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第50回 随筆随想コンクール 優秀作品

初めての点訳

福岡県 吉松 政春(よしまつ まさはる)

 今年もまた暑い夏がやってきた。そんな暑さをのがれ、涼を求めてこの地を訪れたのはもう何度目だろう。年々観光客が増えている。数年前日本一のつり橋ができてますます人だらけ。五〇〇円を払って渡るだけの価値があるのだろうかと半信半疑で行ってみた。四〇〇mもある橋だけに両側から人がくると結構揺れる。思ったより楽しい。
 この土地に初めてきたのはもう随分前のことになる。その時のことはけっして忘れない。お世話になったAさんの墓参りのためだった。Aさんは死刑囚だった。しかし、失明して間もない私にとっては読みたい本を短時間で点訳してくれるAさんは貴重な存在だった。今のようにパソコン点訳などない時代。点訳ボランティアの人達は、点字板やタイプライターを使い、時間をかけこつこつと手作業で点訳していた。一冊の本ができあがるまでに一年近くの時間がかかることもある。一年もたってしまうとどんなに読みたい本も色あせてしまう。本を読むことが唯一の趣味だった私には、失明は大きな痛手だった。テレビやラジオで新刊書やベストセラーの話題を聞くたびに失明という事実が何よりも重く感じられる。姉が時々新刊書を買ってきては読んでくれたが、そんなに時間はとれない。盲学校の図書館や点字図書館を知り読書の喜びを少しではあったが取りもどすこともできた。でも、私は新刊について行けない。
 そんな時、ある人の紹介でAさんを知った。拘置所で点訳をしているという。ちょうど「かもめのジョナサン」がベストセラーになっている時だった。わずか数日で点字になって手元に届いた。ちゃんと製本までしてある。感動という言葉では表現できないほどうれしく、すぐにお礼の手紙を書いた。今思い返すと十分に感謝の気持ちを伝えていなかったのではないだろうか。
 それからAさんとのつきあいが始まった。私が墨字の本を送るとAさんから点字の本が送られてくる。お礼の手紙を出すとちゃんと点字の返事がきた。「今、再審請求をしています」と書かれていたこともあったが、私にはよくわからなかった。いや、わかろうとしなかったのかもしれない。私は、Aさんは「大事な点訳者」としか考えていなかった。
 知りあって三年目の頃、ふと気づくとAさんからの手紙がしばらくこない日が続いていた。毎日の盲学校生活の中で気にはなっていたが、時間だけが過ぎていった。ある日、Aさんを紹介してくれた人に「この頃Aさんからの手紙がきません」と何気なく話す機会があった。すると、しばらく間があって、「死刑になったんだよ・・・」という言葉が返ってきた。ショックだった。盲学校の寄宿舎まで帰る途中涙が止まらない。死刑になる・・・。私はそんなことは考えたこともなかった。その時初めて点訳者が一人いなくなったということよりも、一人の人が死刑になったということが心に重くのしかかってきた。一体Aさんはどんな人だったのだろう。どんな罪だったのだろう。どんな思いで点訳をしていたのだろうということを改めて考えさせられるとともに、自分の身勝手さが恥ずかしくなった。
死刑になるだけの罪を犯したんだから仕方がないんだよという人もいた。もし、おまえの大事な人が殺されたらその犯人に対しても同じような気持ちでいられるかと言われたこともある。つい先日も死刑が執行され話題になった。でも、私にはAさんの死刑の意味は今でもわからない。
 あれから三十年以上が過ぎた。今ではAさんの事件の内容もおおよそではあるが知っている。死刑の直後に無理をいって墓参りにも行かせてもらった。でも、やっぱり私はAさんの気持ちに応えていないような気がする。Aさんに対する恩返しは何だろうと時折考えてしまう。
 盲学校を卒業し就職した。結婚して家族もできた。今では、先人の「失明は不便だけれども不幸ではない」という言葉が実感できる。でも、今の私は家庭や職場に守られぬくぬくと生活しているだけではないだろうか。誰かに恩返しをしなければならないことがたくさんあるのではと思えてならない。揺れる橋の上でまたそんな自戒の念にかられる一時であった。

本文 おわり

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