日、本館に新築落成式の折、本書の原本と用紙とをもって行かれたのでしたが、その後、わずかに10日あまりの一昨日、早くもこれを完成し、お持ちくださいました。初めての点訳書ではあり、マスアケなどにはかなり誤りもあろうかと思いますが悪しからず訳者の誠意をおくみくださるようお願いいたします。 昭和18年8月2日 記す 点訳者付記 宿敵米英に対する宣戦のご聖断が下され、ましてよりここに1年ゆーはんみいづのもと[原文ママ]、陣中せきせいなる陸海将兵の優先奮闘によりまして、神国日本の国威はいやがうえにも世界にかんぜついたしております時、不幸このご聖戦におきましてご失明なされましたる失明将士の皆様方におかれましては、さぞかしご不自由ご心労のことと拝察申し上げます。不肖、私もビルマ作戦におきまして負傷し、現在、入院加療中のものでありますが、内地帰還以来、さる機会から戦盲者の方にもご懇意になりまして、その日常のご不自由を目の当たりにみせられまして、晴眼者の我々は、このご不幸なる戦盲者の方々のため、ぜひとも協力をし、もって、そのご不自由の幾分かなりでもをうすらぎもって、そのご勲功にお報いしなければあいすまぬと痛感しまして、早速その方に点字を教わり、この点訳を始めた次第であります。なにぶんにもはじめましてからまだ日も浅く、誤字誤文も多く読みにくいところも多々あることも存じますが、今後大いに勉強しまして、できるだけ多く皆様のお役に立ちたいと思っております。何卒ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。つたない点訳書でありますが幾分なりともみなさまのお役にたちますればこれにこしたよろこびはありません・・・点訳者。 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和19年(1944)6月 荒木邦男 点訳 詩集『大君の詩』 著者 平田内藏吉 本書の点訳を感謝して 本間一夫 本書は、神奈川県の第三八区軍病院に入院中の白衣の勇士、荒木邦男さんが点訳し、本館に寄贈されたものであります。荒木さんは、足に名誉の傷を負っておられる方で、はじめ広島の陸軍病院におられたのでしたが、そのころ、後藤静香先生の主宰する(心の家)誌上で点字運動を知り、早速、参加を申し出でおられました。そして、同じ病院内の失明勇士に、進んで点字の手ほどきをされたようでありますが、当時、そのご厚意を受けた、いくたりかの失明勇士が、その後、東京の第一陸軍病院にも来て、そのご親切を語っておりました。かかる荒木さんの、失明者に対する深い同情は、その点訳奉仕において、いかんなく発揮せられ、すでに多数の書物を点訳し、第一陸軍病院の展示室へ送っておられます。本館でも、未収童話など、すでに数冊をご寄贈いただきました。国家のため、名誉ある負傷をされた勇士が、点訳されたこのセンソウデス。特別な感謝を持ってお読みくださいますようお願いいたします。 昭和19年9月初め記す 〔引用、終わり〕 〔メッセージ引用〕 昭和19年(1944)9月 奉公会 鴛淵佐智子 点訳 『イギリス人の見た海軍兵学校 後篇』セシル ブロック原著 海軍少佐はまだしょういち解説 海軍報道部 いいののりもと訳 (点訳を終えて) 『イギリス人の見た海軍兵学校』この本を私は最初、1冊にまとまらないものかと一生懸命考えてみました。1冊になったらいいだろうなーと思いました。しかし、点訳書に1冊ではあまりに無理がわかっていましたのでこれを前後編に分けることにしました。 ところがところがです。いつのまにか、こんな紙の嵩になってしまったのです。まちがったかと思ってびっくりしました。後編があまりに厚すぎてしまいまいました。でも全部できてしまったのです。 いまさらのやりくりもならず、そうかといって、そのままではあまりに厚すぎます。読み続ける気分を無視して、しかたなく、これを2つにすることにしました。中編とそれから後編とに、ただページがいけません。全部直せないことはありませんが、それではあまりに汚くなってしまいます。皆様にお詫びを申し上げ、初めの意志をそのままに、直さずにしておくことにしたのです。 ご不便をお詫び申し上げます。 この本はどこまでも日本の海軍軍人の優秀さを身をもって知らされた一イギリス人の手記としてみていただきたいのです。みるものにより感じ方も違ってきます。うわべしかみていないところも多くあります。その点を頭に入れておいてください。 この本を訳すのに、私が頭をひねったのは名詞でした。確かな発音でした。まず始めの江田島でつっかえてしまったのです。一般人はこれをかならずエダジマと発音します。誰かと話している時できるだけこの語を言うように仕向けたのです。みんなエダシマでした。地図も百科事典もエダシマでした。また、みやまとざんのミヤマ、これが本によるとミヤマとあり、ミセンとあり、オヤマともあり、本の上で調べぬいて私はミヤマとしました。 大尉、大佐、これは海軍ではかならずにごってダイイ、ダイサと言う。これは前に聞いていましたので、その通りに書きました。しかし、前の読み方を確かめるためにも、何かこの本の参考にも、私にはいとこにあたる海兵でのまだ若い士官にぜひとも会いたいと思っていました。 ところが三週間ばかり前、内地にいなかったはずの彼がひょっこりたずねてみえ、釣る瓶打ちに、聞き質すことができました。江田島は海兵ではにごらずエタシマと言うそうです。ミヤマではなくミセントザンと言うのだそうです。 著者のいっている如く、昭和13年にはたったひとりいたイギリス人教師は引き揚げてしまい、これがおわりだったということです。他の疑問も全部解けました。安心して、皆様にお送りすることができます。 少しでも喜んでいただけたら本当にうれしいと思います。 鴛淵佐智子 (なお、やや厚すぎる嫌いはありますが、読者の便宜のため中編、後編をまとめて後編としました。お許しを。図書館) 〔引用、終わり〕 [#50ページ] 4.点字への熱い思い~表記検討とその普及 1929年春、本間は13歳にしてようやく正規の学校教育を受けることになり、母方の叔父一家が暮らす地にある函館盲啞院に入学する。初めてこの盲学校を訪ねたのは同年5月15日であるが、本間は著書『指と耳で読む』の中で、この日のことは忘れることができないと記す。それは、本間を点字図書館事業に導くことになる「点字」に初めて触れる日になったからであり、このときのことを本間は次のように思い起こしている。 「その院長は、すぐ私に1冊の大きな本を手渡してくれました。5月9日付の『点字毎日新聞』でした。これが、その後50余年、1日も欠かすことができずにいる「点字」というものに私の指が触れた最初、点字との出会いの瞬間でありました。指先をふれてみると、ザラザラしています。これが読める文字なのだろうか、というのが、触れた瞬間の私の思いでした。」(『指と耳で読む』 20頁) 本間にとって点字の出会いと習得は、初めて人手を借りずに読み書きできる「自由」の獲得であり、それは、何にも例えようのない喜びであった。故に、記念すべき『点字毎日』の1929年5月9日号はその後、大事に持っていたが、戦災で焼失したと言う。本間の点字への敬いと、習得した喜びの大きさを物語る一こまである。 学生時代の本間は、点字の読み書きをいかに速くできるかに関心があったと見える。「本間ノート」の1冊には、「瀬尾式略字」や「沢田式普通語略字」と題し、その一覧を示したページがある。これらは、英語の点字には略字や縮字があって書き取りや読みの時間短縮をしていることを受け、日本語にもこれを導入しようとして、当時の視覚障害者が試作したものを書き取ったと推測される。とはいえ、本間がこの略字を用いて記したページは、他の「本間ノート」を含め、一箇所も見当たらない。 点字図書館事業を始めて以降の本間は、一点字使用者から、点字人口を広める普及者の役割を担うことになるが、その対象は読者となる視覚障害者だけではなく、蔵書の制作に協力する点訳奉仕者も含まれた。 後藤静香の提案による「心の家」での点字講習会は、1940年11月3日の第1回目からしばらくの間、表記法を解説したものはなく、資料は1枚の点字一覧表のみであった。このため、表記法の解説は口頭で行なったと思われる。このころ、表記法については、東京盲学校による「日本訓盲點字」や近畿盲教育研究会の規則等があって統一がなされていなかった。こうしたことから、全国に読者をもつ立場として本間自身、点字の表記に少なからず関心があったとみえる。「本間ノート」の「日本盲人図書館日誌」1941年2月23日の欄には、次のような記載がある。 (前略)午後、第1回の点字研修会を開く。集まる者、佐藤、赤沢、肥後、水谷、山本(サダオ)それに稲枝京子さん、僕と7名で、過日、大野さんからもらった「点字規則」の検討をなし、今日は表記法につき大いに議論し合い実に愉快であった。(後略) いわゆる勉強会の開催である。出席者の名前を見ると、視覚障害当事者、点字出版関係者が参集しているが、そこに点訳者になってまだ2か月に過ぎないながらも、図書館に最初の点訳書を納めた若い女性・稲枝京子氏の名があるのは、本間の点訳者への思い入れが覗かれ興味深い。記載は「第1回」となっているが、「本間ノート」には2回目以降についての記録は全く見られず、会を重ねたかどうかは不透明である。 一方、「心の家」で行なわれる講習会等で用いる点訳者のためのテキストの編集も求められた。これに当たるものとして本間は『點譯の栞』を発行しているが、それは1942年7月で、活版印刷、本文23ページ、非売品とした。その構成について、河井久美子は『点字とあゆんだ70年―日本点字図書館点訳奉仕活動の記録―』(日本点字図書館、2010年)で、近畿盲教育研究会が1940年10月に発表した「點字規則」と重複する箇所が多く、点訳例も同じ語例や文例があることから見て、これを参考にした部分もあったのではないかと推察している。 このほか、点字表記に関連する事柄として「日本盲人図書館日誌」1941年4月15日火曜日には、「村松キミ子さんを通してもらったカナモジカイ入会なり、今日パンフレットなど届いた。」の一文がみられる。 カナモジカイは、1920年11月に仮名文字協会として設立され、1923年にカナモジカイに改称。1938年9月に財団法人となった。協会の創立から40年は、国語国字改革が盛り上がった期間と重なり、会活動は活発で、政府への建議、講演会、調査研究、新しい表記の実験および実践などによって、国語改革に役割を果たした。日本の点字考案者・石川倉次も属しており、会員数は最も多いとき、1万人を超えた。カナモジカイの活動は点字表記と通ずるところがあり、本間も少なからぬ関心があったと推測されるが、これも果たして入会したかどうか、その後の記録は見当たらない。 視覚障害当事者への点字普及活動としては、点字競技会の開催が挙げられる。「本間ノート」の「日本盲人図書館日誌」1941年11月16日の項を見ると、この日午後、本間は東京盲人会館講堂を借りて日本盲人図書館開館1周年記念会を催している。会の前半は式典で、本間の挨拶、後藤静香の点字普及の趣旨に対する話、後藤巌之助の祝辞、当事者数名による利用についての感想発表等が行なわれ、後半は点字競技会が実施された。点字競技会の種目は三つで、本間は「読み方」「書き取り」「書き方」と記しているが、所謂「速読み」「聞き書き」「写し書き」である。このうち、速読みと写し書きは一定の時間内で速さを競うのではなく、課題を達成するまでのタイムを争う方式で、今日とは異なる。それぞれ3位までを表彰し、1等には点字用紙300枚、2等には同150枚、3等には『臣民の道』1冊を贈っている。点字用紙を賞品にすることからしても、点字に拘っているようで、ここにも本間の普及への思いを見ることができる。ただ、この競技会は翌年以降も続けられたのか「本間ノート」からはその記録をみることはできない。 [#53ページ] 第4章 蔵書を守って事業を継続~疎開と戦後の再建 [#54ページ] 1.点字図書の疎開と貸出し 昭和19年に入り、点訳者が心をこめて製作した点字図書を、空襲から守り通さねばならない状況になった。東京はいつ敵の攻撃にあうかわからない情勢になってきた、新館が落成して間もないが、安全な場所を求めて疎開することを決意した。 記録によると浅草今戸の蓮窓寺の住職、安藤良甫氏の好意で茨城県結城郡総上村にある、三月寺を借りることができた。昭和19年3月31日、点字図書2,300冊、書棚5本、それに家財道具等一切を、ようやく手配したトラック2台に載せて茨城県へ疎開させた。疎開先で点字図書の発送は、その村の有力者望月勝馬氏が、隣村にある宗道郵便局まで毎日リヤカーで運ぶことを引き受けてくれることになった。忙しいときには、本間自らリヤカーを引き、夫人がそばについて梶をとって運び続けた。本の貸出しは増えるが、郵送袋を作る布が無く、読者一人一人に袋を作ってもらうことでこの窮状を乗り越えた。緊迫した状況の中でも点訳者たちは、泉鏡花の『照葉狂言』、永井荷風『すみだ川』などを点訳し、戦時色濃厚な殺伐たる中で、本間はこれらの本を夜を徹して読みふけり深く感動しながら貸出しを続けた。「あの大戦のさなか、自分の生きることだけで精一杯であった時代、このような人々が存在していたことを知る人は少ないでしょうが、私は日本人の誇りをこめてこれを証としておきたいと思います」と記している。 総上村での事業は、こうして1年続いた。この年の貸出数は、11,865冊、本間夫妻だけで貸出した数字としては決して少ないものではなかった。 昭和20年3月10日、東京大空襲で下町一帯は焦土と化し、浅草今戸の蓮窓寺も焼失、住職家族も茨城県の三月寺に逃れてきた。事業を続けていくために、本間の生家のある北海道増毛町に再疎開することになった。20年4月初め3,000冊近くの点字図書ともに、汽車から船、船から汽車と最悪の交通事情の中、郷里へと疎開した。本間が函館盲啞院に入学し郷里を出てからちょうど16年が経っていた。 郷里では温かく迎えられ、今まで張りつめていたものが一時にゆるんだかのように、しばらくは何も手につかず、ただ呆然としている日が続いた。そんな時、5月26日の午後、東京の加藤善徳から電報が届いた。「図書館全焼、一物も残さず」4月13日の空襲で、すでに住居は焼失し高田馬場の建物は、すべて灰になってしまったのであった。 8月15日、終戦を迎えた。本間は「これで戦争は終わった、助かった、という安堵感と、灯火管制から解放されたという喜びがあった。」それからも2年5か月にわたって、増毛から全国の読者に向けて、点字図書の貸出しを続けたのである。 増毛でも夫婦でリヤカーを引き、郵便局に届ける日々であった。21年5月、長男が誕生し今里リイさんという人に手伝ってもらうことになった。その今里さんの孫の荒谷キクさんが郵便局に勤務していた。日々運び込まれる点字図書を見て、本間に点訳奉仕を申し出た。勤めが終わってから、点字を学び石川啄木の『一握の砂』を点訳し、増毛町の唯一の点訳奉仕者になった。 この頃は、東京から5日に1冊の割で、途切れなく点訳書が送られてきていた。 宇野幸子さんが、防空壕の中でロウソクの光のもとで点訳し続けたという『カラマーゾフの兄弟』全20冊、相川七郎さんが、カリエスの病床で点訳した『風と共に去りぬ』全24冊などの長篇は、本間にとって言葉ではいい表わせない感謝と、事業継続の大きな励みとなった。 一番困ったことは、点字用紙の調達であった。どんなによい点訳者がいても、紙がなくては点字図書が作れない。ある時は、船が撃沈され2年余りも海底にあった湿り気のある紙を買い、またある時は、戦争が終わって使えなくなった大東亜共栄圏地図を使ったりもした。この時期、本間自身も、岸田国士『力としての文化』、箕作元八『西洋史講話』などを点訳した。 北海道時代の図書の貸出し数は、20年2,534冊、21年2,937冊、22年には、蔵書3,027冊、利用者約400人、貸出し冊数4,821冊と増加した。 昭和18年末の2,300冊から22年末の3,027冊へと蔵書数が増加しているのをみると、この4年間に約700冊の点訳書が寄贈されたとみられる。戦中・戦後の混乱期に、これだけの点訳書が奉仕者によって作られたということは、まさに驚異の一語に尽きる。 こうして事業は続けられ、郷里という温かい環境にあって、生活にはさほどの不自由はなかったものの、本間の心は満たされたものではなかった。郷里といっても親しい友人はいなかったし、さらに関西学院大学の友人たちは、高尾正徳氏が県会議員になり、瀬尾真澄氏が大分ライトハウスを建設、下澤仁氏が盲学校の教壇に立つなど、それぞれに活躍していた。このような時に、ヘレン・ケラー女史が来日するという朗報が入ったのである。「このチャンスを逸しては、いつの日に上京が叶えられよう、なんとしても東京へ帰らなければならない」本間は上京を決意したのである。高田馬場の焼跡に15坪の木造住宅を再建し、その完成が待ちきれず、1月単身で上京、図書館再開の準備にあたった。昭和23年3月半ば、建物の完成とともに家族を呼び、北海道から東京へ図書館業務をすべて移し、ここに東京での再開を果したのである。 「日本点字図書館」と改称して再出発 図書館業務の再開に際して本間は二つのことを決定した。 一つは、名称を「日本盲人図書館」から「日本点字図書館」に改めた。過去8年間に及ぶ活動によって、点字とは盲人の使用する文字であることが、かなり社会に浸透・普及した、と考えられたためである。 二つは、会費制度を導入したことであった。 これまで図書の貸出しは無料であった。