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第49回 随筆随想コンクール 優秀作品

女房の手

神奈川県 江川 稔(えがわ みのる)

 「おまえには心がないんだ。心がこもっていないんだ」
 見えなくなる度合いが進むにつれて、その苛立ちをぶつけるところがなく
つい、女房にやつあたりしてしまう。一緒に外出すれば、介助する彼女に、いちいち突っかかる。
 「ガイドヘルパーさんは、もっと私を自由に歩かせてくれる」と言い、なんで、電車を降りて、ホームの人達が少なくなるまで、柱の陰で人混みがなくなるまで待っていなければ行けないんだ。始発のバス停では空席がないから、次のバスにしましょう。とか、それでも、私がそのバスに乗るんだと言いはると、「じゃあ、白杖をたたんでね」と言う。先に乗って座っている人の前に、私が白杖を持って立つのを敬遠しているのだ。席を譲らなければならなくなる人の事を気遣っているのだ。
 「おれだって、普通の人のように人混みの中を歩いたり、乗りたいバスに乗りたいんだ」
 「障害者だからといって、なんで遠慮しなくてはいけないんだ」

 食事をしていても、最近はご飯を茶碗からうまくお箸でつかめなくなり、ぼろぼろ、こぼしてしまう。中央に盛られた惣菜もつかみ損ねて途中で落とす。私のために、いちいち小皿に取り分けてくれるが、やはり、鍋物など家族で一つの鍋をつつくのが楽しいのに・・・・。これもできなくなってしまった。
 あまりにも、胸元にご飯やおかずをこぼすので、
 「おとうさんには前掛けが必要ね」
 「スプーンで食べたら」
 「あーあ、汁をたらした」
 「そのまま動かないで、お膳をふくから」と、次から次へと言われる。
 「この歳で、前掛けができるか、スプーンで食べるなんて、赤ん坊じゃないんだぞ」
 「もー、いやだ、勝手にさせてくれ!」と、怒鳴って食卓をひっくり返してしまいたくなる。見えないんだからしかたない、もうここまで見えなくなってしまったんだという自分を認めなくてはならない悲しさが、こみ上げてきて、こんなみじめな気持ちは誰にもわかってもらえないんだ。手を出して補助することが親切で気が利いていると思ってるんだ。
 「俺の気持ちなんか全然わかっていない」と、自分勝手に考えてしまう。

 十数年前、眼科医から、ゆくゆくは失明も・・・と宣告されたときは私のみならず女房の気持ちはどうであったろう。友人や親戚から「○○の目医者がいいよ」と聞いてきては私を連れ回した。中には祈祷師の前まで連れて行かれた。高価な飲み薬を買わされそうになったこともあった。しかし、いくら大学病院や有名な眼科医を訪ねても結果は同じであった。

 六十歳の定年までどうやら勤め上げ、その後、家に閉じこもっていてもしかたないので、盲学校の理療科へ、そして鍼灸の国家資格を取得。そして今年はもう六十六歳。それでも、私の心は少しも落ち着いていない。
 家の中では家族とうまくすれ違えなくなって、ぶつかりそうになる。足下に置いてあるものに、つっかかる。雨の日には部屋の中に干された洗濯物に顔をなぜられ、びっくりする。その度に女房は「あ、あぶない!ごめんなさい」と声を出してあやまる。「それだったら、はじめから、そんな所にものを置いたり、洗濯物をつるすなよ」と心の中で恨んでしまう。

 私は結婚がとても遅かったので、息子達はまだ大学と高校生。親への反抗期の真っ最中。母親は毎日、下の息子からは怒鳴られ、言うことは聞いてもらえず、文句ばかりを聞かされている。さらに、朝から晩まで家にいる私の世話や小言にも耐えている。まるで大きなわがままな子供を三人抱えているようである。その中でも私が一番がんこで手の焼ける大供だろう。

 そんなある日、二人で出掛けなければならないことがあった。いつものように彼女の右肘につかまり介助されて歩いていた。すると、人混みのなくなった道路で彼女は歩みをゆるめて、私のつかんでいた肘を静かに放し、私の手をそっと握ってきた。何年ぶりだろう。こうやって彼女と手をつないで歩くのは。結婚前以来である。あのころ、ふっくらした柔らかな手も、その後の炊事や洗濯、子育てで滑らかさはすっかりなくなってしまった。でも、手の温もりは増しているような気がした。そうだ、私は目が悪いんだから、こうやって二人で手をつないで歩いてもいいんだ、とうれしくなって、「これからも手をつないで歩こうよ」と言おうとすると、向こうから人が近づいてきた。女房はさらっと手を放し、前のように私に肘を貸した。目が見えなくなった私は他人の目が気にならなくなったのだが、女房はやっぱり恥ずかしいんだろう。
 ちょっと女房の心の奥に触れた出来事でした。

本文 おわり

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