しかし、財政的な基盤をつくるためには、どうしても会費制度が必要であった。読者に年額200円を負担してもらうことにした。この会費制度は、昭和30年、厚生省の業務委託を受けるまで、7年間続けられた。 図書館の再建にあたって点訳活動については、後藤静香氏によって点訳奉仕団が、井上当蔵氏によって点字奉公会が再発足されることになった。昭和23年9月6日、朝のNHK番組「私たちの言葉」で、本間の書いた「点訳奉仕を世に訴える」の一文が放送された。これが図書館のあげた、戦後の第一声であった。 この日の午後、ヘレン・ケラー女史が神田の共立講堂に立たれ、この放送はまことに絶妙のタイミングであったといえる。 10月17日、NHKの「市民の時間」でも取り上げられ、また、22日の毎日新聞にも、大きなスペースをさいて報道された。これらのマスコミの反響は大きく、全国から手紙での申し込み相次ぎ、直接図書館を訪れる人も増えた。 『日本点字図書館50年史』から [#57ページ] 2.荒谷キクさんインタビュー~増毛に生まれた唯一の点訳者 戦火が激しさを増す中の1945年4月初旬、本間は約3,000冊の点字図書を持って生まれ故郷の北海道増毛へ疎開する。増毛での図書館事業は、1948年3月に東京での再出発を果たすまでの3年近く続けられた。本間の著書『指と耳で読む』の増毛での疎開について触れた項には、「後にも先にも、私の郷里増毛に生まれたたった一人の点訳奉仕者」として荒谷キクさんが紹介されている。 荒谷キクさんは1925年10月に増毛で生まれた。以来、この町を離れることなく増毛の四季と町の移り変わりを見ている。本間が疎開してきたとき、荒谷さんは郵便局に勤めていて、点字図書の郵送現場に関わっていた。そのことと、戦後の思想や価値観の一変がきっかけで点訳者を志願し、本間との交流が生まれる。家庭の都合で点訳を止めて以降も本間との交流は続いた。 筆者らは2013年8月26日、調査の一環で増毛へ出向いた折、國稀酒造(本間の生家)近くの荒谷さん宅を訪ね、約2時間にわたり疎開地増毛での日本盲人図書館の活動の様子、本間一夫の人となりや思い出等について伺った。文中にある「丸一」とは、本間の実家である商家の屋号である。 増毛では存在感の薄かった図書館 聞き手 点字図書館が増毛へ疎開して来るとのことで、町で話題などになりましたか? 荒谷 増毛の人はそんなのに全然関心ないですね。あそこに古い方たちが行くんですよ、町長さんになった人とかね、なんかそういう関係の方々が丸一さんへ行くんですよ。そしたら、先生がいらっしゃるとかなんとか話をするんですけど。普通の人たちはね、何が何だかさっぱりわからないですよ。丸一さんに目の悪い方がいらっしゃるですということだけですね。 聞き手 図書館はどこにあったんですか? 荒谷 旧本間家の、今空き地がありますでしょう。あの空き地に事務所があったんですよ、丸一さんの。その2階に先生の図書館があったんです。下のほうが丸一さんそのものの事務所になりましてね。本なんかも2階に置いていました。3,000冊、びっちりでしたから。医学の本とか音楽の本とかみんなって言っていましたよ。狭い事務所ですから、歩くのがちょっと、ぎゅっぎゅうっと、両方に本棚があってびっちり詰めてました。 聞き手 当時、事務所に日本盲人図書館の看板はありましたか? 荒谷 いや、なかったです。外から見たら普通の事務所でしたね。 聞き手 図書館の仕事をお手伝いされる方は何人かいたんですか? 荒谷 いないです。そこに元料理屋のおかみさんで今里リイさんていう私のおばあちゃんがお手伝いに行っていたんですよ。私も事務所に頼まれたんですよ、1回。だけど、うちの母ってのがどうもそういう仕事をね、するのをいやがるんですよ。だから行かなかったんです。 聞き手 全国から本が返ってくるのは、郵便屋さんがそのまま丸一さんへ届けるんですね。 荒谷 そうです。それをうちのリイさんが解いて先生に渡すんです。そして先生が次の入れてやるものはこうだって、またリイさんに頼むんで、紐で縛るのはリイさんです。ほとんど先生が一人でやってたんですね。 聞き手 当時、点字の本は1日にどれくらい全国へ送られていたんでしょう? 荒谷 1日にだいたい15くらいと思っていましたね。何十もって出ていなかったですね。 聞き手 点字の本に対する当時の郵便局の理解は? 荒谷 わりとみんな淡々と受け取るんですよ、そういうものは。それに対して、これは真心のこもったものだ、そういう気持ちはないでなかったでしょうかと思うんです。 聞き手 点訳されたものが送って来られると思いますが、製本はされたんですか? 荒谷 製本は先生やってましたよ。事務所で糸通してなんかやってました。 聞き手 本間先生の奥さんはどんなことをしてたんですか? 荒谷 奥さんは炊事ですよ、子どもの世話とか。でも、このお仕事っていうのは奥さんがお手伝いしなくちゃあならないですね。喜代子さんが本当に大変だと思いましたね。住まいは酒屋さんところにあって、二部屋使っていたんじゃないでしょうか。今の店の陳列しているところ、あの部屋ともうひとつ、茶の間かなんかなっていて。一明さん(本間の長男)が生まれたときに、先生ね、目が見えるかってずいぶん心配してたんですよ。うちのリイさんがね、「今日ね、先生が一明の目がね、見えるんだって、すごく喜んでられた」って、家帰って私に言ったことありました。よかったねえって。 聞き手 本間先生が増毛に疎開していたときの写真はありますか? 荒谷 先生と記念に写したのが1枚あったんですが。なんか一度テレビに出たことがありましたね、先生が。あのときに一番最初にその写真が出ました。先生と私とリイさんとね、よしお君。よしお君て、酒屋さんの奉公に来てた方いるんですよ。それから、あそこの丸一さんの令子さん、あの方と写したんですよ。図書館のあった事務所の2階で。 写真 荒谷キクさん 〔写真、終わり〕 写真 荒谷さんが点訳を始めるにあたり、本間は物資が不足する中で自らが使用していた点字盤を譲ったと言う。写真はその点字盤である。荒谷さんは、点訳者を引退された後も大切にこの点字盤を保管されており、筆者らの訪問時に返却された。点字盤は現在、日本点字図書館の本間記念室で保存されている 〔写真、終わり〕 漢字の読みを丸一上げて相談 聞き手 荒谷さんは、どういったきっかけで点訳を始めることになったんですか? 荒谷 私、郵便局に入っていたんですよ。あのころは戦時中でね、戦時中から今度戦後になりましたら、ごたごた、なんせ世相が変わってきましてね、こんなことしていられないってね、自分でも何か一つみなさんのお役にたたなくちゃあならないと思って考えていたんですよ。そのときにちょうど先生が毎日ね、点訳の本を入れてリヤカーで郵便局に出しに来るんですよ。本を持って来るのは、先生と奥さんがいらっしゃいましたね。よしお君も来ました。そのときに私がそれを受け取る役なんですよ。私、窓口におりましたんで。窓口もわりとちっちゃいんですよ。ですから1冊ずつ入るくらいなんですよね。先生が出してくださるのを私が受け取って荷台へ持っていくわけ。それからご挨拶できるようになりましてね。やっぱりこういう仕事はご立派だなあと思って考えました。いくつまでできるかわかんないんですけど、自分で一人でできる仕事ですからね。 聞き手 点字はどのようにして学習されたのですか? 荒谷 あのころは冊子がありました、手引きの。あれをいただきましたね。1週間打ってアイウエオを全部覚えてくるようにって言われまして。それで書いて行きました、1週間で。書くのと読むのが違いますでしょう、だから大変、同じような字が出てくるんですよ。少し戸惑いましてね。夜も、天井に1・2・3・4・5・6って置くんですよ、で、「ア」が1だとか、「イ」が1・2ってやるんですよ。(笑)点訳を始めたのは、点字を習い始めて早かったんでないでしょうか。一番最初、何か書いてくださいって。何しようかなあって、石川啄木の『一握の砂』がまだ入ってないから、それにしましょうかってことだったんです。昭和20年のことですね。私が二十歳ですね。『一握の砂』は、普通の詩と違って、31文字なんですから、そのときの心でね、2段目に落とすかということがあるんですよね。それが難しかったですね。作ったときの気持ちを考えながら、それを下に落とすか、上に続けるか考えましたね、自分ながら。 聞き手 荒谷さんはその後、どんな本を点訳されたんですか。 荒谷 菊池寛の『父帰る』とか、それからとんでもないのがあったんですよ。『主婦の友』なんか読んでましたらね、竹内てるよという人が出てきたんですよ。その方がね、自分は子どもさん一人置いて結核で出されちゃったんだね、お嫁入り先を。それで病院へ入りながらも子ども捜してたんですね。そういう手記のような小説を書いたんですね。それが『主婦の友』に連載で6回か7回出たんですかね。それで私も何か感動しちゃってね、点訳してたんですよ。これ出してやろうと思って。そしたら毎月毎月出てくるわけですよ、それが。今度はね、主婦の友社に手紙を書いて、これ何か月続くんですかって聞いたんです。私も毎月毎月気になったんですよ。どれくらいなるのかわからないから。そしたら6回か7回続いたんですね。てるよさんにも手紙を書いて、私あなたのを点字打ってますと、やったんですよ。したら喜んでたんです。原本いただくとね、まず一度読むんですよ。わかんない字は全部チェックしといてね。先生、この字わかんないんですって、目の見えない方に聞くんです(笑)。したらね、先生が前はどんな字なの、次はなんて字なのって、何偏なのって聞くんです。それで先生がね、それは、こうでないかと思うけど、まず聞いて来るはって、泰一さんていう町長になった方(本間の従兄弟)、丸一さんで相談ですよ(笑)、字を巡って。私なんていっつもそうだったですね。間違われないから、私も必死でやったんです(笑)。だれも友だちもいないし、私だけでしょ、だから。 聞き手 当時は、点訳したら本間先生が校正して、間違えているところの修正のお願いもあったのですか。 荒谷 はい、戻ってきました。何ページのどこというように印があって。点字のマスあけも難しくて。第一にマスあけでした。 聞き手 荒谷さんは、点訳を始める前から文学書などをよく読んでおられたのですか。 荒谷 いえいえ、ぜんぜん読んでいないです。点訳をするようになって、こういう本もたくさんあるんだなあと思いましてね。びっくりしました、無学さに。私高等2年しか出てないんですよ。女学校ができたんですね、卒業するとき。無試験で入れたんですけどね、何だってね資金がないもんですから……。学校行けないんですよ。とうとう入れなかったですけどね。夜学でも入っとけばよかったかなと思って、考えてました。 聞き手 点訳されていた期間はどのくらいですか? 荒谷 結婚しましてから昭和30年過ぎには点訳できなくなりました。なんだか忙しくなりましてね、全然できなくなったんです。何せ私お嫁に来たら、たくさんの人がいて、ご飯仕度8人分くらいして、その連続でしたからね。ご飯仕度ばっかりしていたような気がしちゃって。仕事しながらやってると、いくらもできないですね。35、6歳で止めましたでしょうかね。 増毛唯一の点訳者──ぼた餅とゆでたまご 聞き手 荒谷さんは増毛での点訳者1号ですから、本間先生にとっては誇らしかったと思います。 荒谷 はい、喜んでくださいました。先生は、増毛には点訳者新しく出ないと思ったんですって。ピョコンと私が出たもんですからね、先生、本当に喜んでくださいました。ですから私が若いころ、娘が京都にいるんですけど、京都へ行って、その帰りに東京でお訪ねすると喜んでくださいましたね。京都の「おたべ」を持って行ったりして。 聞き手 本間先生が増毛へ帰省されたときはお会いになっていましたか? 荒谷 函館とか札幌に講演にいらっしゃるんですね、先生が。そのときにはいつも電話くださるんです。札幌に今来てるから増毛に寄りますっていうことを。先生「増毛に来たら必ずねえ、キクちゃんの声聞かなくちゃあ帰られない」(笑)ておっしゃっていたんです。いつも声聞いて、丸一さんに行ってお会いしたんですよね。ちょうどさくらんぼの季節でしたね。いらしたんですよ。私、さくらんぼ買って先生の御土産だって持って行ったら、ちょうど先生もどこかさくらんぼ屋さん行ってたんです(笑)。買って置いて来たんですよ。そしたら自分も買って来たもんですからね、いっぱいになったんですって(笑)。で今度は何とかの書類をね、ボストンバッグに入らないからそれを送るようにして、さくらんぼだけ持って帰ったんです(笑)。先生、ぼた餅が好きだったですかね。先生が帰るときに、私がぼた餅と、たまごをゆでてたくさん持って行ったんですよ。そしたらね、持って帰ったんですけどね、ちょうど悪くなる時期だったと思うんですね、なんか腐るからって言われて、食べられなくなっちゃったんですって、ぼた餅も。先生が増毛にいらしたときに、ちいちゃいときの思い出でね、夕日の沈むとこだとかを感じてたんですね。5歳ですからね、わかりますよね、海見てもね。一人で海へ行って昔を偲んだって話しておられました。その海がすぐそこなんですよ。ああ、だから先生、この辺でちいちゃいときのことを思い出してたのかなあと感じました。でも今、護岸され、何かその懐かしい潮騒の音とか面影がないですものね。 点訳は心の宝 荒谷 先生のお別れの会(2003年9月)、感動しましたね、本当にね。私ね、朝5時に出たんですよ、留萌を。5時に乗ったら早く着くんです、東京に。娘が空港まで迎えに来てくれましてね、そして行ったんです。帰りもね、一汽車早く乗れましたね。日帰りで来たんです。みんなびっくりしたんですから、荒谷さん、東京なんて行ったってね一晩泊まりだわって。いやね、何とか時間やっていったら早く着きそうだし、帰りもできるんだと思って、まあ行ってみようかってことでね、行ったんですよね。帰ってきたときはまだ暗くなかったですよ。先生は、すごい記憶力の良い方ですもんね。ほんとに、よく入ってるもんだと思います。何言ってもピッ、何言ってもピッと。字引みたいでね、すごかったですね。先生にいろいろと勉強させていただいてありがたいと思っています。今本当に。こういう勉強できなかったですもんね。考えて見て私、無学もいいもんだなと思いました。ぜんぜん気どらなくて、先生にプッとぶつけていって、何ともなれるんですよ(笑)。そのおかげでね今、俳句とか短歌ね、新聞に掲載させていただいてんです。『一握の砂』がやっぱり、なんか私に対しては宝物だったです。この点字のおかげですごい楽しい人生でした。今まで何とか、心の支えになって。 [#62ページ] 3.帰館した点字本を含む諸資料 昭和15年(1940)年11月10日に開館した「日本盲人図書館」は、本間一夫の想いを具現した点字図書の貸出事業を展開し、読者の手元に点字本を送り続けてきた。戦時下、疎開先で続けられた日本盲人図書館の活動は、点訳奉仕運動に支えられて発展を遂げた。 〈昭和18年3月9日付の朝日新聞は、「盲人の点字図書館生る、戦傷勇士に希望の光」というタイトルで、大日本点訳奉仕団(団長・後藤静香)の誕生と活動を、五段抜きの大記事で報道し、次いで20日には、毎日新聞が、「高き文化の点字本」という見出しで、井上英会話スクール校長井上当蔵夫妻の発起で失明兵士に点字本をおくる「点字奉公会」が結成されたことを報じ、点訳を勉強してくれる人は有楽町の同校で開かれている点訳講習会に出席して欲しい」と訴えてくれました〉(『指と耳で読む』63頁) この二大潮流といえる点訳奉仕運動は、日本盲人図書館の蔵書を増やしていく原動力となった。蔵書を守るために疎開した本間のもとには、奉仕者から次々と点訳書が届けられた。本間と点訳者と読者の三位一体を現した点訳本は、「本」という文化と「点字」の文化を結びつけようとした本間の意志を現した「遺産」ともいえる。この点字文化の遺産が帰館した意義は大きい。 今般、本間がどのように盲人図書館事業を展開していたのか、その史実を知ることのできる貴重な資料も明らかになった。本間は、開設前はもとより、開設後の詳細な業務日誌を記していた。立花が探求した「本間ノート」は極めて重要な資料である。どのように日本盲人図書館は創られたのか、その過程を時系列に把握することができ、館長の動静をつぶさに読み取ることができることがわかった。この「本間ノート」があれば、帰館した蔵書カードや点訳本、また点訳奉仕者リストに記録されている蔵書動向などを時系列に照らし合わせることができる。貸出事業の実態にまた一歩迫ることができるのである。 さらに、本間と点訳者と読者をつなぐ証が奥村文庫に保管されている。当事者に届けられた読者宛『図書館ニュース』と、点訳奉仕者宛『点訳通信』も、本間の遺志を伝えた貴重な資料である。『点訳通信』の原本は保存管理が必要である。幸い、フロッピーに収められていた記録を奥村文庫でデータ出力できるようになった。戦後、再開した日本点字図書館の再建の様子が読み取れる貴重な資料である。 昭和19年7月に第1報を発行し、3回を重ねただけで中止されていた『点訳通信』は、終戦後4度目の新年(昭和24年1月)に点訳奉仕者に宛てて第4報が発行された。日本点字図書館に名称を変更し、活動を再開した当時の様子が克明に記されている。「・・・この通信の復活に当り是非とも申し上げねばならないことは、空襲前からの奉仕者中20余名の方がずっとたゆみなく奉仕を続けて居られるといふことです。しかしこの方々は殆ど例外なく戦災の厄に会って居られることを思へばまことに云ひつくされない感謝でございます。」と、述べている。またケラー女史と一緒に来日したストファー博士が10月末図書館を訪問されたことや、アメリカの点字雑誌マチルダジグラー社とジョンミルトン教会から良質の点字用紙が時々寄贈されていることが報告されている。同年10月に発行された『点訳通信』第7報には、昭和23年9月に点訳奉仕運動が再出発してから1年過ぎたことに触れ、この間に前年比5倍の大飛躍で発展する様子を記している。 〈私どもの夢見る1千冊の目標は、わづか1年で早くも3分の1が実現されたわけであります。今日の世相の中で、こんなにもたくさんの貴重な点字書が、しかもまったくの奉仕で本館に贈られるといふことは、何といふ感激でありませう。読者との連絡紙『点字ニュース』を通してこの事実を全国津々浦々の、盲人読者の感激と喜びはたとへやうもありません。固くとざされた盲人の心の窓は、今皆様の温かい愛の手によって、一つ一つ開かれてまいります。私共は全国の読者と共に、心からのお礼を申し上げ、今後一層のご協力をお願い申し上げます。本間一夫〉 本間は、この『点訳通信』第7号に、これまで3か月に1回発行してきた『点訳通信』を昭和25年1月から1か月おきに発行することを伝えている。昭和25年1月発行の『点訳通信』第8号には、800人の読者のために1か月おきに発行している点字印刷物『点字ニュース』の昭和24年9月誌上で、読書傾向調査を実施した結果について詳しく記されていた。調査は図書の部門を30に分けて列記し、「この中から各自三種だけ読みたいものを挙げてほしい」というものだ。集計の結果、回答者319名の第一希望の最も多かったのは「戦後以後の小説」、次いで「翻訳小説」となっている。本間は、〈この統計から私どもはいろいろな示唆を与へられました。併し皆様が図書を選ぶ場合、必ずしも之にのみ捕はれる必要はないと思ひます。例へば終戦後の小説といっても、点訳書は長く残るものですから、時代の変遷に堪へる名作をお選びください。直接書名を挙げるといふ調査もしましたが、之にはラジオで扱った文学作品が圧倒的で、盲人の選択の狭さを感じました。また「今の点訳書には文学的名作は多いが、もっと学問的思想的なものが欲しい」、或は「盲字にとってハンデキャップなしの音楽を、もっと勉強させていただきたい」といふような声もありましたが、之らは適切な希望として図書館からも皆様に御配慮をお願いいたします。・・・〉と述べている。本間が点訳奉仕者と一体となって、読者のために貸出事業を展開していた様子が読み取れる貴重な記録である。 奇しくも戦後70年の本年に、戦時下、疎開先で続けられた日本盲人図書館の活動と点訳奉仕運動の証となる諸資料を探求した結果を報告できることは感慨深い。今後、日本点字図書館の草創期の史実はますます明らかになるだろう。本間記念室は、帰館した諸資料と新たに館内で発見された諸資料に照らして探求する道が開け、ようやく研究のスタートラインに立つことができたのである。世界に1つだけの貴重な資料の保存保管のあり方を検討する作業も直近の課題である。エンジンを全開にして飛躍する時を迎えた喜びは大きい。 [#65ページ] 第5章 日本盲人図書館の先行研究 [#66ページ] 「日本盲人図書館」を読む 1 雑誌および新聞の掲載記事 ・「日本盲人図書館-建築資金を募る-」(『図書館雑誌』第37年第2号76頁) 1943.2 日本図書館協会発行 ・「日本盲人図書館の新館落成」(『図書館雑誌』第37年第7号489頁) 1943.7 日本図書館協会発行 ・昭和十一年度入学者氏名(関西学院新聞1936.4.20) ・学園友情物語 眼となり杖となり 盲目の学友を扶けて蛍雪三年 共に巣立つ“関西学院の花”(大阪毎日新聞1939.3.1) 写真:新聞記事 〔写真、終わり〕 ・光明の盲人図書館 一盲青年が信念の設立(中外商業新報1941.6.13) 写真:新聞記事 〔写真、終わり〕 ・街路燈(読売新聞1942.12.17) 写真:新聞記事 〔写真、終わり〕 ・盲人の尊き勤労に 点字図書館生る 戦傷勇士に希望の光 (朝日新聞1943.3.9) ・高き文化の点字本 同志を募り続々出版(毎日新聞1943.3.20) ・“盲人文化戦” に必勝の意気(朝日新聞1943.4.16) ・戦盲勇士に心の糧 点字図書館近く竣工(毎日新聞1943.4.8) 写真:新聞記事 〔写真、終わり〕 ・帝都の盲人図書館新装なる(毎日新聞1943.7.13) ・盲人図書館 十萬人に光明の開館(読売新聞1943.7.19) ・初の盲人図書館けふ竣工式(東京新聞1943.7.19) ・失明者に光明 我国最初の「盲人図書館」開設(日本読書新聞1943.7.24) 写真:新聞記事 〔写真、終わり〕 2 本間一夫の著述 *印の資料は、巻末資料に再掲しました。 *・「開館にあたりて」(『図書館ニュース』創刊号)[点字] 1940.11.10 *・「『日本盲人図書館』に就いて」(『図書館雑誌』第35年第10号) 1941.10 日本図書館協会発行 *・『日本盲人図書館開設一週年』 1941.11 ・「時局下盲青年に告ぐ」(『点字倶楽部』第90号)[点字] 1942.2 陽光会発行 ・「日本盲人図書館」(『厚生事業』1942.9月号) 1942.9 東京府社会事業協会発行 ・「盲人図書館建設への御協力」 1942.[10] ・「日本盲人図書館だより」第1信 1943.7 ・「日本盲人図書館概要」 1943 ・「感謝録−日本盲人図書館落成報告」1943.12 ・「日本盲人図書館だより」第2信 1944.4 *・『点訳通信』第一報 1944.7 ・「日本盲人図書館だより」第3信 1944.8 *・『点訳通信』第二報 1944.9 *・『点訳通信』第三報 1944.11 ・「日本盲人図書館概要」昭和十九年版 1944 [#71ページ] 巻末資料 [#72ページ] 1. 日本盲人図書館の活動を示すもの 1 『図書館ニュース創刊号』(昭和15年11月10日発行、原文は点字) 図書館ニュース創刊号 目次 *開館にあたりて 本間一夫  1 日本盲人図書館開館に際して 岩橋武夫  4 日本盲人図書館の誕生 齋藤百合  5 日本盲人図書館開館に期待す 中村京太郎  12 本間君を紹介す 佐藤在寛  16 点字図書館開設の意義 佐藤勇  20 報告三つ  24 編集後記  25 貸出し規定 1.本館の図書を始めて借り受けようとする方は、氏名、住所、年齢、男女別、職業の5項目を明記の上、まず本館発行の図書借り出し券をお申し込みください。 2.図書貸出しは1人1冊とします。ただし希望図書名はなるべく第1誌より第3誌までお知らせください。 3.図書貸出し期間は1回内地2週間以内、外地3週間以内といたします。ただし事情届けいでによりこれを延期することができます。 4.借り受けた図書を痛めもしくは無くした方には、その修繕補充の費用を負担していただきます。 5.以上の規定に違反する方に対しては、図書貸出しを停止することがあります。 『図書館ニュース 創刊号』目次より 開館にあたりて  本間一夫 私が点字図書館事業を自分のライフワークにと思いたったのは、関西学院入学を志してその準備に忙しかったころのことであります。 爾来数年、遂に確固としてぬくべからざる使命感にまでなってしまいました。別にこれといった霊感的な動機があったわけではありませんが、私たちの世界が読み物にいかに乏しいかということだけは、人一倍痛感してきたつもりです。 殊に私を寂しがらせたのは、何か書き物でもまとめようとして友人と普通図書館へ出かけるときでした。 眼さえよかったら、ほとんど無料で読まれる本がこんなにもあるのに、というそのいらだたしさは、われわれ盲人の世界にも、ぜひこうした機関を設立しなければという固い固い決心ともなったのであります。 そしてこのことは、「権利において、義務において、晴盲二つの世界があくまでも公平でなければならぬ」という私の持つ盲界社会事業理念の現れともいい得るのであります。ともあれ、今日わが国の一般盲人、特に男女盲青年が、いかに有益新鮮な読み物を求めつつあるかということは、最近の点字雑誌界の勃興にみても明らかであると思います。 さて、今日の盲人事業は、多く関西が関東に一歩を先んじているかにみられます。将来においても暫くはこの態勢が続くかもしれません。しかしながら、文化事業の一である図書館だけは、わが国文化の源泉地東京にその中心を置くべきであると考えます。この意味において、私はここに「日本盲人図書館」の名のもとに、図書館一本槍を標榜して起ちました。即ち、粉骨砕身、この事業にあたり、これをものにするまでは、断じて他の仕事には手を染めぬという行き方です。国を挙げて新体制樹立の叫ばれるこの非常時局下、斯くすることが、私に許された最も正しいご奉公の道であるとも確信します。 而して、この図書館をこそ、東京の名にふさわしい、否日本の名に恥じぬものたらしむべく、若やかな希望に燃えるのであります。しかしながら、図書館事業の理論なり、実際なりについての研究は、私自身に課せられた今後の課題であり、かつ盲人事業にも経験乏しく、しかも年若い私です。この事業が健全なる成長を遂げるために、先輩、友人はもちろん、広く全盲界のご協力を衷心よりお願いいたします。 そして、皇紀二千六百年、並びに日本点字翻案五十周年の記念すべきときにおけるこの企てを諒とせられ、全国盲人、特に青年諸氏が有効活発にこれを利用せられるよう切望して止みません。 最後に私自身の祈りであり、目標である三つのことを掲げます。 一、5ヵ年計画をもって、図書館の本建築を完成すること。 一、5年を出でずして、蔵書5千冊を突破せしむること。 一、専ら、写本に重点をおき、古今の良書の点訳につとめること。 写真 〔写真、終わり〕 [#74ページ] 2 『日本盲人図書館開設一周年』(昭和16年11月10日発行) 写真:表紙 オリジナルは「開設一週年」と表記されている 〔写真、終わり〕 目次 *開館一周年に際して 本間一夫  1 点字図書館の日本的性格 岩橋武夫  6 点字運動の実際 後藤静香  12 日本盲人図書館の公同性 後藤巌之助  16 日本盲人図書館を語る 佐藤勇  21 *本館事業概況  27 図書館日誌抜録  41 読後感数編  50 読者通信  53 編集後記  62 『日本盲人図書館開設一周年』目次より 開館一周年に際して  本間一夫 私が点字図書館事業を自分一生の仕事として想い立ったのは、関西学院入学を志して其の準備に忙しかった頃のことであります。 特にこれと云った霊感的動機があったわけでもなく、又劇的場面を経験したのでもありません。只盲人の世界が極めて書物に恵まれず読書の不自由を何んなに忍ばねばならぬかと云う事だけは身をもって痛感させられたのであります。 凡そ視覚は所謂五感の中でも最も重要な感覚であります。従ってこれを失う事は人間に与えられた自由の大部分が奪われる事であると同時に、知識の世界に於いても美の世界に於いても非常に大きなハンディキャップを余儀なくされることであります。斯る荒涼寂莫たる盲人の生活に活気あらしめ潤いあらしむるの方法は点字に依る読書を於いて他に見出し得ないのであります。肉眼を失って失意のどん底にある者が指先を持って読む事の出来る点字の存在を知り、且此れを学び得た時の感激、それは人類が経験し得る最高の喜びの一つであると云って過言ではありますまい。今日文字の無い或は、読書する事の無い一般人の世界がぜんぜん考えられないのと同様に、否それ以上に盲人の日常生活と点字に依る読書とは密接不離な関係を持つのであります。 さて此処に最も考慮すべき問題は斯如く盲人に取って必要欠くべからざる点字書が極く少ないと云う事であります。明治二十三年日本点字が完成されてより今日まで点字に改められた書物の種類は高々一千に過ぎない状態であります。併せし其の過半数が盲人大多数の職業に関する鍼按医学書であって、一般成人教育に資するものは非常に少なく、其の定価も普通文字のものの四五倍の高価であり、又物資払底の今日では点字出版其れ自体が一大難関に逢着しつつあるのであります。此処に於いて凡ゆる部門の最も良き点字書を出来るだけ多く収拾保管し此れを手軽に全国盲人に貸出すと云った図書館施設の出現は我が国盲人文化の為愈々其の必要性を加えて来たのであります。 明治の御代以来盲教育の発展は実に目覚ましく、大正十二年八月盲啞教育令の発布あって、盲学校は全国に渡り九十余校を数うるに至りました。又盲人に対する保護事業、出版事業等も小規模乍各地十数ヶ所に上って居ります。然るに点字図書館の世界のみは極めて振わず、僅かに名古屋市立図書館が点字文庫を有し、新潟県柏崎に「新潟点字図書館」が、大阪にライト・ハウス点字図書部がある以外殆んど見るべきもの無き状態でありました。 吾が「日本盲人図書館」がささやかな開館の式を挙行したのは昨年十一月十日紀元二千六百年奉祝式典が行われたその日でありました。時代は決して斯る事業の誕生を安からしむるとは考えられず、又私個人の才能や経験からしても少なからぬ不安はありましたが同じ悩みをみつつある同胞の為聊でもお役に立ちたいと云う止みがたき願いが理解ある先輩友人等の激励を得て遂に此の挙に出でしめたのであります。爾来丁度一ヶ年間、本館の存在は我が国十万盲人の為、暗夜を照らす燈台として熱狂的歓迎を受け全く予期以上の成績を取得する事となったのであります。此の事業を以って吾が使命なりとする私の感激真にこれに過ぐるはありません。 本館は開館に際し図書貸出しを一地方に限るとか、料金を取るとか、或は保証制度を設けると云った一切の制限は此れを取らず盲人の名に於いて申し込む者に対しては直に貸出しを開始するの方針を取ったのであります。此の無料無保証貸出しは従来の此の種事業に其の例を見ざる所謂我が盲界空前の英断でありました。いま一つは今日までの盲人事業家は、凡て盲人に対する各方面の事業を合せ行って居るに反し、私は飽く迄図書館事業のみの完遂を宣言し、所謂図書館一本槍を標榜して立った事であります。以上二つの方針がこれまでに収め得た本館の成績と決して無関係でない事は其の間の事情を知る誰もが認めるところであります。 即ち本館は去る十月二十五日迄に無慮七千になんなんとする点字書を全国盲人に貸出すことが出来ました。蔵書数は初め七百冊、今日尚一千二百余冊に過ぎません。従って開館最初の一ヶ年間にして全蔵書数の実に七倍と云う驚くべき数を動し得たのであります。利用者も十月二十五日現在を以って七百余名の多きに達し、尚日を追って激増の一途を辿りつつあります。然して之等利用者は北は樺太、南は台湾更に朝鮮、関東州と文字通り全国に渡って居ります。以上の事実をもってしても我が国全盲人が、全国を対象とした点字図書館施設の出現を如何に歓迎し且此れが発展を渇望して居るかは明なのであります。更に我々の見逃してならぬのは之等利用者の中に今時事変に於いて御国の為其のかけがえ無き両眼を奪われた勇士が多数混じって居ることであります。斯る名誉ある失明将士の再起奉公をお助けする意味に於いても本館の使命は愈いよ々いよ重きを加えるでありましょう。此処に至って私が常に想い出すのは、蔵書実に二十数万と伝えられるロンドンに於ける「国民盲人図書館」であります。 「盲人事業を最も良く知る者は盲人である」この建前に盲人識者を以って事業運営に当たらしめ、此れを支持するに国家と国民の協力を以ってする彼の組織にして始めて此の大を成し得たのであります。又其の背後に五百余名の貴婦人が数団を成して、点訳其の他美しい奉仕の実を上げて居ると聞きます。現下国際戦場に於いて老獪極まりなき英国にも、特殊教育の世界には斯も完備せる施設の存する事は他山の石とするに足るでありましょう。 今や我が国は、東亜共栄圏確立の聖戦に国力を賭して戦いつつあります。今こそ一億国民が一人の落伍者も無く一体となって大政翼賛の実を上げねばならない時であります。人的資源の不足が頻に叫ばれる折柄から「盲人と云えども其の教育を徹底せしめ国策に協力せしめよう」とは荒木文相のみの抱負であってはならない筈であります。過去一ヶ年間本館は全く個人の経営に依って続けて参りました。併しながら元々私すべき性質の事業でもなく、私する事に依って最早その健な発展が望み得られない事も明白となりつつあります。本館開館一周年を期し此処に此の小冊子を発行し此の愛の事業の上に一般社会人の理解と協力とを仰がんとする所以であります。 本館事業概況 一、前書 本館は昭和十五年十一月十日開館以来、十六年十月二十五日迄の一ヶ年間に於いて、開館日は三百四十四日でありました。閉館日としては本年一月一日より三日迄、及び本館が豊島区より当淀橋区諏訪町に移転した三月十七日より十九日迄合せて六日のみであります。日々来館者は相当の数に上って居りますが多くは参観若しくは図書貸出しの為であり館内にて閲覧する者は極めて少数に過ぎません。従って事業報告は館内のものは一切省き館外貸出及び郵送のもののみに限ることとします。館外貸出しの多い理由は事業が全国を対象としている事、及び盲人は外出に自由を欠く事の二つであります。 二、貸出方法 本館は無料無保証貸出しであり、其の他の点に就いても盲人が最も手軽に読書出来ると云う事を第一目標として居ります。併し購入図書の選択を始め各種の計画を立てる上の必要条件として、初めて利用を申し込む者には氏名、住所、年齢、性別、職業の五項目を明記せしむるよう規定してあります。貸出しは一人一回一冊、期間は内地二週間外地三週間としてあります。其の結果は図書の内容に依り又地方に依り一様ではありませんが、平均内地十一日強外地十七日弱の好成績を示して居ります。又図書の郵送には本館特有の布地カバーを用い其の表面の差込式名札の一面には本館の所を、他の一面には読者の所を記入し、其のカードを裏返すと云う極めて簡単な操作だけで盲人も容易すく図書の返送が出来る仕組になって居ります。尚此処に驚くべき事実は盲人の名に於て申し込む者に対しては何の保証も無く、全国の誰にでも送り出して居るにも拘らず、過去一ヶ年間の貸出し書六千七百五十四冊の中、失われた物は僅に四冊に過ぎないと云う事であります。此の事は読者が本館の事業を如何に重要視し、尊重して居るかと云う事の一つの証明にもなるでありましょう。 三、印刷物 本館は事業運営上必要欠く事の出来ぬ二種の点字印刷物を出しています。一つはB列第五号約六十頁からなる図書目録であります。此れには蔵書名の全部が紹介されてあり、利用者に取っては無くてはならぬものである関係上特に無料を以って希望者に配布し既に一千五百余部を全国に送り出しました。いま一つは同じくB列第五号十頁内外の「図書館ニュース」であります。此れは定期的に毎月一日発行し内容は新しく加わった図書の紹介、各種計画の発表、本館の活動状況等を以ってし、各地利用者との連絡を計るを以って目的としています。定価は実費以下の一部五銭、一ヶ年五十銭として発行部数も八月号より五百を突破しています。此の外「図書館案内」「利用者心得」等の一枚刷をも用意し事業の説明宣伝に便ならしめて居ります。 四、蔵書 本館は約七百冊の蔵書を以って事業を開始しましたが、今日では一千二百余冊を蔵するに至りました。増加書五百余冊の約三分の二は感謝の表示として読者から寄贈された物であります。又数は三十冊程でありますが篤志晴眼者の努力に依って一点一点綴られた貴重な点訳書のあることは特筆に値する事であります。さて以上の蔵書分って一 盲人文献、二 宗教、哲学、三 文学、語学、四 地歴伝記、五 音楽、六 社会科学、七 自然科学、八 鍼按医学、九 児童書類、十 総記の十種と致します。 一類、盲人文献二十五部五十四冊、「社会問題としての盲人」「盲人心理学」「塙保己一伝」等有りますが、「ヘレン・ケラー全集全十巻」が断然異彩を放っています。併し最も好く読まれているは少々古い物ながら岩橋武夫著の「光は暗より」でありましょう。 二類、宗教、哲学六十四部百九冊、宗教書としては新旧約聖書全部を始め、内村鑑三、賀川豊彦等のキリスト教方面の著書が非常に多く、ジョン・バンヤンの「天路歴程」マルチン・ルーテルの「クリスト者の自由」等特に注目されましょう。キリスト教以外では仏教(特に真宗系統)のものが十余種有るに過ぎません。又哲学書も講義録的なものが一二有るのみであります。 三類、文学、語学、百五十五部、三百九十八冊、数も比較的多いだけに相当見るべきものがあります。日本文学では樋口一葉の「にごりえ」「たけくらべ」尾崎紅葉の「紫」徳冨蘆花の「灰燼」幸田露伴の「五重塔」夏目漱石の「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」鈴木三重吉の「千鳥」芥川龍之介の「河童」武者小路実篤の「その妹」山本有三の「波」谷崎潤一郎の「春琴抄」其の外広津和郎、有島武郎、久米正雄、加藤武雄、吉屋信子、片岡鉄兵、正岡子規、石川啄木、島崎藤村、吉井勇の作品もあります。又比較的最近のものとしては吉川英治の「宮本武蔵」火野葦平の「麦と兵隊」菊池寛の「天誅組罷通る」大嶽康子の「病院船」森田たまの「随筆歳時記」齋藤瀏の「獄中記」等、多く篤志家の手に依り点訳寄贈されました。古典では「古事記」「万葉集」「源氏物語」「枕草子」「徒然草」其の他若干が早稲田の文学講義録の点訳に依り紹介されて居ります。又翻訳物では「嗚呼無情」「巌窟王」「椿姫」「田園交響楽」「ハムレット」「ロメオとジュリエット」「イノックアーデン」「若きエルテルの悲しみ」「何処へ行く」等を上げることが出来ます。次に語学書として差して大ものは有りませんが、国語は勿論、英語、独逸語、エス語等に若干の教科書参考書があります。兎に角此の部門のものは最も読者に歓迎せられ蔵書率は全体の約三割三分にもかかわらず貸出率は五割七分の多きに達しています。其の中で最も好く出たのは山本有三の「波」で既に約百十名に読まれ、つづいては宮本武蔵や漱石の作品が上げられます。 四類、地歴伝記、二十二部四十四冊伝記は薄いものが数冊有るに過ぎず、地歴はいづれも古い事が欠点で藤谷操著の「皇国二千六百年史」が目立つ程度であります。又冊数も少なく其の割合に比較的好く読まれる事を見ても最も新しい良いものを備えねばならぬ事と痛感致します。 五類、音楽三部十二冊、音楽は盲人全体に取り最も適切な趣味慰めであるばかりか一部の者は此れを職業として居るにもかかわらず、従来此の方面の良書紹介が殆んど閉却されて来た事は本館の将来に大きな課題を投掛けるものと云わなければなりません。 六類、社会科学八十五部百八冊、政治、経済、法律、修養等一通り揃っていますが何れも小さく且古く僅に永田秀次郎の「日本の前進」や徳富蘇峰の「昭和国民読本」後藤静香の「時局に処する道」等に新鮮味を見出すに過ぎません。 七類、自然科学二十三部四十四冊、博物では動物、植物、鉱物、数学では算術、代数幾何、三角等一通り揃っていますが何れも非常に古く冊数の少ない事も原因して貸出率が著しく低い事は忽に出来ない問題でありましょう。 八類、鍼按医学百五部三百三冊、盲人大多数の職業に直接関係を持つだけに従来の出版事業は概ね重点を此処に置き、為に今日此の種図書の数は非常に多く貸出し率も文学語学にはるかに及びませんが、約一割七分で第二位を占めて居ります。解剖、生理病理、内科、外科、産科、婦人科、鍼、灸、按摩、マッサージ、物理療法等内容も各方面に渡り冊数も最も豊富であります。 九類、児童書類四十一部五十六冊、松村武雄著の「日本童話集」を始め、「アンデルセン」「アラビヤンナイト」「グリム」等の童話数編が紹介されています。併し其の他は大部分宗教的色彩が濃きに過ぎる嫌いがあり其の緩和方法に今後は一考を必要とするでありましょう。 十類、総記十三部五十五冊、辞書類には「保科新辞林」以下英和、和英、エス和等備えて居ります。其の外「将棋読本」「野球入門」等の娯楽書も見受られます。 以上の第一類より第十類の外、ロンドンに於て出版された点字洋書約八十冊を持って居ります。併し此れ等洋書の利用者は流石に今だ極めて稀であります。 又本館では目下出版されつつある点字月刊雑誌十種全部の寄贈を受け之を書棚に備えて来館者の自由閲覧の便を計って居ります。 五、読者 本館の利用者増加月別数は次の如くであります。即ち昨年十一月は三十七名、十二月 百六名、越て一月 五十四名、二月 七十七名、三月 二十七名、四月 四十四名、五月 六十七名、六月 九十二名、七月 六十名、八月 四十一名、九月 五十名、十月 七十六名、以上七百三十一名中七百名迄の各種内訳を次に掲げます。 (性別)男子 五百八十一名、女子 百十九名、 (年齢別)十才代 百五十七名、二十才代 三百二十五名、三十才代 百三十名、四十才代 五十九名、五十才代 二十一名、六十才代 八名 (職業別)治療家 三百五十一名、学生 二百五十一名、教育家 二十三名、音楽家 二十四名、其他 十八名、無職 三十三名 (地方別)東京 百六十八名、北海道 三十四名、奥羽 五十四名、関東 六十九名、中部 百十五名、近畿 九十八名、中国 三十七名、四国 十六名、九州 九十名、外地 十九名 更に又此れを詳細に見ますと先ず学生二百五十一名は盲学校四十二校にその籍を分って居り、其の中官立東京盲学校が断然多く四十数名に及び此れに次いでは京都府立盲学校の十数名、やや下って新潟、盛岡、埼玉、の各校がつづきます。職業の異色としては、レコード歌手、アパート経営者等も見られます。又地方別を更に詳細に見ますと流石に地元東京が断然多く、兵庫、愛知、福岡、京都等がつづき最も少いのは富山県で去る九月初めて一人を得たに過ぎません。併し此れを以って本館の利用者は一県も残す事なく沖縄、台湾、樺太、朝鮮、関東州に至る迄完全に全国に行き渡った訳であります。又兄妹が盲人で共に利用して居る人が五組、夫妻が盲人で共に利用して居る人が六組あるようです。又此れ迄に一人で最も多く読んで居る記録には一ヶ年間に六十六冊と云うのがあり、一ヶ月間に十三冊を読破した例もあります。 六、点訳者 本館をめぐる多数の晴眼点訳奉仕者に就いては別稿図書館日誌抜録に於いてしばしば触れましたし、後藤先生の玉稿が何よりも好く其の実際を語って居りますから、敢て重複を避けますが衷心より感謝に堪えない事を此処に繰返す次第であります。尚最近盲人側からもぞくぞくと点訳奉仕者の現れつつある事は真に喜ばしい事であります。盲人は無論普通字の書物の点訳は不可能ですから、晴眼者の手に成った物を読みながら更に点字に写し取って複本を作るのであります。本館の如く貸出し専門の図書館ではそれが良書であればある程同じ物数冊を必要とします。此の意味に於て之等盲人点訳者の労も大いに多とすべく、其の将来に大きな期待が掛けられます。 七、点字郵便物 最後に是非付け加えて置かねばならぬのは我が国に於いては、点字印刷物の輸送は第四種郵便物として取扱れ特別の恩典に浴している事であります。即ち六百グラム迄五厘それを越えても三十グラム迄は六百グラムないしその端数を増す毎に五厘を増すに過ぎません。従って本館の蔵書は普通一銭、大きいものでも二銭切手を貼れば何処迄でも送る事が出来、国家に対し特に感謝に堪えないところであります。尚本館では、此の図書の輸送費は自発にまってなるべく読者自身の負担としています。 [#80ページ] 3 『点訳通信』第1報~第3報 點譯通信(第一報・昭和一九・七・三〇) 苛烈な戦局下にお暑さが続きます。皆様お変りもございませんか。決戦生活の寸暇をさいて今日も黙々と点筆を奮って居られる皆様に、私共は何とお礼を申上げたらよいのでせうか、単なる感謝と云ふ言葉を以ては盡し切れない感激であります。 この通信はその感激のほんの一端をもあらはす事が出来ればと、今後隔月にお送りする事になりました。皆様お一人お一人にお呼びかけするやうな自由な気持ちと、とらはれない形式で書かせて頂きます。 最近は皆様の御日常も目立ってお忙しくなられた事と存じます。しかも点訳成績は決して衰へず尊い点訳書が続々と完成して行きます。点字出版界が停頓している今日の盲界にとって、これにまさる光はありません。全国読者の感謝が日を追ふて高まりつつあるのも當然であります。 長崎縣平戸町の久田端葉さんは、この程遂に点訳二十冊に達しました。これまで本館に二十冊以上を寄贈された三浦みやけさん(二十五冊・東京)村松君子さん(二十五冊・東京)沓名芳枝さん(二十三冊・名古屋)鈴木ツネヨさん(二十冊・東京)に続いたわけであります。 點譯通信(第二報) 一、山形県の読者、鈴木泰助氏は、去る九月十二日の「点字読賣」紙上に、本館をめぐる点訳奉仕者が盲人文化に致しつつある偉大な貢献を指摘し、「我国全盲人の名に於て感謝すべし」と云ふ一文を掲げられました。これは正に快心の叫びであり、本館全読者の声を代表したものと申せませう。 一、「憂愁夫人」その他の点訳者、鶴田良子さんは藤良子さんに、「母子草」その他の点訳者水谷ゆき子さんは山本ゆき子さんと、先頃それぞれ御結婚に依り御改姓皆様と共に心から洋々たる前途をお祝ひいたします。 また三浦みやけさんは宮城県へ、鈴木ツネヨさんは福島県へ、峰岸静江さんは埼玉県へ、赤沼和子さんは長野県へそれぞれ疎開、帝都の点訳陣は一抹の淋しさを感じますが、皆様、引き続き盛んに点訳を継続して居られます。 一、今後は点訳書の終ひに「活字書奥付より」として活字原本の奥付全部、若しくは主なるもの(印刷及発行年月日、発行所名、定價その他)をお書き頂きたく、又書名著者名等は墨字でもお知らせください。 一、私は四月以来全蔵書の疎開先、筑波山麓茨城県総上村にあって事業に専心して居りますが、毎月第一、第三日曜には必ず上京し、本館で皆様とお目にかかって居ります。少くも数名、多いときは十数名の方々がお尋ね下さり、また尊い御苦心の結晶たる点訳書もこの日に多く届けられます。点訳の御相談をはじめ、次々と話題は盡きず、私は輝かしい盲界文化の未来を見る思ひが致してゐます。 時局下、益々ご多忙とは存じますが、御都合つき次第、一人でも多くの方の御来訪を心からお待ち申上げて居ります。午前、午後何れでも結構でございます。但し、警報発令の際は上京を取止める予定です。 一、これ迠に本館から晴眼者の方々にお送りした点字器は約三〇〇面に達してゐます。しかしその内、相当数の方からはこのところしばらく御消息がありません。決戦下どんなにかお忙しく、本式の点訳は仲々むつかしいと存じますが、時々お便りだけは頂戴したく存じます。尚、点字についての御疑問はどんな小さな事でも結構ですから、御遠慮なくお問い合わせ頂きたく、喜んでお返事申上げます。 貸出疎開先 茨城県結城郡総上村小島 昭和十九年十月三十日発行 點譯通信(第三報) 国内もまさに戦場と化しつつある此頃、皆様から送られる點譯書を私は本當に押し頂く思ひで拝受して居ります。空襲下に尚、厳然として継続されつつある点訳運動こそは、神国日本、文化日本の尊ひ姿であると存じます。十二月號の点字図書館ニュースは、全頁を「新入図書」で埋める事が出来ましたが、これを手にして歓喜するであらう全国の読者を想像すると私の胸も喜びに踊ります。ともするとうるほひを失い勝なこの時代だけに、読書にひたむきな憧れを持つ失明者たちは親身も及ばぬ皆様の御奉仕を一しほ深く身に沁みて感謝してゐることでありませう。 十一月の図書貸出数は一三三六冊に達し、又々開館以来の最高記録をつくりました。毎日四五十冊の図書がリヤカーで郵便局迄運ばれ、ほぼ同数が返って来るのです。その一冊一冊には必ず次の希望書を書いた手紙がはいってゐますが、その大部分にはたとへ一言であっても感謝の言葉が書きこまれてゐます。希望書名は普通第五希望までとされて居りますが時には万一にも図書の来るのが遅れてはと二十冊以上を用紙一杯に書く読者もあり、一週間や十日遅れても是非此の本をと、一冊だけしか指定しない読者もあります。遠く中国、近畿あたりから毎日五冊以上を読んでゐる読者もかなりありますが、此頃の郵便状態からすればおそらく図書が到着した翌日には、もう読み終わって返送してゐるものと思われます。又盲学校の寄宿舎等では各自が借り出した書物を交換して読み合ったり、點字の上手な学生が同室の皆の為、音読して聞かせ、一日の最も楽しい時間としてゐるとの事であります。 最近、東京、名古屋、神戸等の盲学校が集団疎開して、その寄宿舎に全生徒を収容してゐますが、慣れなひ環境の淋しさからか、それらの学生の中から新読者が次々と申込んで来て居ります。盲学校の閉鎖や出版所の合併や会合の中止が次々と伝へられるこの決戦下の盲界に、続々とおくりこまれる點譯書こそは明るい希望の光として全国読者の感謝の的となってゐるのであります。 次に例により九、十月中の点訳書及點訳者芳名を受付順に掲載致します。この中「皇軍感謝十二月」は点訳奉仕団長、後藤靜香先生が御多忙の寸暇をさいて、御自分の著書を失明者の為、特に点訳されたものであり、「食後の散歩」は戸川エマさんが先年なくなられたお父様の随筆集を點譯寄贈されたものであります。又赤沼和子さんは此処に発表のものを以て、點譯二十冊に達しました。 點譯を始められてから僅かに一年五カ月であります。尚、木下冨美子さんは去る十月来、本館職員として茨城県の疎開先に於いて私共と生活を共にし奮闘して居られます。 昭和十九年十一月三十日 貸出先 茨城県結城郡総上村小島 [#82ページ] 4 「〈日本盲人図書館〉に就いて」 『図書館雑誌』第35年第10号 722−723頁(昭和16年10月) 一 点字図書館の必要性 我々盲人にとつて点字は光であり命であります。肉眼の視力を失つて失意のどん底にある者が指先をもつて読む事の出来る点字の存在を知り、且これを学び得た時の感激、それは人類が経験しうる最高の悦びの一つであると云つても過言ではありますまい。一八二九年仏国の一盲青年、ルイ・ブレイユに依つて発明された此の六点式点字は忽ちにして世界各国の用ふるところとなり、我国に於ても明治廿三年石川倉次氏の翻案に依り日本点字が完成されました。爾来約五十年、我国の盲人が点字に依つて益せられたところは盡し絶大であります。即ち其の間盲教育の発展は実に目覚ましく、今日盲学校は九十余校を数へ、又点字出版界にも見るべきもの多く、小規模乍ら各地十数ヶ所に上つて居ります。 然るに点字図書館の世界のみは極めて振はざる状態の中に推移して来ました。僅かに昭和四年名古屋市立図書館が点字部を設置し、同じ頃新潟県柏崎に「新潟盲人協会点字図書館」が創設された外、幾つかの盲人事業団体が時に図書部の併設を企てたに過ぎず、全国の盲人を対象とする、完備せる点字図書館は待望久しくして尚実現を見なかつたのであります。 凡そ視覚は所謂五感の中でも、最も重要な感覚であります。これを失ふ事は人間に許された自由の大部分が奪はれる事であると同時に、知識の世界に於ても美の世界に於ても非常に大きなハンディキャップを余儀なくされることであります。斯く視覚の世界から全く遮断された盲人にとつては、教養を得る道も慰安を求める方法も一切点字書を通してであると云つて決して過言ではありません。今日文字の無い、或は読書する事のない一般人の世界が全然考へられないのと同様に、否それ以上に盲人の日常生活と点字に依る読書とは密接不離な関係をもつのであります。扨さ て此處に最も考慮すべき問題は点字書の数が極めて少なく、点字翻案以来点訳された書物の種類は高々一千に過ぎないと云ふことであります。然も其の大部分が出版販売されてゐるものであり、定価たるや墨字書のそれの約四五倍の高価であり、比較的購買力の乏しい盲人がこれを自由に吾物とする事の容易ならざるは申すまでもありません。又最近の如く物資払底の時にあつては、点字出版に絶対不可欠である金属板や硬質の用紙が容易に得られず、点字出版事業それ自体が此處数年間は殆ど停頓状態に陥つたかの感があります。かかる時代の要求からしても、最も良き点字書を多数蒐集保管し、全国の盲人に対し手軽に貸出すと云つた図書館施設の出現は、我国盲人文化のため絶対必要となつて来たのであります。 二 本館の開館と特色 吾が「日本盲人図書館」がささやかな開館の式を挙行したのは、昨年十一月十日、紀元二千六百年奉祝式典が行はれた其の日でありました。爾来今日までの約十ヶ月間、我国十万盲人のため、暗夜を照らす燈台として、熱狂的歓迎を受け、且つあふるる感謝をおくられて居ります。本館は開館に際し、従来此の種の事業が実施して来たやうな、貸出を一地方に限るとか、料金を徴するとか或は保証制度を設けるとか云つた制限の一切を廃止、盲人の名に於て「氏名、住所、性別、年齢、職業」の五項目を附記し申込む者に対しては直ちに図書貸出しを開始するの方針を取りました。一方事業対象の盲人が全国に散在し、又市内に在住するも盲人は外出に不便等の理由から、図書は大部分郵便に依る館外貸出しであり、館内閲覧は極めて稀であります。前者、無料無保証貸出制度は本館が取れる空前の英断であり、後者、図書の殆ど凡てが館外貸出であることは点字図書館が持つ一大特色であります。 三 蔵書 本館の蔵書は開館当時七〇〇冊に過ぎなかつたものが、其の後新規購入及び読者からの寄贈書を加へ、今日では約一二〇〇冊に上つて居ります。此れが分類及び部門別の大体の冊数は一、盲人文献 四〇冊、二、宗教哲学 一〇〇冊、三、文学語学 三二〇冊、四、地歴伝記 三〇冊、五、音楽 二〇冊、六、社会科学 八〇冊、七、自然科学 五〇冊、八、鍼按医学 四五〇冊、九、児童書類 五〇冊、十、総記 一〇冊、他に外国書約八〇冊となつて居ります。 四 利用状況 又利用者は今や完全に全国に行き渡り、北は樺太、南は台湾或は関東州に及んで六〇〇名を数ふるに至りました。其の中男子は約四九〇名、女子は約一二〇名、男女の比率は約四対一であり、年齢別からすれば最低十一歳から最高六十九歳となつて居りますが、遉に廿歳代が断然多く殆ど三〇〇名に近く、全体の半数を占めて居ります。又職業別から見ればやはり鍼按に携はる治療家が最も多く三〇〇余名で過半数を占め、学生がこれに次いで約一八〇名、其の他音楽家、教育家、宗教家等の順になつて居ります。 貸出は一人一回一冊とし、其の期間は内地二週間外地三週間と規定してあります。次に借出し状況の実際に就いて見るに、開館当時の十一月は三一冊、十二月 一一八冊、越えて一月 三一二冊、二月 四五二冊、三月 三三三冊、四月 五〇三冊、五月 五六六冊、六月 七六八冊、七月 八〇三冊、八月 八九六冊、と文字通り増加の一途を辿つて居ります。其の中、最も多く借用されるのは第三門の文学語学書であつて、蔵書数は全体の三割にも達しないに反し借出率は全体の約六割五分に達し、殊に文学書は最も激しい動きを見せて居ります。これに次ぐものは盲人大多数の職業の参考書である第八門の鍼按医学書でありますが、貸出率は約二割に過ぎず、其の他の種類のものは更に其の率が下がります。又一人が一冊の図書を読むに要する実際の借出日数は地方により、或は図書の内容により、一様ではありませんが、平均十二日間と計算されて居ります。此處に特筆すべきは、開館以来本館が何の制限も無く、全国に送り出した図書の数は総て五〇〇に垂んとしてゐながら「車中に置き忘れた」と云ふ理由により失はれたものが一冊ある以外、所謂行方不明のもの等唯の一冊も無いと云ふ、驚くべき事実であります。この事は読者たる盲人が如何に此の事業に感謝し責任を感じ、且つこれが発展のためお互が協力しようと云ふ熱意に燃えて居るかを最もよく物語るものではありますまいか。読者から送られる寄贈書等も相当の数に上り物資不足を察して包装用のハトロン紙や紐を送られる事も度々であり、感謝激励の手紙に至つては枚挙に遑がありません。 五 出版物 本館では事業の運営上必要欠くべかざる二種の点字出版物を出して居ります。其の一つは四六倍版約六十頁から成る「図書目録」であります。これは蔵書名の全部が紹介されて有り、利用者にとつては無くてはならぬ物である関係上特に無料を以て希望者に配布し已に一二〇〇余部を全国に送り出しました。今一つは同じく四六倍版八乃至十頁の「図書館ニュース」であります。これは定期的に毎月一日発行し、内容は新しく加はつた図書の紹介、各種計画の発表、本館の活動状況等を以てし、広く全国の利用者との連絡を図つて居ります。定価は実費の一部五銭、一ヶ年五十銭とし、発行部数も八月号より五〇〇を遙かに突破しました。此の外「図書館案内」「利用者心得」等一枚刷をも用意し、事業の説明、宣伝に便ならしめて居ります。又図書の輸送には本館特定の布地カバーを用ひ表面の挿込式名札の一面には本館の所在を、又他の一面には読者の所を記入してあります。これに依り、其のカードを裏返すと云ふ極めて簡単な操作だけで盲人も人の助けを借りずに図書の返送が出来、これも亦本館が利用者から感謝されて居る点の一つであります。 六 附帯事業 又本館は市内淀橋区西大久保二ノ二三〇に中央部を置く「心の家」の協力を得て、正眼者に対する点字の普及運動をも事業の一部として居ります。これも亦予想以上の反響を呼び、今日迄に熱心に点字を学ばれる方は五十名に達しました。殊に其の中十余名の方は盲人のため墨字書の点訳奉仕の労をとられ森田たまの「随筆歳時記」、樋口一葉の「にごりえ、たけくらべ」、ゲーテの「ヘルマンとドロテア」を始め廿冊近い貴重な点訳書が此處半年間に本館に寄贈されました。良家の令嬢あり、看護婦さんあり、職工さんあり、病床の人あり、境遇は色々でありますが、唯「盲人を愛する」誠心に出づるこの人々の美しい行為こそ我々盲人の限りなき感謝に値するばかりでなく、一般社会に宣伝されるべき、充分なる価値をもつものと確信致します。 七 結び 以上を以て、点字図書館の必要性及び本館の活動状況に就き、大体御理解いただけたことと存じます。最後に忘れてならない事は、東亜共栄圏確立の聖戦に於て、多数の勇士が御国のため掛替無き其の両眼を捧げられた事実であります。此等名誉有る失明将士の再起奉公の茨道をお助けする意味に於ても本館の使命は愈々重きを加へる事でありませう。此の小さな、然し充分に特殊性を持つ図書館の発展のため、斯界先輩の厚き御指導と御援助とを切望して止まない次第であります。 附記 因みに本館の経営費は目下、一切個人の負担であり、従つて事業も極めて小規模たらざるを得ません。然し乍ら洋々たる将来を確信し、来る十一月の一周年を期して、始めて一般社会に対して協力を求むべく目下印刷等各方面の準備を進めて居ります。省線高田馬場駅から約三丁の所、御来館下さる方もあらば光栄に存じます。 (筆者・日本盲人図書館経営者) *再掲載のため、書名は原文のまま [#85ページ] 2.本間一夫の点字図書館論を示すもの~インタビュー:「日本点字図書館」― 三七年の歩み 『世界』1977年8月号(通号381)145−163頁、岩波書店 本間一夫(「日本点字図書館」館長) (聞きて)緑川亨(岩波書店専務取締役) 緑川 本間先生は、昭和一五年にお一人の力で「日本盲人図書館」を開かれましたが、それから現在まで三七年間、一筋の長い道をたどってこられました。そこには一言では語りつくせぬ、多くのご苦労とご努力があったと思われます。今日、この点字図書館が中心的な役割を果すようになるまでには、たくさんの協力者がいらしたわけですが、本間先生をはじめとするそれらの方々のことも、この点字図書館の機能そのものについても、現在なお一般にはあまり知られておらず、視力障害者と読書とのかかわりについても十分に理解されていないのではないかと思います。 「日本点字図書館」でお出しになっている『感謝録』(昭和四三年)のなかで、本間先生は「盲人の読書に対する強い要求――活字の世界から疎外された日常がどんなにつらい寂しいものであるかというこの私どもの訴えがようやく社会に受け入れられた」と書いておられます。また、『日点便り』の「館長日誌」の欄を私はいつも大層興味深く拝見しているのですが、昨年の一二月五日の日記に、国会図書館で行われている高度の学術書の録音作業を視察に行かれて、「活字書は所詮目で読むために書かれ、つくられたものである。盲人の前に開かれた新たな胎動ではあるが、録音にあたる人たちの辛苦を思うべし。」とお書きになっています。 本間 その年の一〇月二〇日から、あちらの仕事は始まっております。 緑川 私どもは活字本を出版する仕事をやっておりますが、それは活字の世界が個人の知的・精神的生産物を直接的に社会に伝達する大切な仕事であるという自覚を伴っております。しかし、その活字から疎外されている視力障害の方々の存在が出版の仕事の中で絶えず意識の一隅にでも自覚されているかどうか。この文章が点字になり、あるいは朗読される際の有効性という問題意識があると言える状態ではなく、その点で、先生のこれらの文章に、私はショックを与えられました。活字本を読める人々の間では「知る権利」と見合って出版の自由も存在しておりますが、同じ権利は視力障害の方々にも当然なくてはいけない。その正当な権利が回復されていくということがいま何より必要であるという認識が一般化されなければならない時代が来ているように、私は思います。点字図書館の機能に関心を持つということと、日頃活字本の出版をしているという自覚が、意識の中でそれぞれ別の次元に存在していることに、私どもは、内心忸怩たるものがあります。 こうした観点から、本間先生が図書館をお開きになってから辿ってこられた三七年の歩みを中心に、視力障害者の方々と読書の問題についてお話をうかがいたいと思います。記録によりますと、先生が最初に「日本盲人図書館」という名称で点字本七〇〇冊、書棚四本を用意されて点字図書館をお開きになったのは、昭和一五年(一九四〇年)の一一月一〇日でございますね。そのときの写真を拝見しますと、普通のしもた家から出発して今日この立派な施設に至っているわけですが、その当時、どういう動機で図書館をお開きになったのか、先生御自身の生立ちとのかかわりを含めてお話しねがえればと思います。 「読める本」が少なすぎる 本間 そうですね。話はそのへんまでさかのぼるわけですが、私は、北海道西海岸の増毛という小さな町で生まれ、初めは健全な目をもっておりました。 五つのときでした。その日のことを私はいまでも鮮やかに覚えております。一二月一二日でした。外で雪遊びをしておりまして、なんとなく頭が痛くなったので家へ帰ってストーブの脇にゴロッと横になった記憶があります。それが脳膜炎の発病のもとでございました。熱のために視神経がマヒし、だんだん視力が薄らいでまいりました。脳膜炎はだいぶよくなり、床の上に起き上がっていろいろ遊んだりするようになりました。積み木が大好きで、床の上で積み木をやっていたのですが、その積み木の色のあるほうとないほうとの区別がつかなくなっておったんですね。自分ではちゃんとやっているつもりなんですが、まわりの者がそれを見ていて、おかしい、反対にやっている、暗いからではないかと電灯を上からおろしてきたり……。雪国の一二月ですから雨戸も締め切っておりました。その雨戸をあけて光を入れてみたりしてくれましたが、どうもおかしい。だんだん目が見えなくなってきたんですね。 当時、増毛にはまだ汽車がございませんので、うちでもっていた二〇〇トンほどの汽船で、岬を回って小樽へ目の治療のため出てきました。四カ月ほどおりましたでしょうか。それから東京へ出てきて二年、中野のほうに家を一軒借りて、目の治療をしたわけでございます。しかしそのころはすっかり見えなくなっておりました。どうしてもだめだということで、震災の年(大正一二年)の四月、七歳のとき、あきらめて北海道へ帰ったわけです。 もともと非常に本が好きだったものですから、当時、講談社発行の『少年倶楽部』という雑誌をとってもらい、また、『日本児童文庫』と、菊池寛編集の『小学生全集』などが出ておりました。そのどれか一つをとってやろうということで『日本児童文庫』のほうをとってもらったわけです。しかし、自分では読めませんので、まわりの者に読んでもらう。それが非常にもどかしいわけですね。友だちに読んでもらいますと、友だちのほうがさっさと先に読んでしまいまして、なかなかこっちへは読んでくれないということに自然になるわけです。『少年倶楽部』が届きますと、本の端のところがきちっとしておりまして、それを手でまさぐると、表紙はつるつるして厚いですし、なかの写真もまたちょっと厚い。ああ、これは写真だなとか、あ、きれいだなとまさぐりましても、読めない。 しかし、『少年倶楽部』がくるのは楽しみでして、駅へ何時に着くということですと、家の前を通ってその本屋に届くわけですが、それが本屋へ行くのも待ち遠しくて、その本屋さんに電話をかけて、家の前を通るときにもう入れてくれということまでしまして、ほんとうに楽しみにしていました。それだけに非常にもどかしい思いをしたわけです。 それから、昭和四年に函館の盲学校に入りまして、初めて自分で読める点字という文字を勉強することができたわけです。ほんとうに新しい世界が開け、たいへんうれしかったわけでございます。それで自分で日記をつけ始めたり、教科書を読んだりしたのですが、当時あった点字の本はアンマ、ハリ、キュウ、マッサージ、いまでもそういう傾向でございますが、そのころはそういう本が大部分で、盲学校の書棚をみましても、一般の読みものは非常に少ない。わずかに夏目漱石の『吾輩は猫である』が初めからちょうど三分の一くらいございました。点字だと、六冊になるのでも二冊まででしたから三分の一だと思います。それからデュマ・フィスの『椿姫』が三冊になるはずのものが上・中までしか出ていないということで、そのあともちろん出版所の方では出したかったのでしょうが、採算がとれないので出なかったのだろうと思います。そういうようなことで一般の書物、読みものは少なかったわけです。 せっかく点字を覚えたのに本がないのは、非常にショックでした。しかし、そういうなかで、せいぜいある本は一生懸命に読んだわけです。その中に、内村鑑三先生の『後世への最大遺物』がございました。東京に日本盲人キリスト信仰会があり、そこに秋元梅吉という有名な先生がおり、その先生が内村鑑三先生のものをたくさん点字にしておられました。そのなかの一冊でした。ほんとうにむさぼり読んだものでございます。 緑川 それをお読みになったのは、おいくつごろになりますか。 本間 一八歳ぐらいだったかと思います。非常に影響を受けましてね。それは、お金も尊いし、事業も尊いけれども、自分の主義を一生貫き通してりっぱな生活をすることが何よりもの後世への遺物なんだというお話だったと思います。それからシェンキェヴィチの『クォヴァディス』。あれなどもキリスト教のもつ非常なスケールの大きさ、外国文学の思想的なものなどを教えてくれるもので、ほんとうに繰り返し読んだものでございます。 しかし、なんといっても本が少ない。もっと点字の本が出ないものかということを痛感したわけです。それは、いまもそうですが、盲人の職業、やはり生活をしていくということになりますと、大部分アンマ、ハリ、キュウ、マッサージということでございます。両親は何かほかの道はないものかと考え、一時、錦心流の琵琶をけいこさせまして、それで身を立てようかなと思ったんですが、これは途中でうまくいかずにやめて、どうしようかと思っているときに、岩橋武夫先生、大阪で、日本ライトハウスという事業をお興しになった方です。この方は早稲田の二年生の時に急に失明されまして苦労をして、おかあさんの愛情とキリスト教に救われて立ち直って、関西学院に入り、その後、エジンバラまで留学なさって帰ってこられたという先生なんです。 そのころちょうど賀川豊彦先生の「神の国運動」が全国的に行なわれておりまして、岩橋先生もその協力者としてあちこち講演旅行をなさっていらしたわけです。函館の教会にいらっしゃいまして、二晩「光は闇より」というご自分の失明の苦悩から立ち上がった経験をお話になったわけなんですね。ちょうど私の母が増毛から出てきておりまして、二晩のなかの一晩だったのですが、連れていってもらってその講演を聞いたわけです。その時、こういう世界もあるのかと驚いたわけです。 しかし岩橋先生はなんといっても早稲田の途中までいらして失明された方で、基礎がちゃんとおありになるわけですから、とてもわれわれの及ぶところではない。そういう世界もあるのか、高嶺の花的な意味で感銘をしていたわけです。 その翌年、昭和一〇年だと思いましたが、こんどは熊谷鉄太郎という先生がこられまして、この先生はいまでもご健在で九四歳になられますが、その熊谷先生は、牧師さんで、函館へこられて講演会があったわけです。熊谷先生は非常な逆境に育たれた方で、疱瘡で四つのときに失明なさいまして、貧乏な漁師のお子さんとして非常に苦労をされ、独学で勉強をして牧師さんになった方です。当時そのお話のなかに、杖一本でアメリカ大陸を二度も横断してきたという話をなさるわけですね。それをうかがいまして、熊谷先生のような逆境のなかから立ち上がってこのような可能性を見せていただければ、熊谷先生よりは自分のほうがはるかに環境もよろしいし、頑張ればなんとか新しい道に進めるだろうかと思いました。岩橋先生によって暗示された世界が熊谷先生によって確かめられ、自分の身に身近なものになったのです。 このお二人の先生に函館時代会わなければ、私は別な道に行っていたかもしれない。別な道というのは、東京の盲学校に盲学校の先生になるコースがありますから、そこへきておれば、卒業して函館の母校の先生になっていたと思います。そのお二人の先生にめぐり会ったということで、何か自分のライフ・ワークをと考えておりましたのと、本がないということが結びつき、それからイギリスでは当時からして何万何十万という蔵書をもっている点字図書館があるということを聞きまして、それでは、その道をひとつやってみようと決心したわけです。 緑川 函館時代に、そのような人々と出合い、本とのめぐり合いがあってすでに、盲学校の学生時代に点字図書館を開くという志を立てておられたわけですね。 点字図書館への出発 本間 そうです。函館の盲学校のときにその決心をいたしまして、それには外国の実情を勉強しなくてはならない。それでは英語を勉強しようというわけで、岩橋先生が当時関西学院の先生をしておられまして、いまでこそ盲人でも大学を受けようとなれば、あちこちの学校でだんだん門戸を開放してくれるようになりましたが、そのころは問題にもされていなかったわけでしてね。たまたま岩橋先生がおられるということで、関西学院だけが門戸を開いてくれておりまして、東京を通り越して西宮までいき、英文科を三年間やりました。岩橋先生にも個人的にいろいろご指導を受けました。もうその関学へ行くこと自体が図書館をやろうという準備のためにまいりましたから、当時の学友がいまでも「きみはほんとうに初志を貫いた」ということをいってくれます。 そして昭和一四年に卒業して東京へ出てまいりまして、一年半ほど「陽光会」で、『点字クラブ』という点字雑誌の編集のお手伝いをしていたわけです。そして昭和一五年の一一月に豊島区雑司ヶ谷二丁目四二六番地に借りてあった家で、家賃二七円、二階二間、下二間でした。そこで、さきほどのお話のように七〇〇冊の図書を買い集めまして、四つの書棚とで「日本盲人図書館」をスタートさせたわけでございます。 緑川 出発の七〇〇冊にはどういう書目が多かったのですか。 本間 当時の出版界は私の函館盲学校時代とそう変わっておりませんでしたから、大部分は、アンマ、ハリ、キュウ、マッサージの本だったと思います。 それだけですと、図書館はなかなか発展しにくかったんですが、以前、「希望社」という社会教育運動をやっておられた後藤静香という先生がおられまして、「希望社」は昭和一〇年ぐらいで挫折しましたから、そのときはもう「心の家」という「希望社」のあとの団体になっておりましたが、その先生を紹介していただいた時に、先生は図書館を始めるのはけっこうだけれども、本はどういうふうにしてふやすんだということをいわれたわけです。 いや、それについては何も考えていません。といったら、それじゃたいへんだろう、イギリスやドイツでは点訳奉仕運動が非常に盛んだ。日本でもこれを始めればきっと協力者は得られるだろうからということを教えてくださいまして、先生ご自身点字を覚えてご自分の著書をお書きになる、周囲に呼びかけるということで、先生に私淑していらっしゃる方がたくさんありましたから、そういう人たちが始められて、一六年の二月に第一冊目の点訳書をいただけました。稲枝京子さんという方からの森田たまさんの『随筆歳時記』が日本点字図書館では第一号の点訳書でございます。 それ以来、次々と奉仕の方が出て新しい本ができた。私の前にも団体や個人で点字図書館を始めた方は何人かありましたが、みなうまくいきませんでした。私の仕事が順調にスタートできたのは、後藤先生を中心とする点訳奉仕運動や、その後英会話で有名な井上当蔵先生がつくられた点字奉公会の人たちが新しい本を次々と供給してくださったおかげです。その点はいまでも感謝しているわけでございます。 緑川 これは今日の社会でも、公共図書館などでは、視力障害者のための施設をつくろうということで、ただ点訳本やカセットテープを揃えて置けばいい、という発想で始めかねない傾向が一部にあります。やはりいちばん必要なことは点訳者、朗読者の育成を平行して進めながら、運営していくことが大切だと思われます。本を貸し出す形で蔵書を利用してもらうことに、さらに蔵書そのものをふやしていく道が伴って計画されること。これは最初から本間先生の場合にはおありになった。先生の図書館が持続し、発展して今日にまで及ぶいちばん基本の要素がそこにあるように拝察されます。 本間 そうです。当時、全国的に図書を貸し出しているのはうちだけでございました。いまでは全国に七〇から点字図書館がございますが、私が図書館を始めました翌年の昭和一六年にはもう年間一万九千八百冊ぐらい貸し出されたわけです。それはいまから考えてみても小さな数字ではなかったと思います。どんなに全国の読者に喜ばれたかということだと思うのです。 そこで話がちょっと戻りますが、その図書館を始めましたときに「日本盲人図書館」という名前をつけたんです。点字という言葉がまだ一般に普及しておりませんで、点字ではわからないんじゃないか、わかってもらうのがいちばんだから、「日本盲人図書館」という名前にしようということでつけたわけです。ところがいま考えてみますと、たった七〇〇冊の本と四つの書棚で始めた図書館に「日本」という名前をくっつけたことに忸怩たるものがありますが……。 緑川 しかしそれは郵送が全国を対象となさっていたからではありませんか。 本間 それはそうなんですけどね。 緑川 点字図書館の場合には貸出・郵送が基本だと思いますが、当初は郵送料金や、一つ一つ郵送する手間は、とてもたいへんだったと思います。どういう形で処理なさったのですか。 本間 家が比較的豊かだったものですから、ばあやが一人おりまして身のまわりの世話をしてくれました。私の生まれます前から家にきておりましたばあやでございまして、函館から関西学院からずうっとついていた人でございました。ですから、職員を一人頼みまして、その人と二人でいろいろ処理をいたしました。七〇〇冊で、私費を投じて仕事を始めたということもありますが、その仕事をしながら、たいした収入をあてにしなくてもなんとか生きてこれたという環境に恵まれていたからではないでしょうか。 緑川 それは有利な条件ではあったかもしれませんが、たいへんな努力には変わりがないことだと思います。 本間 まあ、努力もいたしましたが……。そういうことで、戦争で地方へ疎開いたしましたのが一九年の四月でした。一八年に私は結婚いたしましたが、そのころは職員が四、五人おりました。 緑川 疎開は二度なさっていますね。 戦中・戦後も休館せず 本間 初めは茨城の下妻という町の郊外に一年おりました。この仕事は郵便局からの貸出ですから、東京でなくてもできましたので。そこで一年やりまして、でも地方の都市がどんどん空襲されるようになり、本を送ってもその読者のところに届くかどうかわからないという状態になってしまったものですから、終戦の年の四月に北海道の郷里へまいりまして、郷里からちょうど三年、全国の貸出をやったわけです。 緑川 戦争中も休館ということはなかったのですね。 本間 それこそ茨城、北海道のころは自分で家内と一緒にリヤカーを引っぱって郵便局へもっていったりもいたしました。しかし、その当時の読者、利用者から、あのころはまったく終戦前後で読むものがなかったときに、茨城や北海道の片田舎から本が送られてきて、「ほんとうに楽しみだった」といまでもいわれますと、やはりあのころ頑張ってよかったなという感じがいたしますね。 (以下略) *『世界』(通算381)の本文145~152頁の途中までを転載しました。 以下、163頁までの「日本点字図書館」に改称以降の内容は割愛させていただきました。 [#91ページ] 3.本間一夫の日本盲人図書館構想に影響を与えた論文~齋藤百合:我が国の点字図書館事業 『中央盲人福祉協会々誌』第1号(1934.10 中央盲人福祉協会) 点字図書館とは如何なるものか 点字図書館とはどう云ふものであるかと一口に言へば、適当に撰択された点字図書を蒐集保管して、以て盲人の社会文化に寄与する機関である。盲学校の寄宿舎や盲人団体と呼ばれる所に、十数冊乃至は数十冊の点字書籍を並べ或は積重ねて、之を点字文庫と称へて居るのをよく見受けるが、是等は卒業してゆく人々の読み古した置土産や、一冊二冊と寄贈になつたものゝ蓄積であつて、勿論一定の計画と方針の下に成立したものではない。であるから同じ物が二冊も三冊もあるかと思へば是はと珍しい書名に心引かれて読み出して見ると、それは最初の一冊だけの片輪ものだつたり、点字が消えてゐたり、正確でなかつたり、不潔であつたり、折角の読書欲も台無しにされてしまふ場合が少なく無い。斯う云ふものは真の意味の点字文庫乃至点字図書館でない事は云ふ迄もないのである。 然るに我が国に於て現在点字図書館であると呼ばれてゐるもの──勿論多数ある訳ではないが──殆んど皆が皆有り合せの図書を全く無方針に蒐集したに過ぎないものばかりであると云つても過言では無い有様である。斯く云へば当事者は云ふかも知れない。我が図書館では一冊幾何の点字書籍を何十冊何百冊、全国の点字出版所から撰択購入し得る予算があるではないかと、それは誠に結構なことである。併し全国の点字書籍の発行所から販売されてゐるものは、昭和八年三月盲人キリスト信仰会の調べによると、発行部数七百七十九、点字にして一千三百三十七冊、定価総額一千四百二十八円九十一銭と云ふ事に成つてゐる。此の制限内に於ける撰択購入では仮初にも一点字図書館として其の任務と使命を完うし得るものとは考へられない様である。即ち点字図書館は殆んど無制限に存在し増加せんとする一般書籍の中より、盲人大衆にとって最も有効適切なる図書を吟味撰択すると云ふこと、そして之を最も正しく点訳(点字に直すこと)すると云ふこと、此の二点が事業の要となつて計画せられ、組織せられ、設備せられ、活動する機関でなければならないのである。 点字図書館の特殊性 もう一つ点字図書館事業に就て考慮すべき問題は、館外の閲覧即ち図書の貸出に主力を注がなければならぬと云ふ点である。英国の国民盲人図書館を始め欧米の点字図書館が、殆んど貸出のみを以て其の事業としてゐるのに徴してもそれは解ることである。又別項名古屋図書館が最近の発表に成る統計に見ても、一日平均閲覧者総数三十一.四の中館内一.八に対して館外閲覧は実に二十九.六と言ふ高率を示してゐる。而も館内閲覧者は無料であり携出閲覧には二円の保証金を要する制度であるのに拘はらず此の成績である。以て見ても館内閲覧と云ふことはさして重要性を持たない事が知れるのである。勿論盲学校とか寄宿舎とか、外国に見る様な盲人工場等の附属事業としての図書館は又自ら例外であるが、一般盲人社会に於ける図書館にあつては、兎に角も貸出と云ふことが仕事の大部分である。 それは何故かと云ふに次の三点をその理由として考へる事が出来ると思ふ。 其の一つには、盲人には喧噪極まりなき都市の街路上往復に失明の不自由があり、附添を伴へば一度に二人の暇と費用が掛ると云ふ事、二つには盲人が読書すると云ふことは、普通の場合無意味な生活の徒然を紛らし、一般人と没交渉に成り勝な止むことを得ぬ生活の一面を成る可く有利ならしむる所に意義があるのである。留守居の折とか、仕事の絶え間とか、さう云ふ閑居の折に安らかな我が部屋、我が机のもとで斬新な貸出図書の目録を漁ることはどんなに心好い刺戟であるか。申込に依つて手軽に借受けた図書を心ゆくまゝに読了し得ることはどんなに盲人にふさはしい楽しみであるか。斯うした実際の要求が必然的な結果として現はれると云ふこと。 三つには事業の対照たる盲人は数が多いと云つても普通人に比すれば真に少数である。昭和六年内務省が行つた盲人調査によると、その総数七六,二六〇と云ふことであるから、之を我国内地人口七千万と見れば、普通人一万人に付盲人は十人強という割合に成るのである。此の中点字を読み得る者即ち点字図書館を利用し得る能力あるものは、盲人総数の一割にも足らぬ現状である。だから図書館事業は盲人大衆を相手とすると云つても実際は地域や国境を問はずに、ほんの特殊な盲人の個人を相手とする仕事なのである。であるから館内閲覧よりも館外貸出の組織が重要性を持つと云ふことに成るのである。 以上を要するに点字図書館は全く特殊な事業である。而も多分に特殊性を持つ仕事である。であるから簡単に普通図書館の附属事業としたり、一般図書館経営の模倣等では到底目的は達せられないのである。これが為には第一に先づ盲人に対し又此の事業の特殊性に対して、誤りなき認識と深い同情を持つ人物を得なければならない。而して此の事業の特殊性を補つて余りある充分の資金と組織を持たなければならないのである。 点字図書館事業の任務と使命 明治八年我が国に盲学校教育が開始せられて既に六十有余年、明治二十三年東京盲啞学校教師石川倉次氏に依つて、仏国ブラアイの考案になる点字が、我が五十音に翻案せられて既に四十有余年、大正十二年盲啞学校令が発布せられて十二年、盲啞教育補助費や学校設備費は年々国庫より支出せられ、各府県に一校づつと言ふ盲学校令の趣旨も漸く徹底せんとする一方、義務教育制実施の運動も実現の時将に至らんとしてゐる。盲学校教育進歩の跡は斯の如くに見る可ものがあるのである。 然るに転じて盲人社会施設に就て見れば実に暗然たるものがあるのである。即ちマザー女史が云ふ處の、学校教育によらざる四分の三の大多数盲人は殆んど投遣りのままである。彼等には保護施設も指導機関も何も無いのである。点字図書館は此の人々を対照として活動しなければならぬ。であるから普通図書館同様に盲人の成人教育、社会教育機関としての重要な任務を持つ事は言ふ迄もないが、又ラヂオや新聞雑誌等の及ばざる分野、即ち彼等の精神的な教養、慰安、娯楽の機関として働らく可く大きな任務が此の事業に残されてゐるのである。 名古屋図書館昭和八年の閲覧者延人員一万一千三百七十四名、桜雲会図書館同一千名、新潟県盲人協会図書館昭和七年の貸出一千二百一冊と云ふ様な報告を見ても、実に盲人に取つては最早なくてはならぬ重要な読書機関であり、又彼等の潤ひなき生活線上に於ける渇望の的と成つてゐる事は確実である。而も是等の図書館は何れも特殊事業の先駆者として種々なる悩みを越えつつ、親しく盲人の友となり、相談相手となつて、お門違ひの雑用に迄手を貸し乍ら、孜々として活動を続けてゐるのである。只願はくは之等の事業が飽く迄も後援者たるべき晴眼者(めあき)のものでなく、盲人社会を本位として増々其の特殊性に意を止められん事を、而して我が国のよりよき盲人、より高い盲人文化を建設する為に終始事業は厳粛なる使命感を以て貫かれん事を祈るものである。 点字読書機関の沿革 点字図書館とか点字文庫とか云ふ名のつくものが我が国に出来たのは、何と云つても大正年間半ば以後の事であつて、それ以前は全く混沌の世であつたと云へると思ふ。併しそれでも流石に学校や寄宿舎の中には、現今の此の種事業の種子とも萌芽とも見るべきものが幾つか出来たり廃されたりしたのは事実である。一つ二つさう云ふものも序に思ひ出して見る事は何かの参考になるかと思ふのである。 明治三十四年頃、今の岐阜盲学校の前身岐阜訓盲院には、基督教普及の為に手書きの点字書が数冊寄贈せられそれを順次希望者に回覧せしめてゐたが、程なく点字が摩滅して書籍の寿命と共に仕事も消滅した様である。 それから是は点字図書の事ではないが、当時読書機関の皆無を憂ふる岐阜訓盲院生徒の間には、一週一、二回づゝ集つて本を聞く会を開き、基督教会の男女青年が交る交るに色々な書籍を音読して聞かせたものである。 處が明治三十七年の始め元東京盲啞学校同窓会機関誌「むつぼしの光」第七号第八号の二回に亙つて、在英好本督氏の「盲人の読書機関」と題する一論文が掲載せられた。其の中には現今点字図書館として世界の王座を占むる英国国民盲人図書館の創設時代の状況に就て懇切に報道してあつた。其の大要に曰く、「本図書館の目的は、盲人の点字書籍を貸出して広くその便宜を計るにあり、恐らく此の種図書館としては世界第一たるべく、現在の蔵書は五千冊、毎年新たに増加するもの五百冊、歴史、文学、詩歌、小説、哲学古今の大著述は略々此處に備へられ、英本国は勿論独仏乃至南亜の領地に迄貸出を行つてゐる。而して本国図書館の起源はと云へば、今を去る約二十年前アーノルドと呼ぶ一盲婦人の創立になるものだとのこと、此のアーノルド女史は幼少からの盲目で予ねて読書機関の不備なるを深く歎き、自らの苦い体験から点字図書館設立の決意をしたのは一八八二年のことである。当時蔵書とては僅かに五、六冊、貧苦と失明苦とを引提げて明暮努力する女史の熱意は漸く世の篤志家を動かして資金が出来建物が出来た。此處に於て女史の勇気は愈々加はり内は内容の充実事業の実績を挙げる為に、外は理解ある助力者後援者を募り、以て事業の拡大発展をはかる為に一人自ら開拓者の労苦を嘗め盡したのである。遡れば実に本図書館にも斯の如き犠牲者と光輝ある歴史があるのである。云々」而して最後に氏は特に日本盲人に取つて読書機関の必要であることを言葉を盡して力説したのである。此の論文は読書熱の高い盲青年の胸に忘れ難い大きな刺戟を与へたのである。 次に明治四十四年東京盲学校には点字図書館閲覧室が初めて設けられ、里見八犬伝三十余冊や源氏物語十二冊等を始めとして其の他の文芸もの、鍼按に関するものが本棚に並べられた。併しそれ等は卒業記念とか篤志家の手写しの寄贈図書等であつた様である。尚大正天皇御即位に際して同校では御大典記念文庫が出来たが、此處には英国々民盲人協会発行の有用な英語点字書ばかりが購入されて、僅かの特殊な人に之が閲覧を許してゐた。又同校寄宿舎生の間には盲啞分離以前即ち東京盲啞学校時代から、会費制度を設けて協議の上希望図書を撰択購入したり、費用の許す範囲で普通書籍を点訳したりして図書を蔵し、図書委員を挙げて之により随時貸出を行つてゐた。而して此の寄宿舎図書の点訳は既に高倉某なる専門家も居た様だし、又在舎苦学生の希望者に依託しても居た様であるが、その中には新渡戸稲造氏の「随想録」、大町桂月の「花紅葉」、土居晩翠の「天地有情」、芳賀矢一の「月雪花」、内村鑑三の「歓喜と希望」、「萬短言」、少し大部のものでは蘆花の「思ひ出の記」等があつた。蔵書の種類はともあれ、兎に角一つの意思に依つて点字の読書機関らしい形態に手を初めたのは恐らくこんな處が最初ではないかと思はれるのである。 越えて大正八年頃には桜楓会の齋藤蔦野女史、故櫻井チカ子氏等の主唱のもとに、盲人婦人後援会が東京に生れた。此の後援会の一事業として全国一般の盲人に点字図書貸出機関設立の事が計画せられ、着々として組織も成らんとし、蔵書の購入点訳の実行に着手、貸出の開始を見るや可成広範囲に亙る盲人から多大の歓迎を受け、益々成果を挙げんとする勢であつた。然るに当時事業の中心は神田の三崎会館にあつたが、恰も十二年の大震火災に遭遇、一切を烏有に帰し、続いて櫻井女史の病没となり、重ね重ねの打撃を受けて遂に中絶の止むなきに至つたのである。此の事業に於て我々は従来の此の種事業中最も大掛りで開放的で、そして最も大衆的であると云ふ特色をはつきりと見る事が出来るのである。 爾来此の方面には是とて見る可ものは無かつたが、昭和三年九月に至り元東京盲学校同窓会に於て点字貸出文庫が生れ、広く盲人に開放することとなり、明くる四年の九月十七日には市立名古屋図書館の附属として点字文庫開庫式が挙行せられ、当日より同市内盲人に閲覧を開始することとなつた。恐らく之を以て我が国公立点字図書館の嚆矢と見るべきであらう。之と相前後して新潟県盲人協会の事業として同県柏崎に点字図書館が生れた。 以上昭和時代に於て創立を見た此等三図書館を以て我が国現在の三大点字図書館とも云ふべきであらう。 三大点字図書館の瞥見 桜雲会点字図書館上述の如く同窓会貸出文庫として呱々の声を挙げた本事業は、昭和六年経営者たる東京盲学校同窓会が社団法人桜雲会となり、組織其の他の変更を見るに至つたと同時に文庫の名称も桜雲会点字図書館と改められたのである。 抑々本図書館は盲学校卒業後に於て図書撰択の自由を欠く為と、購入の制限を受ける為に、点字は知りつつも読書に親しむことの六ケ敷い[むつかしい]点字愛書家の自由な読書機関であり、又学校教育の恩沢に寄らざる多数盲人の社会教育、成人教育の重要機関たらんとする處に本来の目的を持つのである。従つて読書は閑居の折に居乍らにして好みの書籍に親しみ得る組織、即ち図書は申込によつて総べて貸出を行ふと云ふ處に特色があるのである。尚此の精神をより有効ならしめる為に借受期間は三十日間とし――勿論早く読むものは何冊でもよいのであるが――尚申出があれば更に規定期間を延長するの便宜も計る事になつてゐるのである。斯くして有用な図書等はゆつくりと読者の机上に於て写本することも出来るのである。又包装荷造宛名等に就ても充分考慮を払ひ、本図書館の宛名を印刷した特定の郵送用カバーを使用し、盲人も他人の手を借らずして返送が出来る様な方法を講じてゐる。借覧手続は借覧料一円を添え借覧券交附を申込むと、受付日より向ふ十二ヶ月間有効の借覧券並に蔵書目録其の他の印刷物を送附する。此の蔵書目録中より希望図書を撰び、其の図書名を記し、借覧券を添えて借受を申込めばよいのである。現在蔵書は七百余冊、昭和八年度貸出延冊数一千冊、借覧券交附百名である。遺憾乍ら本図書館には経営費等の関係から未だ専任の事務員なく、多忙な会務の傍ら職員が暇を裂いては全く奉仕的に事務を担当して居る状態である。 市立名古屋図書館点字文庫 本文庫は桜雲会図書館創立に遅るること一年であるが、予ねて名古屋市立盲啞学校並に市内有力盲人団体等の密接な連絡を取り、以て克く盲人の声に聞き、周到なる準備のもとに事業開始を見、年々著しい成績を挙げてゐることは誠に結構なことである。本文庫は館内閲覧と館外携出閲覧の二様の組織を持ち、館内閲覧者の為には便利にして居心地よい閲覧室を設け、其處にはセルロイド製カードに点字を以て分類目録を認め常置してある。閲覧は無料であるが只携出閲覧の場合同市盲啞学校生徒以外のものは保証金二円を納付することになつてゐる。尚携出は一回一冊、十日間を以て一期間としてゐる。而して創立当時僅かに二百七冊の蔵書は本年四月末に於て八百四十六冊の多きに達してゐる。事務は担任者たる司書の指揮の下に館員一同協力熱心に活動してゐるが、本文庫の発表になる昭和八年度の事業成績は左の通りである。 閲覧人員 館内五八四名、館外一〇,七九〇名、計一一,三七四名。一日平均 館内一八名。館外二九六名、計三一四名。 閲覧図書 館内六五七冊、館外一〇,七九〇冊、計一一,四四七冊。一日平均 館内二〇冊、館外二九六冊、計三一六冊。 以上に依て見るに経営が公費である点、組織設備の至れる点、活動の活発なる点等現在此の種事業の模範とすべきものが本文庫には幾多あることを感ぜしめられるのである。 新潟県盲人協会点字図書館 これは盲人協会員に対し無料閲覧をなさしむるを本来の目的とし、会員外読者には年三十銭の借覧料を課してゐる。矢張り館内館外二様の閲覧組織があるが、館外携出閲覧者が其の大部分を占めて居る様である。蔵書は実に千二百七十冊、其の価格千六百十三円余であると云ふ。姉崎惣十郎氏が失明の身を以て図書館長の任にあり、文字通り盲人中心の事業を着々と実行してゐる様である。 是等の外熊本、福岡、茨城、福島、京都等にも或は県立図書館附属として、或は盲人団体事業の一つとして図書事業の計画あるを聞いて居るが未だ詳細確報を得ない事は誠に残念である。 以上を総括して思ふに昨年秋の報道に依ると米国では既に二年前全国二十五ヶ所の点字図書館に対し、之が補助費として十万ドルの支出を国会に於て議決したと云ふ。英国の国民盲人図書館には一九二九年に於て十五、六万冊の蔵書を有し、二十余万円の経費を費して居ると聞く。先輩諸国の規模の広大なるには只々驚く外は無いが、徒らに犠牲のみ多く遅々として進歩の跡を見ない我が国此の種事業の過去に鑑みて、吾々も最早永い試練の時代から一大飛躍を遂げなければならぬ時ではあるまいか。我が東京市に於ては図書館施設を以て全国何れの都市も追随を許さぬ市政の誇とし、昭和九年度に於て二十一万二千三百四十三円の予算を計上して、益々此の方面の充実発展を期すると云ふ事であるが、点字図書館に就ても一考を煩はしたいのである。統一ある国立乃至公立の施設に待つ事のみが立遅れの現状から一大飛躍を遂げ得る唯一の道であると信ずるのである。 図書の撰択 点字図書館に於ける最初の仕事は図書の撰択である。前にも述べた通り殆んど無限に存在し増加せんとする普通図書の中より、何を基準として撰択し、何を標準として盲人に対する適否を定むべきか、先づ此の事に苦しむのは当然である。英国では、点字図書館は中央的なものとしては、其の目的と内容とから区別すると、一般向の図書を集めて居る国民盲人図書館と、それから国民盲人図書館の事業である處の特殊図書館の二種に成つて居る様である。此の事は総て図書の撰択に就て吾々に一つの方向を示すものであると思ふ。少なくとも特殊図書及一般向図書の二種に先づ大別すべきことを学ぶのである。併し英国の特殊図書館は又大学生図書館、マッサージ図書館、音楽図書館の三種に小別されてゐるが、我が国にこれをそのまま取入れることは盲人の実情から見てどうかと思ふ。即ち我が国点字図書館として撰択すべき範囲はあらゆる学術の代表的なるもの、概論的なるもの及び各科学の系統を指示するもの、それに古典、古文、各種文献辞書等を撰択の限度とすべきであらう。 次に一般向の図書としては、何と云つても職業指導、成人教育、社会教育、教養、慰安、娯楽、是等の目的と任務を遂行するに足るものの中より順次慎重に撰択せらるべきであらう。尚点字図書界に於ける実際状況と云ふことも、図書撰択の能率と経済の上から充分に考慮しなければならぬ。即ち点字図書として現存せるものの中には既に絶大なる努力に依つて写本されて居るもの、印刷販売されてゐるもの、又非売品として或は秘蔵の所有として、個人の手に秘められてゐるもの等もあつて、是等の中より貴重なる図書を撰択蒐集することも意義ある仕事である。 左に桜雲会点字図書館開始の際に於ける図書撰択の状況を述ぶれば、蔵書総数三百五十冊の中三分ノ一は全国出版所より優秀適当なるものを撰択購入、他の三分ノ一は同会出版部、並に東京盲学校出版非売品図書の中より残り三分ノ一は会員有志の寄贈図書と云ふ割合になつてゐる。注意すべきは有志の寄贈図書の中には、金銭を以て得難い貴重なものが多いことである。 図書の写本 撰択に続く仕事は写本即ち普通書籍を点字書籍に直すと云ふことである。此の方法としては点字印刷と点字器を使用する謄写或は手写しの二法がある。第一の点字印刷は日本では教科書とか、学校参考書とか新聞雑誌等の定期刊行物或は売品として大衆性のあるもの等、即ち短期間に多量生産を要するもののみに使用されてゐる。英国の様に点字出版のみを目的とした施設が無い限り、我が国ではまだ点字印刷は現在の域を脱し難いことであらう。従つて図書館等で採用し得る方法では無いと思ふ。すると写本は点字器による法、即ち手写しの謄写を取る外は無いことに成る。これは点字盤に紙を挟み、一定の定規を用ひ、針の先で一点づつ突いて一頁一枚と点訳するのである。一時間の速度は点字器の種類で差異はあるが、三枚乃至四、五枚と云ふ處であらう。斯くして点訳された書籍は墨字原本に較べ、嵩に於て、費用に於て労務時間に於て、殆んど比較すべからざる大掛りなものになるのである。而して点訳写本と云ふことは又労務者に依つて三様に分つことが出来る。即ち単独に原本を見て手先で点訳して行く方法点字に馴れた人が普通字原本を聞取つて書く方法、それから点字の原本を点字書籍に写し取る方法。以上の第一は普通文字を読み得る人でなければならぬ。第二第三は盲人の仕事として最も適当であらう。 又点訳写本に際しては、点字の大きさを考慮し、図書の種類別に従ひ、点字器を撰ぶ必要がある。特殊図書は三十七詰、一般向は三十二詰、点字初学者用図書は二十五詰を使用すべきであらう。 外国では此の点字器のかはりにステンスビー点字器を使用して点訳の能率を挙げてゐるが、我が国にも近き将来に於て国状に適した点字用の卓上タイプライターが出現すべきであらうと思ふのである。それから点訳されたものに対しては最も厳正確実なる校正を忘れてはならぬのである。 次に附記すべきは点字書籍の厚さである。現行郵便規定に依れば点字書籍は五百五十瓦毎に一銭千百瓦を越えては普通小包二十二銭の料金を負担することに成る。依つて紙質や製本包装の関係も多少は有るが、点字書籍は普通大体百枚程度を以て一冊とすれば、同郵便規定により郵税二銭以内で間に合ふのである。 尚製本の様式、紙質の撰択点字の摩滅防止法、衛生上の注意等に就ても問題は有るが此處には省略する。 点字に就て 点字は音を表す符号であつて、同じものがアルフアベツトであり、ロシア語、支那語、エスペラントでもある。又日本に移されて五十音の符号となり、これが万国的には又音楽記号、数学記号ともなり、一つのものが実に多種多様に使ひ分けられてゐる。一般に点字は六ケ敷い[むつかしい]ものでは無い様に言はれてゐるが、それは程度の問題だと思ふ。アルフアベツトを読み且綴る人には左程の困難は無い訳であらう。又点字五十音の組織を理解し暗記するだけなら、日本人とてもさして六ケ敷い[むつかしい]事ではなからう。併し点の良否、仮名使ひ、字配り接字、脱字、脱行、点の消し方加へ方等に対する敏感な常識(好本督氏は之を点字良心と紹介して居る)を持つ所迄修業を積むには、可成りな時間と努力を要するのであつて、決して楽な仕事では無いのである。此の点字良心を体得することはつまり触覚の世界に住む者即ち失明者の心理に或る程度迄同化し得たと云ふ事にもなるのである。 此處迄行かなければ点字も駄目である。点字を扱ふ仕事盲人を相手とする仕事は皆此處迄ゆかなければ完全とは云へない。然るにさう云ふ人は中々に少ない。特に我が国に於てさうであると思ふ。第一点字教育の任にある人々がどうであらうかと案じられるのである。だから盲人それ自身、盲学校卒業者が実に点字に就ては危なつかしいのである。盲人の為の仕事を行ひ、点字図書館事業をやつて居る人々さへが、扨点字と成ると言訳逃げ腰になるものが多いのではあるまいか。 何は扨置き我が国ではもつと盲人関係者が点字を重要視し、正しく鋭い点字良心を体得することに努力しなければならぬと思ふのである。併し点字良心を体得しても尚点字写本に際して困る事が日本人にはもう一つある。それは一つの文字に幾通りかの読み方を持つ漢字を最も正しい読方で点字に取ると云ふことである。振仮名付のものなら大体誰でもよいとして、中学程度、専門学校程度、大学程度、漢籍医学書等を点訳する場合は夫々の専門家にして、高い点字良心の所有者でなければならぬものと考へられるのである。 次に岩橋武夫氏が其の著「社会問題としての盲人」中英国々民盲人協会の報告として掲げてゐる点字写本家の厳撰振りを此處に抜録する。「本協会の報告によると一九二六年より二七年に亙る一ケ年間に一三四人の筆稿応募者があり、協会は之等奉仕家に対して採用試験を課し、点字に熟達せるもの四十一人を採用してゐるのであつて、これ等採用されし者の中最も熟練せるものは四ケ月間に専門書の十冊を点訳し終つた記録を示してゐる。」 点字図書館の陣容 本事業の特殊性並に任務と其の使命を鑑みる時婦人にして有能有徳の士を戴き、実務方面も大部分婦人の手に待つことが適当の様である。又点字写本、点字校正等の方面には盲人殊に盲女子にして優秀な才能ある者を採用することが出来ると思ふ。 最後に図書館附属事業として点字講習、中途失明者指導、高等教育後援機関等にも触れたかつたけれども、予定紙数が尽きたから省略する。 以上 [#98ページ] 4.貸出カード書名一覧 (注)貸出カードは、同じタイトルで複数ある場合もある。この一覧では、1タイトルのみを50音順に列記する。 嗚呼無情 愛国百人一首 愛情の庭 愛の一家 愛の学校 愛のプレゼント アイルラント童話集 青い鳥 青い花 赤き十字架 赤彦 童謡集 明るい書斎 悪魔 赤穂義士外伝 赤穂義士銘傳 アーサー王とその騎士たち あさかくずれ あしかり 圧診法に就いて 天の浮橋 天の夕顔 編物教本 雨の念佛 アラビアンナイト アルタバン物語 アルプスの山の娘 ある日の大石蔵之助 暗号研究科 アンデルセン童話 按摩術教科書 按摩術試験問題答案集 按摩マッサージの神経痛に対する治療的価値 暗夜行路 イエス様の御生涯 イエスの譬 イエスと良心の藝術 医学上より見たる死及死後 医学的心理学 生抜力 医師ギオン 何処へ往く 遺族讀本 悪戯小僧日記 一握の砂 一日一話 一日一善 一家経済法 一帯の煙幕 一点鐘詩集 伊藤博文傳 井上小内科 命の歌 イノックアーデン 命の初夜 生命の路へ 祈りの心得 今富鍼灸秘法 岩の謎 イワンの馬鹿 因果はめぐる 上野生理学 動き行く墓場 内カラ見タ謎のソ聨 宇宙の旅 美しき世界 美しい旅 海原にありて唄へる ヴム氏マッサージ治療及体操法全書 運命論者 英語講義 英語重要単語の解釈 英語点字説明書 英作文講義 衛生学教科書 英治短編集 英文法講義 英和辞典 エヴァン ジエリン エスペラント講習読本 エスペラント第一歩 生ひ立ちの記 黄金の河 欧米盲人傳 近江聖人 大鏡 おかけ様 奥の細道 外 お月様の御災難 オックスフォードグループ運動 お父さんの村 御羽車 オーヘンリー短篇集 おみつさん 恩恵溢る 恩讐の彼方へ 温泉療法の概念 恩寵の追懐 恩寵無限 女の一生 概観維新史 海軍 灰燼 解説戦陣訓 解説と宗教 海戦 改撰公民教科書 改訂実用家事教科書 改訂新心理学 海底戦記 解剖学教科書 海洋学 カイロプラチック講義 化学講義 科学雑話 科学新話 加賀ノ千代女 輝くつぼみ 各科専門診療医典 学徒の書 家事教科書 風の中の子供 風の又三郎 片岡鉄兵短篇集 形見のボタン 勝烏 歌集 河童 家庭治療読本 家庭防空の手引き 家庭マッサージの実際と其の応用 蚊とんぼスミス 鐘の音 雷の話 神に依る解放 神に依る新生 神の一人子の意義 烏 硝子戸の中 カルロ 歓喜と希望 巌窟王 漢語字典 感の世界 漢文講義 漢方秘薬の処方 簡明按鍼学 簡明助産学 簡明病理学総論 簡明婦人科学 甘露の芳雨 幾何学講義 キャラメル王の体験談 求安録 灸術教科書 灸術教授に就いて 灸治の実際的研究と学説 灸治の実際的研究と其の学説 灸に関する医学的研究 牛肉と馬鈴薯 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第6巻(義士銘名傳5)、赤穂義士伝(第7巻)義士銘々伝6、赤穂義士伝(第8巻)義士外伝1、赤穂義士伝(第9巻)義士銘々伝6 (講談全集より点訳) 昭和17年 大日本雄弁会講談社 点写寄贈 ヒットラー伝 岩元正雄 点訳 昭和17年 岩元正雄 点訳寄贈 要約 我が闘争 昭和17年 岩元正雄 点訳寄贈 ヒットラー伝 第2巻 昭和17年 岩元正雄 点訳寄贈 ヒットラー伝 第3巻 昭和17年 すぎやましんぺい 点写寄贈 ヒットラー伝 第1巻 岩元正雄 点訳 昭和17年 よしのときはる 点写寄贈 ヒットラー伝 第2巻 岩元正雄 点訳 昭和17年 いけやけいせん 点写寄贈 ヒットラー伝 第4巻 岩元正雄 点訳 昭和17年 大日本雄弁会講談社 点写寄贈 ヒットラー伝 第五巻 テキスト増版 岩元正雄 点訳 昭和17年 杉橋親次 点訳寄贈 ノロ高地 第1巻 昭和17年 杉橋親次 点訳寄贈 ノロ高地 第2巻 昭和17年 こうのきみよ 点写寄贈 ヒットラー伝 第5巻 岩元正雄 点訳 昭和17年 杉橋親次 点訳寄贈 ホロンバイルの荒鷲 上巻:ノモンハン1400機撃墜記 昭和17年 杉橋親次 点訳寄贈 ホロンバイルの荒鷲 下巻:ノモンハン1400機撃墜記 昭和17年 杉橋親次 点訳寄贈 空の軍神 加藤隼戦闘機隊長 下巻 昭和17年 三浦みやけ 点訳寄贈 軍神を生んだ母 上巻 昭和17年 三浦みやけ 点訳寄贈 軍神を生んだ母 中巻 昭和18年 杉橋親次 点写寄贈 日米開戦の真相 下巻 昭和18年 ささきひろし 点写寄贈 軍神を生んだ母 中巻 三浦みやけ 点訳 昭和18年 阿佐博 点写寄贈 虞美人草 第2巻 昭和18年 久田端葉 点訳寄贈 海底戦記 昭和18年 岡崎富輔 点訳寄贈 海底戦記 下巻 昭和18年 荒木邦男 点訳寄贈 我ら戦う 昭和18年 岡崎富輔 点訳寄贈 海底戦記 上巻 昭和18年 久田端葉 点訳寄贈 爆雷の下に 潜水艦実践記 上巻 昭和18年 点字奉公会/小倉富司子 点訳寄贈 海軍 第1巻 昭和18年 いけやけいせん 点写寄贈 海戦 上巻 粟村チエ子 点訳 昭和18年 粟村チエ子 点訳寄贈 海戦 上巻 昭和18年 粟村チエ子 点訳寄贈 海戦 下巻 昭和18年 かじやまりつこ 点写寄贈 軍神を生んだ母 中巻、下巻 三浦みやけ 点訳 昭和18年 久田端葉 点訳寄贈 南太平洋の底をゆく 他二編 昭和18年 点字奉公会/鴛淵佐智子 点訳寄贈 海原にありて歌える 昭和18年 松本功 点訳寄贈 尊王攘夷の血戦 昭和18年 久田端葉 点訳寄贈 爆雷のもとに 潜水艦実戦記 ○○大尉手記  下巻 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 軍神 片山兵曹長 富岡初恵 点訳 昭和18年 杉橋親次 点訳寄贈 真珠湾潜航 下巻 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 海底戦記 上巻 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 海底戦記 下巻 久田端葉 点訳 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 真珠湾潜航 上巻 杉橋親次 点訳 昭和18年 日本点訳奉仕団 点訳寄贈 戦線 昭和18年 ながいとしこ 点訳寄贈 戦線 昭和18年 久田端葉 点訳寄贈 爆雷のもとに 潜水艦実戦記 下巻 昭和18年 日本点訳奉仕団 点訳 爆雷のもとに 潜水艦実戦記 下巻 ○○大尉手記 昭和18年 大日本点訳奉仕団/久田端葉 点訳寄贈 雲と行く 上巻 昭和18年 久田端葉 点訳寄贈 雲と行く 下巻 昭和18年 大日本点訳奉仕団 空の軍神 加藤隼戦闘機隊長 上巻 昭和18年 点字奉公会/内田須規子 点訳 大東亜戦争、第一歌集 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 空の軍神 加藤隼戦闘機隊長 上巻 昭和18年 浅田知恵 点訳寄贈 ソロモン海戦(少国民版) 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 小説海軍 第1巻 点字奉公会会員 小倉富司子 点訳 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 ソロモン海戦(少国民版) 浅田知恵 点訳 昭和18年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 小説海軍 第2巻 点字奉公会会員 小倉富司子 点訳 昭和18年 ささきひろし 点写寄贈 海戦 下巻 粟村チエ子 点訳 昭和19年 点字奉公会/松村百合子 点訳 戦う水雷戦隊 下巻 昭和19年 ふじたひでお 点写寄贈 報道班員の手記 鴛淵佐智子 点訳 昭和19年 久田端葉 点訳寄贈 日本刀の話 下巻 昭和19年 荒木邦男 点訳 詩集 大君の詩 昭和19年 奉公会/鴛淵佐智子 点訳 イギリス人のみた海軍兵学校 前編 昭和19年 ふえきうめじ 点写寄贈 歌集 みたみわれ 峰岸静江 点訳 昭和19年 大日本点訳奉仕団 点写寄贈 日本刀の話 上巻 久田端葉 点訳 昭和19年 久田端葉 点訳寄贈 艦砲射撃 歌集 昭和19年 ふじたひでお 点写寄贈 戦う水雷戦隊 上巻 松村百合子 点訳 昭和19年 奉公会/鴛淵佐智子 点訳 イギリス人の見た海軍兵学校 後篇 昭和19年 しらいよしお 点写寄贈 イギリス人(教師)が見た海軍兵学校 前編 昭和19年 ふじたひでお 点写寄贈 海軍総省戦ふ水雷戦隊 下巻 点字奉公会/松村百合子 点訳 [#106ページ] 2 点字出版書一覧 〔製作者注:以下、刊行年 書名の順〕 明治38年 マッサージ講習会講義録 前 明治42年 修養の模範 全(明治42年版) 大正2年 最近臨床診断学実習 巻の一 前編 大正2年 最近臨床診断学実習 巻の二 大正2年 最近臨床診断学実習 巻の二 後編 大正2年 最近臨床診断学実習 巻の三 後編 大正5年 近世生理学 巻の2 大正5年 近世生理学 巻の3 大正11年 天路歴程 正編 下巻 大正11年 代数学講義 第2巻 大正11年 平面幾何 第1巻 大正11年 代数学講義 第3巻 大正11年 世界地理講義 第2巻 大正12年 作文講義 第2巻 大正12年 作文講義 全 大正13年 ひかりの子 全 大正13年 近世内科全書 第1巻 血行器疾患 大正13年 母心 大正13年 増訂第9版 近世内科全書 第3巻 消化器 大正14年 鍼灸本義 上巻 大正14年 金のすず 上巻 大正14年 LES MISERABLES. 嗚呼無情 中編 大正15年 実業読本 昭和元年 岩の謎 昭和2年 鐘の音 昭和2年 なつかしき人々 昭和2年 文部省認定 平民詩人 第1巻 増補改版 昭和3年 (点字)曇りつ照りつ 昭和3年 鍼治新書治療編 2巻(装丁 第2版) 昭和3年 鍼治新書治療編 3巻(装丁 第2版) 昭和3年 聖杯の武士 昭和4年 中学国語科用 新編現代文新鈔 巻の1 昭和6年 点字 早稲田大学文学講義 徒然草講義 上巻 昭和6年 (点字)早稲田大学文学講義 文学概論 下巻 昭和7年 我らの主なる救主イエス・キリストの新約聖書(改訳) マルコ伝福音書 昭和7年 (点字)早稲田大学文学講義 徒然草講義 上巻 昭和7年 (点字)早稲田大学文学講義 徒然草講義 下巻 昭和7年 (点字)早稲田大学文学講義 国文法 中巻 昭和7年 日華事変忠勇美談集 連隊旗のひるがえるところ 昭和8年 正則中学講義録 西洋歴史講義 第1巻 昭和8年 フランダースの犬 昭和8年 新東洋史 昭和9年 中学校用 最新國史 巻の下 二 昭和9年 中学校国語科用 新国文読本 巻の2 昭和9年 鍼灸 マッサージ摘要 病理学知識 第2巻(総論) 昭和9年 鍼灸 マッサージ摘要 病理学知識 第3巻(各論 上) 昭和9年 中学校国語科用 新国文読本 巻の4 昭和9年 盲学校中学部鍼按科用 灸術教科書 昭和9年 アルタバン物語 昭和10年 盲学校中学部鍼按科用 解剖学教科書 上巻 昭和10年 盲学校中学部鍼按科用 生理学教科書 上巻 昭和10年 言文一致文體 昭和10年 盲学校中学部鍼按科用 解剖学教科書 下巻 昭和10年 盲学校中学部鍼按科用 生理学教科書 下巻 昭和10年 キャラメル王の体験談 昭和10年 灸法の学理 中巻 昭和10年 灸法の学理 下巻 昭和10年 和田翁歌集 昭和11年 中等新外國地理 下巻 昭和11年 講義付論語 3巻 昭和11年 俳句読本 全 昭和11年 中等新外國地理 下巻 昭和11年 講義付論語 二巻 昭和11年 東洋倫理講究会編 昭和12年 日本盲人協会推薦点字書 二宮翁夜話 昭和12年 改訂版 有機化学要論 昭和12年 ヘレンケラー物語 ヘレンケラー女史日本訪問記念 昭和13年 点図解剖図 昭和13年 椿姫 中巻 昭和13年 大地 第2巻 昭和13年 点字軍歌集(楽譜付) 昭和13年 点字 美談逸話名訓集 第1巻 昭和13年 大地 第一巻 昭和13年 大地 第二巻 昭和14年 盲学校中学部鍼按科用 診察法教科書 全 昭和14年 ことりのうたブック 第1巻 昭和14年 点字 昭和国民読本 上巻 昭和14年 点字 昭和国民読本 中巻 昭和14年 点字 昭和国民読本 下巻 昭和14年 日本盲人協会推奨点字書 二宮翁夜話 昭和14年 点字 軍人擁護 第2号 昭和15年 波 父の巻 昭和15年 日本の前身 昭和15年 点字 時局双書 第1集 我が戦時・財政・経済を守るもの 昭和15年 宮本武蔵 第2巻 昭和15年 点字 疼痛と其の治療 第1巻 昭和15年 (点字)皇国二千六百年史 上巻 昭和15年 点字 疼痛と其の治療 第2巻 昭和15年 点字新体制早分かり 昭和15年 (点字)皇国二千六百年史 下巻 昭和16年 病院船 昭和16年 点字 時局の重大性 昭和16年 臣民の道 昭和16年 防空の手引 昭和16年 (点字)国民礼法読本 昭和17年 点字教養講座 社会学 上巻 昭和17年 鍼灸マッサージ試験問題答案集 下巻 昭和17年 日本文化と日本精神 昭和19年 Little Lord Fauntleroy 昭和19年 宮本武蔵 第17巻 ※この他、刊行年不明の本が28点あります [#109ページ] あとがき 日本点字図書館 本部長 伊藤宣真 今年5月24日、本間記念室の委員4名で、茨城県下妻の道を歩きました。昭和19年3月、空襲を逃れ2,000冊の点字本を抱え疎開した本間一夫夫婦が、貸出のために郵便局までリヤカーを引いた道です。70年も前に1年弱しか住んでいなかった本間を憶えていた土地の古老がいらっしゃいました。道は変わっていない、あの道だよと教えていただいた道を歩きながら、私たちは思いました。生活すること、命を守ることで精いっぱいの戦時下に、なぜこの長い道のりを苦労して点字本を届けに郵便局まで行ったのか。 創立者本間一夫が没して12年が経過しました。今から思えばもっとたくさんの話を聴き、記録にとどめておけばよかったと思います。没後、再疎開先である本間の実家の蔵に置いていた点字図書等の資料が戻ってきたこと、本間が大学ノートに付けていた学生時代からの記録が館内で見つかったということ、この二つの出来事から、本間一夫の歩みと、終戦までの「日本盲人図書館」時代の姿を調査研究することが、本間記念室では大きなテーマとなりました。 本書では、生誕百年を機にこのテーマに沿ってこれまで調べたことを整理し、ご紹介いたしました。発見されたすべてのものを掲載することは誌面の都合でできませんでしたが、本間一夫の姿と、「日本盲人図書館」の時代を伝え得る資料を選択し掲載できたと思います。 資料の収集にあたっては、本間の姪にあたる増毛の林花織様、本間櫻様を始め、関係各方面にご協力いただきました。編集にあたっては小学館スクウェアの皆様にお世話になりました。費用にあたっては公益財団法人一ツ橋綜合財団様にご助成をいただきました。そして刊行が実現しましたのは、理事長田中徹二のご挨拶にもありますが、株式会社小学館代表取締役社長相賀昌宏様のご理解とご支援のおかげです。皆様方に深くお礼を申し上げます。 本書はまだ契機にすぎません。今後も調査研究を進めなくてはなりませんし、並行して現在収集している資料の保存と整理、データ化も必要です。 今後も皆様のご協力とご支援を乞うところです。 [#110ページ] 引用・参考文献一覧 (編著者名50音順・発行年順) 阿佐博(2004)「本間一夫氏と点字」『日本の点字』(29)、9-17 池田澄子(1994)『愛の点字図書館長:全盲をのりこえて日本点字図書館を作った本間一夫』偕成社 加藤善徳(1957)「点字図書館の現状はこうです」『図書館雑誌』51(11)、502-506 加藤善徳(1965)『目の不自由な人々の読書:点字と録音テープの図書館』(日点文庫 No.4)日本点字図書館 加藤善徳(1973)『点訳奉仕運動はひろがる:提唱者後藤静香の思想と実践』(日点文庫 No.6)日本点字図書館 加藤善徳(1975)『盲人福祉に生きる:生きがいを求めて40年』(日点文庫 No.12)日本点字図書館 キャラミ・マースメ、川内清彦(2011)「昭和初期における日本点字図書館の事業継続要因として失明軍人の果した役割」障害科学研究35、95-107 斉藤恒子(1965)『わが国における点字図書館の歴史:日本点字図書館を中心として』(日点文庫 No.1)日本点字図書館 世界盲人百科事典編集委員会編(1972)『世界盲人百科事典』日本ライトハウス 竹林熊彦、小野則秋、宮田平三(1955)『特殊図書館』蘭書房 立花明彦(2010)「図書館の黎明期における点訳奉仕運動」、日本点字図書館編『点字とあゆんだ70年:日本点字図書館点訳奉仕活動の記録』日本点字図書館 谷合侑(1998)『盲人福祉事業の歴史』明石書店 谷合侑(1994)「本間一夫と日本点字図書館」日本点字図書館50年史編集員会編『日本点字図書館50年史』日本点字図書館 図書館問題研究会編(1981)『障害者と図書館:図書館奉仕の原点としての障害者サービス』ぶどう社 直居鉄(2004)「本間一夫先生の〈点字の心〉」『日本の点字』(29)、17-24 西脇智子(2014)「『図書館史』における〈本間一夫と日本盲人図書館〉の史実を探る」『実践女子短期大学紀要』35、95-107 日本点字図書館50年史編集員会編(1994)『日本点字図書館50年史』日本点字図書館 日本ライトハウス21世紀研究会編(2002)『わが国の障害者福祉とヘレン・ケラー:自立と社会参加を目指した歩みと展望』教育出版 古澤敏雄(1997)『本間一夫 この人、その時代』善本社 本間一夫(1940)「開館にあたりて」『図書館ニュース』創刊号[点字]、日本盲人図書館 本間一夫(1941)「〈日本盲人図書館〉に就いて」『図書館雑誌』第35年第10号、722-723 本間一夫(1941)『日本盲人図書館開設1週年』日本盲人図書館(非売品) 本間一夫(1942)「時局下盲青年に告ぐ」『点字倶楽部』第90号[点字]、陽光会 本間一夫(1942)「日本盲人図書館」『厚生事業』9月号、東京府社会事業協会 本間一夫(1942)「盲人図書館建設への御協力」日本盲人図書館 本間一夫(1943)「日本盲人図書館の新館落成」『図書館雑誌』(284)、489 本間一夫(1943)「日本盲人図書館だより」第1信、日本盲人図書館 本間一夫(1943)「日本盲人図書館概要」日本盲人図書館 本間一夫(1944)「日本盲人図書館だより」第2信、日本盲人図書館 本間一夫(1944)『点訳通信』第1報~第3報、日本盲人図書館 本間一夫(1944)「日本盲人図書館だより」第3信、日本盲人図書館 本間一夫(1944)「日本盲人図書館概要」昭和19年版、日本盲人図書館 本間一夫(1948)『点訳通信』第4報、日本点字図書館 本間一夫(1949)『点訳通信』第5報~第7報、日本点字図書館 本間一夫(1950)『点訳通信』第8報~第13報、日本点字図書館 本間一夫(1951)『点訳通信』第14報~第19報、日本点字図書館 本間一夫(1951)「点字の世界:盲人にも文化を与えよ!!」『文藝春秋』29(2)、187-193 本間一夫(1952)『点訳通信』第20報~第24報、日本点字図書館 本間一夫(1980)『指と耳で読む:日本点字図書館と私』(岩波新書 黄版138)岩波書店 本間一夫(1997)『点字あればこそ:出会いと感謝と』善本社 本間一夫(1999)『忘れ残りの通信集:点訳ボランティアの方々へ』日本点字図書館(非売品) 本間一夫(2001)『わが人生「日本点字図書館」』日本図書センター 本間一夫・緑川 亨(1977)「日本点字図書館:37年の歩み」『世界』(381)、145-163 協力(順不同・敬称略) 林花織(國稀酒造) 本間櫻(國稀酒造) 本間一明 本間一泰 望月実 増毛町教育委員会 関西学院大学学院史編纂室 厳島神社(増毛) 願王寺 龍渕寺 函館教会 輪島彰(無垢里) 高橋その 堀口泰正 本間記念室委員会 委員長 河幹夫(日本点字図書館理事・神奈川県立保健福祉大学教授) 委員   立花明彦(日本点字図書館評議員・静岡県立大学短期大学部准教授)   西脇智子(実践女子大学短期大学部准教授)   伊藤宣真(日本点字図書館)   小野俊己(日本点字図書館)   渡邉明(日本点字図書館)   濱田幸子(日本点字図書館) 分担編集者および執筆者一覧 伊藤宣真(第1章、あとがき) 小野俊己(第4章1) 立花明彦(第2章、第3章4、第4章2) 西脇智子(第3章1・2・3、第4章3、巻末資料4・5) 濱田幸子(第5章、巻末資料1・2・3) 渡邉明(第1章) 点字触読協力者 佐藤義裕(日本点字図書館) 山縣文(日本点字図書館ボランティア) この冊子は、公益財団法人一ツ橋綜合財団の助成により製作いたしました。 原本奥付 本間一夫と日本盲人図書館 本間一夫生誕百年記念出版 2015年10月7日 初版第1刷発行 編集 本間記念室委員会 発行 社会福祉法人 日本点字図書館 〒169−8586 東京都新宿区高田馬場1−23−4 Tel:03−3209−0241(代表) URL http://www.nittento.or.jp/ ISBN 978-4-7979-8221-3 非売品